2019年7月9日火曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(14)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_30.html
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(13)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら




☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は第14回目ということで、今回も元気よく行ってみよう。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な支配領域



☝・・・さて、今回は南奥の戦況のおさらいから始めよう。


このころの蘆名氏は佐竹氏と戦って(元亀・天正の白河戦役)、そして全面的な敗北を喫したことは以前にお伝えした通りだ。 その蘆名の敗北に大きく影響していたのが、田村氏の裏切りであった。


なお、裏切りといってもそれはあくまでも蘆名側の視点であって、田村氏からすれば「乗り換えること」は悪ではなく、むしろ正当な機略だと言えた。







☆『千万の覇者』より、田村隆顕


☝・・・田村氏とは、陸奥の国・田村郡三春城を本拠した中小の大名だ。 その家の由緒は、平安時代の名将・坂上田村麻呂を祖であると称してはいるが、どうやらその確証は無いらしく、仮冒(かぼう)、いわゆる自称だと思われる。


そして田村氏が大名として存在感を発揮するようになったのは「伊達氏天文の大乱」以降のことであり、同氏は仙道地域において比較的新興の勢力であった。


田村氏が力を伸ばし始めたころ、当主の座にいたのは隆顕(読み:たかあき、キャラ絵の人物)である。 この人物は合戦や外交に巧みであったと言われているものの、彼は天正2年(1574)に亡くなっている。 ここのブログのお話し的には、蘆名盛興の死去した時期とほぼ同じころだ。


そして、新しく当主となったのがその嫡子・清顕(きよあき)で、その経験の乏しい新当主を大叔父の顕頼(あきより)が補佐をしていた。







☆『信長の野望』シリーズより、田村顕頼


☝・・・顕頼は月斎(げっさい)と号し、軍師として田村氏の武士団を事実上掌握しており、ローカルではその名を知らぬものはないというほどの武将であった。 いくつかの書籍によると、この月斎の活躍があってこそ、田村氏は一つの勢力として纏まることができ、さらに勢力を拡大できたのだという。


しかも、この月斎顕頼という人物は年齢もすごい。 生没年は不詳とされるものの、おおよそ100年、あるいはそれ以上は生きたと思われ、個人的には龍造寺家兼北条幻庵に並ぶ「戦国三大爺さま」の一人に数えていいように思う。


ただ、そんな月斎の活躍を記した資料は「軍記物」といったものがほとんどで、学術的な信ぴょう性は低いとみなされている。 とはいえ、戦国時代の仙道地域、それも中小の大名に謎の軍師がいたという伝承は興味深く、ロマンをふんだんに感じてしまいますね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


えー、・・・脱線が過ぎたでしょうか。


☆『信長の野望』シリーズより、田村清顕


☝・・・蘆名氏が裏切られたのは、このような背景を持った田村氏である。 ただでさえ手ごわい佐竹氏に、謎の老軍師・月斎率いる田村氏とがタッグを組んでいたために、蘆名氏は仙道地域に乗り込んで戦いを仕掛けることがなかなかに難しくなってしまっている、そんな状況であった。







だがしかし。 天正4年(1576)のころ、田村氏が再度その態度を一変させる。 すなわち、佐竹氏の側を離れ、今度は蘆名方の味方をするようになったのである。


は? なにその行ったり来たりのヤジロベーは・・・。 @@;


その原因についてはまったくの不明。 今までの経緯から見ても不可解であるものの、田村氏が急に佐竹氏から離れていったことは事実のようだ。 おそらく、両家の首脳クラス同士で何かしらのトラブルがあり、やがて決定的な破局となったのだろう。


とにかく、田村氏は佐竹氏と再び戦いはじめるようになる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「これは好機だ! わしは田村と話をつけるゆえ、盛隆は急ぎ出陣せよ」


事態の急変を受け、蘆名盛氏は迅速に田村氏に触手を伸ばした。 こうして蘆名氏と田村氏はふたたび友好関係を結び、対佐竹氏の共闘が再開されたのである。 そしてこれが平四郎盛隆の初陣となった。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


盛隆 「血沸き肉躍るッ! これが実戦の戦いかー!」


☝・・・ふつう、身分が大名クラスの武将の初陣といえば儀式的なものであって、「勝ち確定」で、なおかつ安全な戦いが選ばれることが多い。 しかし、この頃の蘆名家には、盛隆のために楽な戦いを選んで初陣を飾らせようなどという余裕は無かった。


しかし、さすがというか、蘆名盛氏の眼鏡に適っただけあってか、盛隆は期待されたとおりの働きをこなすのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)





☝・・・再び手を結んだ蘆名ー田村両軍は、仙道の佐竹勢力を北から南へと押し返していく。 まず、蘆名方は石川領内の佐竹勢力を駆逐した。 つづいて、蘆名方はその余勢を駆って白川領内に侵入、佐竹方に対して戦局を優位に進めていった。 やがて蘆名方は、南奥の入り口ともいえる赤館(いまの棚倉町)まで佐竹方を押し返すことに成功する。


これはまるで、オセロのゲームで「辺(端)」から辺へと駒がひっくり返され、盤面がイッキに白が黒へと変わっていく様を見るような、鮮やかな蘆名方の反転攻勢劇であった。


しかし、南奥ー常陸の回廊入り口に当たる赤館には佐竹氏によって堅固な山城が複数築かれており、それらの城が「オセロの隅」の働きをし、それ以上の蘆名方の侵入を阻んだのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、佐竹義重


義重 「チックショウ! せっかく奪った領土のほどんどがパーかよ! ・・・こちとら北条とも戦ってんだから、ちっとは手加減しろよ・・・」


・・・そう、このとき押されまくった佐竹氏は、南方で北条氏とも戦っている最中でもあったのだ。


ここで佐竹義重は、南北両面に敵を迎えて戦い続けることの難しさを痛感し、蘆名方との和睦を画策することになる。 義重は、下総の大名・結城晴朝に中人(第三者的立場の仲裁人)を依頼した。 こうして、いくつかの話し合いのあと、蘆名ー佐竹間で和睦が結ばれたのである。







☆『千万の覇者』より、佐竹義重


義重 「ふぅ、ひとまずの和睦が結ばれて助かったぜ。」


義重 「・・・。」


義重 「しっかし・・・蘆名家を継いだとかいう、人質上がりの二階堂の若造・・・盛隆といったっけか、アイツ・・・」


義重 「・・・アイツ、いいオトコだったな・・・」


@@; !?







さてさてどうなる会津の蘆名家。 ドキドキの展開は次回へー、お楽しみに!
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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('◇')ゞ



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