2019年7月18日木曜日

【時事/サブカル】京アニ放火テロ事件について!

時事/サブカルコラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2018/12/blog-post_29.html
萌え論~今年、街角で見かけた萌えキャラたち!~







☆サイト『痛いニュース』より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1992169.html


☝・・・令和年間に入ってからというもの、陰惨な事件が目立っていますよね。 中年男性が無差別に人を殺傷するといった、身勝手な犯罪が。


そしてつい昨日も心痛む事件が起きてしまいました。 京都アニメーション・・・略して京アニの施設が放火テロにあい、33名もの方が亡くなったという事件です。


この事件・・・本当にいたたまれないですよね、どうしてこのような事件が起きてしまうのでしょう。


衝撃を持ってこのニュースに接するうちに、わたしはあることを思い出しました。 そう、わたしには京アニについて、ささやかな思い出があるのです。 そしてそれは今から10年弱ほど前の話だ。







その当時・・・東日本大震災から数年と経たない当時、わたしはいわゆる「民泊」を利用して京都観光に訪れていた。  その当時は「民泊」という施設の存在もあまり世に知られてはいなく、「ゲストハウス」という呼び名だったかと思う。 そして、わたしが利用したゲストハウスは、京都・伏見駅からやや離れた住宅地の中にあり、料金は一泊素泊まりシャワー付きで2000円弱ほどであった。


ゲストハウスには様々な人が利用する。 日本人もいれば、外国人グループもいる。 そういったゲストハウスで、わたしとたまたま居合わせたのが、北海道から来ていた30歳前後の日本人男性だった。


ゲストハウスにはキッチンやダイニングといった共有スペースがあることが多いので、居合わせた方とのちょっとした挨拶や世間話は欠かせない。 その男性とのそつのない会話のなかで、わたしが尋ねた、


「どこか観光ですか?」 という問いに、彼がやや照れ笑いをしながら返してきた言葉が、


「・・・京アニって知っていますか?」 という答えだった。  ・・・それが、わたしにとって初めて知り得た単語・京アニであった。







☆『けいおん! プレシャスメモリーズ』より


☝・・・わたしはアニメのフリークではないけれど(一般人レベルだと思います)、そのかわり歴史好きですからね、そういった「聖地巡礼」的な旅行の動機は十分すぎるほど理解できる。 その方はにこやかに、控えめに旅の動機などについて語っていた。(その中には身の上話もあったのですが、それについては割愛します)


その人とは2日間にわたって顔を合わせて話をしたけれども、その中でわたしは、多くの人から愛されるアニメ制作会社・京アニが京都・伏見(正確には木幡)にあることを知ったというわけなのです。







あの時以来。 昨日今日と陰惨なニュースを見聞きして、京アニのいちファンであったその男性を、わたしはうっすらと思いだしたという訳なのです。 きっと彼も、今回の事件に触れて、心を大変に痛めていることでしょう。


謹んで、亡くなった人たちに哀悼の意を表すとともに、二度とこのような事件が起こらないことを願います。


(つづく)




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2019年7月14日日曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(15)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/07/ixa.html
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(14)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら





☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は第15回目ということで、いまだ終わりの見えないストーリーの終焉に向かって進んでいこうジャマイカ。







(前回のあらすじ)


天正4年(1576)9月のこと。 仙道の国衆・田村氏が突然佐竹陣営から離れ、蘆名方へと鞍替えをした。 田村・蘆名の両氏は連合軍を結成して、佐竹氏に反転攻勢をかけてゆく。


天正5年(1577)閏7月、蘆名ー田村連合軍は戦局を優位に進め、やがては白河城を包囲・攻撃する構えを見せた。 これに対し、佐竹義重は同城を放棄することを決意、白川領南部の赤館、ならびに寺山城へと退く。 その際、義重は地侍に謀反を起こされ、重臣を討ち取られるなど一時は危険な目にあったが、辛くもそれを切り抜けることができた。


のち、佐竹義重は蘆名ー田村の北方戦線とは一時停戦する意思を固め、根回しを行った。 その結果、伝承では上杉謙信が、残存史料的には結城晴朝が中人(仲裁者)となり、この講和を成立させた。


北条氏という別の強敵を抱える佐竹氏にとって、この講和はきわめて合理的な判断であったが、一定の譲歩を強いられたこともあり、「坂東太郎」「鬼義重」と畏怖された佐竹義重にとっては屈辱の講和であった。(前回のあらすじ、ここまで)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国サーガ』より、佐竹義重


☝・・・合戦、あるいは戦い全般というものは、濃密なコミュニケーションであると言われている。 この前後の合戦で、蘆名盛隆率いる蘆名軍の戦いぶりに佐竹義重は目を見開いた。 それは単純で稚拙、なんのケレン味もない軍の動かし方ではあったが、その闘志みなぎる攻撃姿勢に、義重には何か感じるところがあったようだ。


そして、義重は戦場で対峙する敵将・盛隆に対して、ある一つの思いを抱き始める。 それは始め、「アンタの愚直な攻撃・・・嫌いじゃないよ」的なものであったが、その思いは次第に変化をしていく。


恋慕ーーーそう、彼(義重)の言葉を借りれば、なんと恋慕の想いへと化していたのだ。


・・・ココ、笑うところじゃないですよ! 義重さんってばマジなんですから・・・
(`・ω・´)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した蘆名盛隆


「一目見染めしより、恋慕浅からずーーー」


☝・・・天正5年(1577)のころ、蘆名盛隆のもとに佐竹義重からの書状が届いた。 そしてそれはどう見ても恋文であったのだと、記録ではそう書かれている。







「馬鹿な俗説を真に受けてるんじゃねーよ!」ヽ(`Д´#)ノ

「どうせBL好きな、一部の人たちに曲解された資料でしょう?」(´・ω・`)


・・・このように思われる人もいるかもしれない。 かくいうわたしもこの逸話について、はじめは出所不明で眉唾な話だと思っていましたが、いろいろと調べていくうちに、どうもこの逸話の信ぴょう性は高いと思い直すに至ったのです。


と、いうのは、この逸話は『武功雑記』という書物に書かれているからだ。







【書物『武功雑記』について】


☆『千万の覇者』より、松浦隆信


☝・・・戦国時代のころ、肥前の国・平戸島に松浦氏という中小の大名がいた。 松浦氏は水軍が強いことで知られ、生存競争の厳しかった戦国の世を生き延び、やがて平戸藩を成立させる。 ここで掲示したキャラ絵の戦国武将・松浦隆信の子孫に、鎮信(しげのぶ)という藩主がいた。


平戸4代藩主鎮信は江戸時代前期を生きた人物で、「島原の乱」でも功績があったこの武将は、学問好きの殿様としても有名であった。 そして趣味と実益を兼ねて、戦国武将のさまざまな逸話を集めては精査し、記録に残すという事業を行うこととなる。 ・・・その結果、纏められたのが件の書物『武功雑記』という訳だ。


要は、戦国時代の逸話について、江戸時代になってから成立した書物ということであるけれども、だからといってバカにしてはいけない。 『武功雑記』に採用された逸話の多くは歴史事件の当事者から聞き書きをしたものであり、それは一次史料ではないものの、そんじょそこいらの「軍記物」とは別格の信ぴょう性を持つと思われるからだ。


わたしも確認をしましたが、確かに『武功雑記』の巻二に佐竹義重と蘆名盛隆の逸話が載っておりました。 そして、その前後の文章を通読するに、現代の通説とはやや異なる部分があって100%の信用はできないものの、「ある一定の事実を反映した内容」であることは納得できました。


なんせ、この『武功雑記』は、早くから『甲陽軍鑑』の信ぴょう性について考察を行い、「疑わしい」という評価をつけるなど、硬質な編集者が携わっていたと思われて、そういった点でもこの書物の史料的な価値は高いとみなされているのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・さあさあ、佐竹義重からの恋文を貰った蘆名盛隆はどのような対応をしたのだろうか。


先ほどの『武功雑記』では、


❝書を通じせしかば、さっそく同心にて契りう、云々・・・❞とあり、


カップル成立を明言している。 @@







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


うーん。 w


ちなみに、この時の年代は天正5年(1577)、そしてこの時点での佐竹義重の年齢は30前後で、蘆名盛隆の年齢は16前後だと思われる。


佐竹と蘆名の両当主が男色関係にあっただなんて、個人的にはにわかには信用できないというか、信じたくない思いもあるのですが、w、「不倶戴天の敵」でもあった両家の関係が急速に改善に向かった事実、そして「これ以降の盛隆の行状」を考えれば、義重ー盛隆のカップリングは、「さもありなん・・・」と感じてしまいますね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・花は咲いては実を結ぶ。 実を結ばない花は徒花(あだばな)と呼ばれ、虚しきものの象徴として扱われるが、戦国天正年間のここ奥羽でも、見事なまでの徒花が咲き誇ったのであった。


あだ花の名前を、蘆名盛隆という。 この花は今後数年間にわたり、奥羽の地でいくつかの花を咲かせることとなる。







さてさてどうなる会津の蘆名家。 今回はこのあたりでいったんお開き、次回に続くー!
(*´ω`)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年7月9日火曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(14)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_30.html
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(13)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら




☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は第14回目ということで、今回も元気よく行ってみよう。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な支配領域



☝・・・さて、今回は南奥の戦況のおさらいから始めよう。


このころの蘆名氏は佐竹氏と戦って(元亀・天正の白河戦役)、そして全面的な敗北を喫したことは以前にお伝えした通りだ。 その蘆名の敗北に大きく影響していたのが、田村氏の裏切りであった。


なお、裏切りといってもそれはあくまでも蘆名側の視点であって、田村氏からすれば「乗り換えること」は悪ではなく、むしろ正当な機略だと言えた。







☆『千万の覇者』より、田村隆顕


☝・・・田村氏とは、陸奥の国・田村郡三春城を本拠した中小の大名だ。 その家の由緒は、平安時代の名将・坂上田村麻呂を祖であると称してはいるが、どうやらその確証は無いらしく、仮冒(かぼう)、いわゆる自称だと思われる。


そして田村氏が大名として存在感を発揮するようになったのは「伊達氏天文の大乱」以降のことであり、同氏は仙道地域において比較的新興の勢力であった。


田村氏が力を伸ばし始めたころ、当主の座にいたのは隆顕(読み:たかあき、キャラ絵の人物)である。 この人物は合戦や外交に巧みであったと言われているものの、彼は天正2年(1574)に亡くなっている。 ここのブログのお話し的には、蘆名盛興の死去した時期とほぼ同じころだ。


そして、新しく当主となったのがその嫡子・清顕(きよあき)で、その経験の乏しい新当主を大叔父の顕頼(あきより)が補佐をしていた。







☆『信長の野望』シリーズより、田村顕頼


☝・・・顕頼は月斎(げっさい)と号し、軍師として田村氏の武士団を事実上掌握しており、ローカルではその名を知らぬものはないというほどの武将であった。 いくつかの書籍によると、この月斎の活躍があってこそ、田村氏は一つの勢力として纏まることができ、さらに勢力を拡大できたのだという。


しかも、この月斎顕頼という人物は年齢もすごい。 生没年は不詳とされるものの、おおよそ100年、あるいはそれ以上は生きたと思われ、個人的には龍造寺家兼北条幻庵に並ぶ「戦国三大爺さま」の一人に数えていいように思う。


ただ、そんな月斎の活躍を記した資料は「軍記物」といったものがほとんどで、学術的な信ぴょう性は低いとみなされている。 とはいえ、戦国時代の仙道地域、それも中小の大名に謎の軍師がいたという伝承は興味深く、ロマンをふんだんに感じてしまいますね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


えー、・・・脱線が過ぎたでしょうか。


☆『信長の野望』シリーズより、田村清顕


☝・・・蘆名氏が裏切られたのは、このような背景を持った田村氏である。 ただでさえ手ごわい佐竹氏に、謎の老軍師・月斎率いる田村氏とがタッグを組んでいたために、蘆名氏は仙道地域に乗り込んで戦いを仕掛けることがなかなかに難しくなってしまっている、そんな状況であった。







だがしかし。 天正4年(1576)のころ、田村氏が再度その態度を一変させる。 すなわち、佐竹氏の側を離れ、今度は蘆名方の味方をするようになったのである。


は? なにその行ったり来たりのヤジロベーは・・・。 @@;


その原因についてはまったくの不明。 今までの経緯から見ても不可解であるものの、田村氏が急に佐竹氏から離れていったことは事実のようだ。 おそらく、両家の首脳クラス同士で何かしらのトラブルがあり、やがて決定的な破局となったのだろう。


とにかく、田村氏は佐竹氏と再び戦いはじめるようになる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「これは好機だ! わしは田村と話をつけるゆえ、盛隆は急ぎ出陣せよ」


事態の急変を受け、蘆名盛氏は迅速に田村氏に触手を伸ばした。 こうして蘆名氏と田村氏はふたたび友好関係を結び、対佐竹氏の共闘が再開されたのである。 そしてこれが平四郎盛隆の初陣となった。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


盛隆 「血沸き肉躍るッ! これが実戦の戦いかー!」


☝・・・ふつう、身分が大名クラスの武将の初陣といえば儀式的なものであって、「勝ち確定」で、なおかつ安全な戦いが選ばれることが多い。 しかし、この頃の蘆名家には、盛隆のために楽な戦いを選んで初陣を飾らせようなどという余裕は無かった。


しかし、さすがというか、蘆名盛氏の眼鏡に適っただけあってか、盛隆は期待されたとおりの働きをこなすのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)





☝・・・再び手を結んだ蘆名ー田村両軍は、仙道の佐竹勢力を北から南へと押し返していく。 まず、蘆名方は石川領内の佐竹勢力を駆逐した。 つづいて、蘆名方はその余勢を駆って白川領内に侵入、佐竹方に対して戦局を優位に進めていった。 やがて蘆名方は、南奥の入り口ともいえる赤館(いまの棚倉町)まで佐竹方を押し返すことに成功する。


これはまるで、オセロのゲームで「辺(端)」から辺へと駒がひっくり返され、盤面がイッキに白が黒へと変わっていく様を見るような、鮮やかな蘆名方の反転攻勢劇であった。


しかし、南奥ー常陸の回廊入り口に当たる赤館には佐竹氏によって堅固な山城が複数築かれており、それらの城が「オセロの隅」の働きをし、それ以上の蘆名方の侵入を阻んだのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、佐竹義重


義重 「チックショウ! せっかく奪った領土のほどんどがパーかよ! ・・・こちとら北条とも戦ってんだから、ちっとは手加減しろよ・・・」


・・・そう、このとき押されまくった佐竹氏は、南方で北条氏とも戦っている最中でもあったのだ。


ここで佐竹義重は、南北両面に敵を迎えて戦い続けることの難しさを痛感し、蘆名方との和睦を画策することになる。 義重は、下総の大名・結城晴朝に中人(第三者的立場の仲裁人)を依頼した。 こうして、いくつかの話し合いのあと、蘆名ー佐竹間で和睦が結ばれたのである。







☆『千万の覇者』より、佐竹義重


義重 「ふぅ、ひとまずの和睦が結ばれて助かったぜ。」


義重 「・・・。」


義重 「しっかし・・・蘆名家を継いだとかいう、人質上がりの二階堂の若造・・・盛隆といったっけか、アイツ・・・」


義重 「・・・アイツ、いいオトコだったな・・・」


@@; !?







さてさてどうなる会津の蘆名家。 ドキドキの展開は次回へー、お楽しみに!
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


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2019年7月5日金曜日

【戦国ixa】「大殿様からの号令」イベント、開催される!(ワールド4+5)

ixaコラム:経験0からのIXA!









関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_19.html
意味は無くともイッキ引き!(令和元年6月度)


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


https://cache.sengokuixa.jp/www/gourei/index.html


☝・・・そういえば、6月末から7月アタマにかけてイベント合戦「大殿様からの号令」が行われましたよね。 今回はこの話を・・・。









☝・・・(途中経過は端折りますが)、味方筆頭同盟を仕切る方が頑張って段取り・作戦立案・進行をしてくれたおかげで、その結果、見事、敵大殿の攻略に成功ッ!


わたし個人はというと、とても華麗な戦いはできませんでしたが、orz、味方筆頭同盟からの要請で「敵筆頭同盟のアクティブ1名を葬る戦い」に参加・合流、微力の貢献をしました。


それにしても、今回わたしたちが対戦した敵大殿の防御力は推定10億だとかで、その桁の違う防御力に驚かされたのですが、それにも増して、そんな強敵であっても、うまいこと調整・段取りをすれば攻略が可能なんだなぁ、ということを知らされました。


作戦立案などの段取りをした方、さっすがです!
(^ω^)b









☝・・・ところで、クエスト報酬の兵 「期間限定・上級兵5万」 っていったい何だったのでしょう? 私たちの国では大殿(敵筆頭同盟)を最初に攻略したので、まったくといっていいほど役に立たず・・・w
(´・ω・`)


合戦後に消えてしまうくらいなら、もう少し兵数を下げてもいいから、残るような兵であってほしかったですねぇ。







(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)


また話は変わって、




☝・・・ところで、今期・・・「日ノ本燎原の合流の仕様」ですが、合流する時と場合によっては時間がバラバラになってしまって、着弾時間が合わせられずに、今回のような共闘ではどうするのかしら? と、わたしなんかは思っていたのですが、それを解決する方法があったのですね!


【着弾時間を合わせる方法】


1.合流メンバーを決める。 飛び乗り厳禁
2.いったん5分セットで全員合流する
3.着弾までの時間が分かる
4.合流キャンセル、いざ本番へ


☝・・・な、なるほど・・・。 飛び乗り禁止、編成を変えることがダメというのがネックですが、教えていただくまでは気づきませんでした。


まさに目からウロコです! @@







と! いうことで引き続き楽しんでいきましょう。
(`・ω・´)ノシ!


(つづく)




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2019年6月30日日曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(13)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_24.html
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(12)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら





☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、第13回目となります。 今回は、蘆名家の当主未亡人・彦姫の新たな婿として、二階堂家の人質・次郎が指名されたところからスタートしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・天正2年(1574)、あるいはその翌年のこと。 会津の隠居・蘆名盛氏は、嫡男・盛興の死を受けて苦心の末、蘆名家長久の策を定めた。 その骨子が、


・蘆名の嫡統は盛興の忘れ形見・れんみつとし、彼女が成長したのちに女子相続させる。
・当主未亡人・彦姫は盛氏の養女となり、家中では盛氏に次ぐ地位とする。
・彦姫には婿を迎え、その者に「陣代」、当主の務めを代行させる。


☝・・・この3点である。 これは盛氏が蘆名家の中枢、重臣のみに打ち明けた方針であった。


なお、これは通説とは異なる見解が含まれているのでご批判を受けるかもしれない。 ただ、その根っことなるのは、(女系とはいえ)自らの直系、孫が可愛かった」という、盛氏の人としてあまりにも自然な感情があったのではないかという推測に基づいている。 今後はこの仮説に従ってお話を進めていきたい。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【れんみつ姫出生の謎】~蘆名家マニアックス~




☝・・・れんみつ姫の出生には謎が多い。 なお、謎と言ってもそれはミステリーという意味ではなく、ミッシングといった部類だ。


まず、れんみつ姫の両親はだれか? というそもそもの前提が確定していない。 彼女の父については蘆名盛興で、やがて二階堂次郎(のちの蘆名盛隆)の養女になったという説が有力だ。 また、異説もあるにはあるようだ。


そんなところ、中学教諭で郷土史家の林哲先生が昭和50年代に書かれた書籍によると、そこにはれんみつ姫の享年が載っており、逆算をするとれんみつ姫の生年は天正4年(1576)となり、父が盛興であるという説が微妙になってしまう。 そう、盛興は天正2年、あるいはその翌年に亡くなったとされているからだ。


ただ、れんみつ姫が天正4年(1576)に生まれたのが真実だとして、盛興の死去が天正3年中、そして亡くなる直前のタイミングで彦姫が子種を宿したとすれば、ギリギリセーフで仮説の整合性が取れる。 こういったことも、失われた物語としてあったかもしれませんね。 (ただし、「数え年」ならアウトになってしまいます)


また、れんみつ姫の母についても、「その母は誰々だ」とハッキリ明言した史料が見当たらないことから、これも彦姫だと断言することはできない。 盛興が彦姫と結婚したのは20歳を過ぎて数年が経った頃で、その時に盛興には側女・妾といった女性がいた可能性があり、そういった女性がれんみつを生んだかもしれないからだ。


と、このように疑いだしたらキリが無いのですが、れんみつ姫の両親が盛興ー彦姫であることを積極的に否定する資料もまた見当たらないことから、ここは穏当に通説に従うことにしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、お話しは元に戻り・・・。


☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


二階堂盛義 「ひょえー! ワシの嫡男が、蘆名の御台様の後釜の婿になる、だとぅ・・・!?」


蘆名当主の未亡人・彦姫の新たな婿に二階堂家の嫡男・人質の次郎が指名されたという事実は、晴天の霹靂、それも巨雷が落ちたかのように会津盆地に轟き、瞬く間に周辺へとその風聞は広まっていった。 


このことは傍目には、蘆名家の嫡統が二階堂家に移ったと見えることから、蘆名盛氏の長久の計画を知らぬ人々はこの決定に、「とうとう盛氏公は耄碌なさったか、嫡庶の順、血の濃い薄いも分からなくなってしまったとは・・・」などと悪しざまな噂をした。


その悪しざまな噂は批判の風聞となって、蘆名の家中・洞中、そして周囲の大名の今後の動向に影を落とすことになるのである・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国サーガ』より、姫化した二階堂盛隆


☝・・・次郎と称する二階堂家の男子が、蘆名家に人質として預けられたのは永禄9年(1566)、蘆名と伊達との戦いーーー須賀川戦役終結以来のことである。 そんな次郎には生年の説が二つあり、それぞれの説によれば10年ほど年齢の幅が出てしまうことは以前にお伝えした通りだ。


そしてこのブログでは、いろいろな観点から次郎の生年は永禄4年、そしてその母は二階堂盛義の後室・阿南姫(おなみひめ)という仮説のもとにお話を進めている。 仮説ばかりで申し訳ありませんが、蘆名家ならびに東北の小大名の歴史とは、仮説を立てずしてそのお話をすることは不可能だ。 そうでもないと、断片的な事実の羅列に終始してしまうだろう。







☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛隆


☝・・・そんなこんなで、二階堂の次郎は、幼少の頃から蘆名家の黒川城で人質として過ごしていた。 人質に出されていたということは、人質になるだけの価値があるということで、彼はまぎれもなく二階堂家の嫡男であった。


そして、成長するにしたがって彼は「剛毅な武将の片鱗」を周囲に見せていったと言われている。 蘆名家は方々から人質を取っていたハズなので、その大勢いた人質の中からどのようにして次郎が注目されるようになったのかは、これも「失われた物語」で今となっては定かではない。 しかし、何かしら注目されるような出来事があり、そこから蘆名盛氏の目に留まるようになったのだろう。







☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・目に留まる、といえば、次郎(のちの蘆名盛隆)は美少年であったと方々の伝承でそういわれている。 その祖母が「東北無双の美人」と讃えられた久保姫であったから、その血が濃くこの少年に表れたのかもしれない。


(なお、蘆名盛隆のゲームのキャラ絵をいろいろと見てみましたが、姫化したキャラ絵ばかりで、どうも美少年のキャラ絵というのは見当たりませんでした。 需要が少ないのかしら・・・w)


それはさておき。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「次郎よ。 そなたには余人に代えがたい剛毅さが備わっておる。 その剛毅さ、武勇を見込んでの婿の指名だ」


このように、二階堂の次郎は蘆名家の未亡人・彦姫の婿として、蘆名盛氏の鶴の一声できまったのである。


盛氏 「そなたの諱(いみな)を考えてきたぞ。 盛隆、である」
次郎 「もりたか、ですかーーー確かそれは・・・?」







【盛隆の諱(いみな)考】


さて、どうして次郎は盛隆の名に引っかかったのだろうか。


確証はありませんが、どうも「もりたか」とは、蘆名盛氏の祖父で、戦国時代の初期に活躍をし、戦国大名としての蘆名家の基盤を整えたとされる「13代・盛高」の名にあやかったと思われるのだ。







☆『千万の覇者』より、伊達政宗


☝・・・「先祖の名前にあやかる」ということは、武家社会では時おり見られる事例だ。 その中で最も有名なのが「伊達の政宗」だろう。


戦国時代、伊達氏は代々足利将軍の偏諱を賜っており、両家の結びつきは強かった。 伊達家当主の諱は直近で「稙宗」「晴宗」「輝宗」と続いており、足利将軍家が盤石であったなら政宗は「昭宗」とでも名乗ったのだろうか。 しかし、当の足利将軍家が没落してしまったために、父である輝宗は期待も込めて偉大な先祖・8世政宗の名にちなんでその諱を決めたという訳だ。







盛氏 「そう、「もりたか」とはわたしの祖父の名だ。 さすがに同じ字は憚られたが、その名を背負って、これからの蘆名家を引っ張っていってくれ」

次郎 「盛隆ーーー勿体なく存じます!」


蘆名家の「盛隆/盛高/もりたか」も、偶然に読みが同じとなったのではなく、明らかに意識をしてその諱を決めたのだろう。 こういったことからも、蘆名盛氏が盛隆に対して並々ならぬ期待をしていたことが伺える。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


☝・・・こうして、蘆名盛興が亡くなってから1年ほど経ったのちに二階堂の次郎は元服、「平四郎(へいしろう)・盛隆」を名乗る。 また、ほぼ同時期に彦姫との婚儀が執り行われ、彼は婿として蘆名の家に入った。


このとき盛隆は15歳、彦姫は20代前半だと思われる。 複雑な事情のもとに成り立った、姉さん女房な夫婦だった。


彦姫  「次郎様・・・不思議な成り行きですが、どうか宜しくお願いします」
盛隆  「御台様。 母も驚いておりました・・・えー、今後名前は何とお呼びすればw」
れんみつ「ダー! (赤子のれんみつは笑っているようだ)」
盛氏  「うむうむ、亡き盛興に代わり、立派に務めを果たしてくれよ・・・」







このように、天正4年(1576)の頃、蘆名家は二階堂家の嫡子・盛隆を婿として迎え入れた。 盛隆は元服後間もない、初々しい若武者である。


盛隆は、蘆名家の婿に入ることで周囲の強敵と戦う宿命を背負った。 いや、背負わされた。 蘆名盛氏に将来の大器を見込まれたとはいえ、経験の乏しい10代半ばの若者に蘆名の家を守ることができるのだろうか?


戦国の世は「待った」をかけても優しく応じてはくれない。 悲しいかな、このとき、頼りにするべき会津の大磐石・盛氏の命の蝋燭は、残りわずかとなっていたのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と!いうことで、今回はこの辺りでお開き。 次回は盛隆の統率する、新生蘆名家について追っていきましょう。


をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年6月24日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(12)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム

関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_23.html
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(11)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら




☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、第12回です。 前回では中間のおさらいが済んだところで、今回は蘆名家の現当主・盛興が亡くなってからの蘆名家について追ってみよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・天正2年(1574)、あるいはその翌年のこと。 会津の隠居・蘆名盛氏は深い懊悩の中にいた。


その悩みとは他でもない、蘆名の嫡流男系が途絶えてしまったことの落胆と、今後の蘆名家の展望についてだ。


盛氏 「蘆名の家を継ぐ者が必要だ。 だが・・・」







蘆名の家を継ぐ者。 そうはいっても、なかなかそう簡単に決められるものではなかった。 それというのは、盛氏に子は二人しかおらず、そのうちの男子・盛興が亡くなってしまったことはすでにお伝えしたとおりだ。


盛氏のもう一人の子・・・娘はというと、すでに白川結城家に嫁いで他家の人間となってしまっている。 そのうえ、その夫である小峰義親は佐竹の虜囚となり、その軍門に下るなど、その時点で蘆名の名跡を継ぐのに不適当であった。







盛氏 「と、なると、一門の中から選ぶのか・・・」


盛氏の次なる考えは、蘆名の宗家に近い一族の中から後継者を選ぶということである。 ・・・だが、残念ながら蘆名家にはそのような適格者はいなかった。 そもそも、蘆名家ではここ数代、生まれてくる男子の数そのものが少なかったのだ。


なお、盛氏には腹違いで庶流の兄が一人いたが、その兄は数年前に謀反を起こして粛清されたといういきさつがある。 そういった経緯からも、兄の系統に家を継がせることは不適当だと思われた。







盛氏 「うーむ、では連枝衆はどうであろうか・・・」


連枝衆とは金上、針生、猪苗代といった会津蘆名家中の重臣たちの家である。 彼らは遠祖を蘆名の宗家と同じくする、ともに平氏の血を引くまぎれもない同族だ。 ただ、戦国時代に入ってからは、彼ら連枝衆は蘆名家中の臣下であると位置付けられており、その中から嫡流を継がせるということは、家中の秩序を保ち続ける上で好ましいことではなかった。


盛氏 「なんと、蘆名の家を継ぐ者がろくに見当たらないとは・・・」


ここで盛氏の思案は暗礁に乗り上げてしまった。 しかしそれも仕方がないことであろう。 蘆名宗家を継ぐにあたって血の濃い薄いという問題よりも、「戦国の世を乗り切るための、棟梁としてふさわしい器を持つ者が見当たらない」という次元の違う問題があったからだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




彦姫 「おお、よしよし・・・」
子供 「ほぎゃあ、ほぎゃあ」


☝・・・蘆名盛氏が家督の相続について思案をしているところに、ふと、遠くから赤子の声が聞こえてくる。 元気な、女の赤ちゃんの泣き声だ。


盛氏は母子に近づき、赤子を抱え上げてはその顔をまじまじと眺めてみる。 「れんみつ」と名付けられたその赤子は、祖父に抱きかかえられてニコニコと笑っていた。


盛氏 「・・・そうか、そうだな。 この子にすべてを託すとするか」







盛氏の描いた絵はこうだ。 亡き嫡男・盛興の忘れ形見、今は生まれて間もないれんみつ姫を成長させて婿を取ったのち、生まれてきた男子を蘆名の跡取りとしよう。 それでいいではないか。


盛氏 「彦姫よ、わしは決めたぞ。 蘆名の嫡統はこの子に継がせると」
彦姫 「お義父さま・・・」







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【女子相続について】


戦国時代を含む、中世の時代は男性中心の社会であったと言われている。 そして中世では男子が原則として家を継ぐという決まりがあった。 ・・・しかし、それはあくまでも原則であって、必ずしも100%そうであるとは限らない。 その例外と言えるのが「女子相続」だ。







☆『信長の野望』シリーズより、井伊直虎


☝・・・NHK大河ドラマ『女城主 直虎』で有名になった井伊直虎や、九州の立花道雪の娘・誾千代、同じく九州の島津家・亀寿姫など、戦国時代には家督を事実上相続した女性が複数いたことが知られている。


その特徴は、大名当主に家督を継ぐ直系の男子がいない場合、女子(娘)に家督を継がせて、その婿(夫)に当主の務めを代行させるという点にあった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、立花誾千代


☝・・・「は? 立花家・道雪の跡を継いだのは宗茂で、島津義久の跡を継いだのは忠恒だろう?」 ・・・と、私もはじめそう思っていましたが、まじめな歴史研究によれば、どうもそういった例は「女子相続」といって、先ほどの例では宗茂・忠恒は単なる婿さん・当主の代理人という位置づけであって、奥さんよりも身分は低かったようなのだ。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、島津亀寿


☝・・・このように、「嫡流」という考え方も、家を継ぐ男子がいないといったやむを得ない状況においては、「女子相続」という家の継ぎ方をさせて、戦国の武家は「箱である家」と、その「中味となる血」を守ってきたのだ。


「女子相続」とは、やむを得ない処置であり、戦国時代の当時はたまに見られる相続方法であったものの、江戸時代から浸透する「儒教的価値観」によってやがてそれは「あってはならないこと」と見做され(→儒教の考え方は、徹底して男尊女卑だと言われている)、やがて江戸幕府の政策として「武家の女子相続」は全面的に禁止されることになる。


そういった背景により、かつて行われていた武家の女子相続の事実は伏せられ、無かったこととして隠蔽されて、今日のわたしたちの歴史観に影響を及ぼしているのである。


戦国時代の女子相続については、レアケースならではの考察の難しさも相まって、未だ解っていないことも多い。 これからの研究の発展を見守っていきたいですね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・蘆名の現当主・盛興の死からほどなくして、隠居・盛氏は家中の重臣一同を集め、蘆名家長久の計画を披露した。


盛氏 「まず第一に、蘆名家の嫡統は盛興の子・れんみつ姫である。 ならびに、その母・彦姫をこのたびわたしの養女として改めて迎え入れ、れんみつの保護者として家中での地位を保証しよう。 つづいて・・・。」


盛氏 「彦姫には婿を取らすことにする。 その婿が蘆名当主の当面の代行者として、軍事・政治の表向きのことを任せよう。 その者は・・・、」


盛氏 「・・・二階堂の次郎が宜しかろう!」


座に居合わせた一同は固唾を飲んでこれを聞き、そして一斉にどよめいた。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


☝・・・こうして、彦姫の婿として指名されたのが、二階堂家から蘆名家に人質として預けられていた少年であったのだ。 まさかの奇手、あっけにとられる意外な一手とはまさにこのことか。


この時点で、次郎と呼ばれるこの少年は元服前の童形であり、いまだその諱(いみな)を持っていない。


のちに盛隆と名乗るその少年についての詳しいあれやこれといったことは、次回のお話にすることにしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで今回はこの辺りでお開き。 次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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