2017年12月30日土曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話! 小田氏治さん編(11)

ixaコラム:経験0からのIXA!









関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/12/ixa6364_22.html
キャラ絵小話! 小田氏治さん編(10)


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、上杉謙信


☝・・・永禄4年(1561年)閏3月のこと。 小田原城の包囲が始まって、およそ一月が過ぎようとしていた。


大軍勢を率い、北条氏の本拠地を包囲して敵を沈黙させた長尾景虎だったが、その実、ここにおいて大軍を動かすことの難しさに直面していた。 まず、膨大な兵や馬匹の糧秣の手配をどうするのか。 使って無くなった矢の補充や、傷ついた甲冑・刀槍の修繕はどこでするのか。 負傷兵の処置は。 越後と関東の将兵との間に溝があるが、それをどう調和させて、一個の軍として統率していけばいいのか。 ・・・景虎に、総大将という立場の重みがずしりと双肩にのしかかる。







☆『グーグルマップ』より


☝・・・小田原城攻めを難しくしている最大の問題は、この城が孤立した城ではないということだ。 そう、北条が南関東各地に持っている支城ネットワークはほぼ無傷で温存されて、連携が取れたものになっている。 それらの攻略をすっ飛ばして小田原城へ電撃的に軍をすすめたのは良かったものの、北条に属するすべての城が、まるで「スクルトを唱えたスライムつむりの群れ」のように、固く殻に籠ったのは想定外だった。







☆『千万の覇者』より、上杉謙信


☝・・・奇妙なことかもしれないが、小田原城へ電撃的にダイレクトアタックするという作戦は、実は景虎自身にも思いもよらない奇策であった。 その奇策は、松山城内の祠にて護摩を焚き、数珠をつまぐりながら瞑目、神仏に祈りを捧げていたその時に、ある種の天啓となって景虎に降って湧いたのだった。


合理的ではないが、冒険に満ちた魅力的な案。 準備や前後関係を無視して、「敵をこう追い詰めれば凄いハズだ!」といった唐突なビジョン。 他者に言葉で説明することが難しい、一種の閃き・・・。 そんな策や閃きを景虎は、自身の用兵において一番大切にしていた。


何よりも景虎が非凡で凄いところは、降って湧いたような閃きの、荒唐無稽でまだ作戦とも呼べないような案に血を通わせ、万を超える軍の統率者としてそれを現実に実行し得る所にあると言えるだろう。 それも即興で。







☆『戦国大戦』より、女性説の上杉謙信


☝・・・景虎はこう考える。 天啓に従うのは端緒を開く時だけで、ひとたび軍を動かしてしまえば、後は時々の状況に応じて適切・合理的に対応するものだ・・・と。


景虎は、あえて敵の本拠地・小田原城に電撃的に斬り込むことで、それを陽動とし、相模平野/相模原台地の周辺にて北条との決戦を望んでいた。 野戦において、景虎率いる越後兵とその戦術・「車懸りの陣法」に敵う軍隊はいまのところ関東には存在しない。


しかし、景虎のその思惑は完全に見破られていたようで、北条軍は城に籠り、堅く守られて合戦は膠着状態に陥ってしまった。


今や北条が各支城に置いた軍隊は息をひそめ、力を温存しつつ、軽々しく打って出ずに成り行きをじっと伺っている。 このために長尾ー上杉軍は無理な力攻めをすることも躊躇われ、また、その補給線は武蔵の国の松山からその先が繋がりにくくなってしまっていた。 この戦国時代、敵の勢力下で補給用の荷駄が易々と通れるほどそう甘くはない。 長尾ー上杉軍にとって、これは実にまずいことだと言えた。


すなわち、小田原城を囲んで威圧しているはずが、逆にこちらが兵糧攻めにあったかのごとく、窮地に追い詰められる羽目になってしまったのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、太田資正

「・・・了解、食いもんの買い出しに行ってきま! ('◇')ゞ」


☝・・・この時代・永禄年間の食糧事情は分からないことだらけだ。 一説には「永禄の飢饉」があったとされ、関東を含む日本中が慢性的な食糧不足の状態であったと言われている。 しかし一方で、「有るところには有る」という言葉があるように、穀物がそれなりに流通していたこともまた事実のようだ。


太田資正は長尾景虎に命じられ、小田原城の包囲が行われる直前に武蔵の国・品川にて食糧の買い付けを行っている。 品川は武蔵の国を代表する湊であり、上方(近畿地方)からの船が多数出入りしていて富裕な商人もいたらしい。 太田氏は武蔵に根を張る有力な武家ということで、彼らに顔が利いたのだ。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した太田資正

「犬もたくさん飼うと、その食費がホント大変・・・ (-_-)」


☝・・・脱線ですが、わたしも好きなマンガである『ゴールデンカムイ』にて最近、「犬のために貧乏をする」のエピソードが出てきましたが、たくさんの軍用犬を飼っていたとされる太田資正も犬貧乏をしていたかもしれない。 w


それはさておき、資正が品川で必死に穀物を買い集めても、数万人の胃袋を満たす分量ともなると、さすがにそれは焼け石に水だと言えた。







☆『千万の覇者』より、北条(きたじょう)高広

「やべえっす・・・。 味方からクレームガンガンっす! @@;」


☝・・・この時、軍の食糧管理を任されていた長尾配下・北条高広のメンタルは、ストレスメーターの針が振り切れてしまっていた。


戦国時代、兵糧はふつう主(あるじ)または軍団の大将が負担するものだと言われている。 しかし、この戦役における反北条連合軍の総大将は事実上長尾景虎であったものの、名目上は有志による連合であり、そこに明確な主従の関係は無かった。


そのため、兵糧の調達は原則的にそれぞれの大名が独自に行わなければならなかったのだ。 しかし先に触れたように、景虎の作戦によって反北条軍は敵中深くに軍を進めてしまっており、諸将の食糧補給は困難を極めた。


北条高広
「やべえよやべえよ!」(出川風)


下手なモノマネをしてみせて、怒りの火に油を注ぐ北条高広なのであった。 w







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


そんな中、





☝・・・小田原城・包囲戦の状況が膠着し、反北条軍の将兵たちの不満が高まり続けるそんな中、追い討ちをかけるように、関東の兵たちの間である噂が広まりつつあった。


「おい・・・ちょっと小耳に挟んだんだけどよ、長尾の殿様は戦功を立てても褒美を与えるってことをしないんだって?」

「ええ!? そんなはずがないだろう?」

「いいや、越後の衆らがボヤいていたよ。 本領の安堵状は出してくれるらしいが・・・」

「マジかい!? そんなら本腰入れて戦う必要あんめえ! 死に損、傷負い損などまっぴらごめんだぜ!」

「ここだけの話よ、雪国の連中は人使いが荒くてかなわねえな!」


☝・・・口さがない兵士たちはこのように、あからさまに不平不満をぶちまけていたのだった。







☆『千万の覇者』より、風魔小太郎


☝・・・実は先ほどの兵たちの会話は、北条氏康が忍者の風魔党に命じた「流言飛語の計略」がその発端となっていて、長尾ー上杉軍の士気低下を狙ってこの流言は行われた。 なお、これにはかなりの部分で真実が含まれていて、長尾景虎にとっては〝痛いところを突かれた”結果となったのだった。







☆『戦国やらいでか』より、姫化した上杉謙信


☝・・・先ほど関東兵からボロクソに言われていた景虎であったが、果たして戦功を立てても褒美を与ることをしない、ケチな殿様だったのだろうか?


こんにち、長尾景虎/上杉謙信がケチであるというイメージはあまりない。 むしろ、清廉で金銭に無頓着なイメージすら景虎にはある。 しかし、同時代の逸話と照らし合わせて見てみれば、景虎はまぎれもなく褒美を与えない部類・・・すなわちケチな殿様であった。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した安田長秀

「感状、メッチャうれC!」


☝・・・長尾景虎の金銭や経済といった感覚・観念を伺うことのできるエピソードはいくつか知られていますが、それに関連して、景虎の褒美に関するエピソードでは、「血染めの感状」の件が特に印象的だ。


なお、「感状」とはいわゆる感謝状/賞状のことで、「血染めの感状」となると、武士が合戦で戦功を立てて、なおかつ戦死した場合に出される感謝状のことを指す。


現代の価値観からすれば本当に奇妙で割に合わないことだと思いますが、武士が命を失うほどの働きをしたのに対して、それに支払われる対価が賞状・・・つまりは紙切れだというのだ。
Σ( ゚Д゚)


もちろん、これは価値観の違いの問題で、ケチとか太っ腹だといった問題ではない、という意見もあるかもしれない。 そもそも、武士とは何よりも名誉を重んじるものであり、ここで与えられる感状とは金銭に替えることのできない貴重な星・勲章とも位置づけられ、長尾家中の序列にも影響を与えるほどの栄誉だとも言われている。 なかには、この感状を貰うことで感激のあまり、むせび泣く武士もいたほどだという。







☆『千万の覇者』より、武田晴信


☝・・・しかし、翻ってみれば、景虎と同時代の有名な大名たちは、手柄を立てた家臣に対して金銀といった金銭、または換金性のある品物を褒美として与えている。


たとえば、景虎最大のライバル・武田信玄などは、「碁石金」が入った革袋を自ら手に取り、一掴みしてはジャバラー! 二掴みしてはジャバラー! と、手柄を立てた者に豪快に褒美を与えていたりしていて、景虎の感状授与とは対照的だ。







☆官公庁系のサイトより、碁石金


☝・・・金銭と感状、どちらが貰って嬉しいのかという問いは、褒美を貰った当人の心次第だとも言えますが、とはいえ、どちらかと言えば金銭の方が貰って嬉しいと感じる者が多いハズだろう。 やはりどこか長尾/上杉家とは、他所とは一風変わった価値観を持った大名家だと感じてしまいますね。 w









☝・・・そんな訳で、長尾家中の価値観になじまない関東の一般将兵にとっては、金銭に替えられる褒美を出さない景虎のことをケチだと思うことは、致し方のないことであった。


こうして「義の人」と呼ばれ軍神の化身とも言われた景虎も、他郷の下々の兵までその人心を掌握することはできず、兵の不平はやがて将の身分の者たちの不満へと繋がり、反北条軍中に暗く渦巻いていくのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、


☆『千万の覇者』より、北条氏康


☝・・・さて、この戦役において、ほぼ一貫して後手を踏まされた北条氏康とその軍であったが、小田原の籠城戦で意地を見せ、なおかつ流言の策が成功したこの辺りから、徐々に態勢を立て直しつつあった。


堅守に徹する以外にも氏康は、外交交渉による援軍要請を水面下で行い、大軍勢である長尾ー上杉軍に勝つための布石を一打づつ、着実に打ち重ねていく。



☆『戦国ixa』より、武田晴信と今川氏真


☝・・・この時の北条氏の大ピンチにうまく機能したのが「甲駿相、三国同盟」である。 北条氏は持てる外交力のすべてを絞り出して、盟友である今川、武田氏と交渉を行い、後詰(援軍)と側面支援となる軍事行動の約束を取り付けたのだった。







☆『鬼武者ソウル』より、今川氏真


☝・・・まず今川氏であるけれども、ある資料によれば、このとき数千人規模の兵士が北条氏へ援軍として送られたらしい。


なお、これはよくよく考えれば凄いことである。 今川家はつい前年、「桶狭間の戦い」で当主・今川義元が討たれる大敗北を喫し、家中が大揺れしているとゆうさなかであったからだ。







☆『戦国ixa』より、早川殿


☝・・・本来ならあり得ない大規模派兵を実現させた最大の立役者は、北条氏康の娘で今川氏真の正室となった早川殿であったかもしれない。 彼女の「お願い」により夫・氏真は大軍の援兵を決意し、それは北条氏にとって心強い援軍となったのだった。


これは早川殿の実家を思う里心と、それを了承した氏真の優しさが際立つエピソードだと言えるだろう。 しかし、なんということか、これによって斜陽の今川家がさらに傾き、やがて滅亡へと至る悪手となってしまう。


三河の国の松平元康が、この派兵によってさらに手薄になった今川領内の状況を見逃さず、独立の戦いを開始したのだ。







☆『千と千尋の神隠し』より

「龍は優しいよ。 優しくて愚かだ」


☝・・・本来、優しさと愚かさが同じであるハズがない。 しかし、その人の立場の重さによって優しさは、コインの表が裏になるように、愚かさに変わってしまうこともまた真実だ。


こんにち愚将として扱われることの多い今川氏真にも、言い訳を言う機会があってもいいだろう。 「わたしの愚かさは、優しさの裏返しなのだ」と。







今川家につづいて、


☆『戦国サーガ』より、姫化した武田信玄


☝・・・今川氏につづいてもう一方の武田氏ですが、北条氏の要請に対して、このとき武田は小田原城に援兵はごくわずかしか送らなかった。 一説にそれは兵300ぽっちと伝わっていて、これは今川家とは対照的であるね。


そのかわり、機略に富んだ武田信玄は、このとき「待っていました!」と言わんばかりに信濃の国・川中島方面へ出兵し、手薄になっていた長尾氏の属城を攻め落とす。 さらには国衆の調略や新たな砦(のちの海津城となる)の建設など、長尾氏が嫌うあらゆることを北信濃で行い、横やりを入れたのだった。


これら武田の一連の嫌がらせは的確で、これによって長尾景虎は心底はらわたを煮え返したらしく、このことはやがて訪れる約4か月後、同年8月の「川中島、ガチの戦い」へと繋がっていくが、これはまた別のお話・・・。


ともあれ、このとき自ら大軍の矢面に立たず、北条氏にも恩を売って有利に戦略を進める信玄は、さすがは戦国時代最高ランクの謀将といったところだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した北条氏康


☝・・・外交によって武田が動き、北信濃の長尾の勢力に揺さぶりをかけることができた時点で北条氏康は確かに感じただろう、「これで流れが変わった」と。 北信濃へ揺さぶりをかけるということは、長尾氏の本拠地・上越地方の春日山城が揺れることとほぼ同じ意味を持っていた。


とはいえ、小田原城の目の前に陣取る長尾景虎には、いまのところ動揺するそぶりはまるで見せていない。 小田原城の合戦は、ここにきてある種チキンレースの様相を呈し始めてきた。


北条氏の小田原城が落ちるのが先か、それとも北信濃の状況悪化に我慢ができなくなった長尾氏が撤退するのが先か。 北条氏 VS 長尾ー上杉方の戦いの行方は、いまだ決せず揺らいでいたのだった。




(・ω・)(・ω・)(・ω・)


そんな、両雄にわかに緊迫した状況において・・・


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治

「城を包囲するだけの、簡単なお仕事!」


☝・・・蛇足気味ですが、ここでようやく小田氏治さんのご登場w


「疲れたから、家に帰って寝たい・・・ (-_-) 」


「簡単なお仕事」に飽きを感じ、とたんにテンションダウンする氏治なのであった。 w


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。






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2017年12月22日金曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話! 小田氏治さん編(10)

ixaコラム:経験0からのIXA!










関連する前回
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キャラ絵小話! 小田氏治さん編(9)


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治



☝・・・永禄4年(1561年)3月上旬のこと。 北条氏の本拠地・小田原城を正面に見据えて、小田氏治はそこに居た。







☆『グーグルマップ』より、今日の小田原周辺



☝・・・小田原城のメインゲートは通称「蓮池門」と呼ばれ、そこは池といった水に囲まれて守られている。 だが、この時は、その門をすっぽりと覆い隠すように、真新しい「馬出し」の土塁が高々と築かれていた。


馬出しにの周囲には乱杭・逆茂木がずらりと並べられ、敵対する者の侵入を拒んでいる。 また、土塁の内部には大小無数の旗がはためいていて、そこには大勢の兵が詰めていることが伺われた。


これらは遠方からでも威容を感じさせる異様な光景となって目に映り、彼ら北条軍の戦意の高さが伝わってくるのだった。







☆『千万の覇者』より、北条綱成(つなしげ)


☝・・・馬出しの土塁には巨大な一本の旗が風に靡いており、そこには「八幡」の二文字が太く墨書されている。 そう、それは北条軍の最精鋭とも言うべき「黄備え」の大将・綱成の旗印であり、彼の率いる玉縄衆が小田原城の最前線を固めて守っていたのだった。








(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『鬼武者ソウル』より、小田氏治



氏治
「北条軍最強の将・北条綱成が小田原に入ったか・・・これは苦戦しそうだな。」

謎の老武者
「夜襲にお気をつけなされ! 氏治様。」



「わ、びっくりした! 菅谷(すげのや)のジイ、引退したはずなのにどうして?」

「乾坤一擲、北条の本拠地を狙うと聞いて血が騒ぎ、居てもたってもいられず・・・!」


それは、小田家の家老職を務める菅谷氏の先代・勝貞であった。 彼はすでに隠居の身分となっていたが、今回は高齢を押してまで小田原に駆けつけてきたのである。


菅谷勝貞
「こうして北条を囲む・・・。 なにやら川越合戦を思い出しますな。」

氏治
「川越夜戦! ・・・忘れるはずもない。」







☆『戦国姫譚Muramasa』より、「政治と氏治~親娘鳳」


☝・・・「川越城の戦い/川越夜戦」とは、氏治の父・政治(まさはる)がまだ現役当主の時代に起きた合戦で、新興勢力で成り上がろうとする北条家と、従来の権力者との間でその合戦は行われた。 そしてこれは氏治の初陣の戦いでもあった。


「小田家中興の祖」と讃えられた氏治の父・政治は、一説には「堀越公方(足利将軍家の分家)」からの養子だと言われており、出自の確定はしていない。 ・・・その説の真偽はさておき、そういった説が出るくらいに、小田家が従来から公方家とは親しい間柄であったことは確かなようだ。 そのような背景で、小田家は川越合戦のときも反北条軍として参戦していた。


このとき、小田家を含む反北条連合軍は兵数的に圧倒的に優勢で、北条氏の属城・川越城を落城寸前に追い詰めたにもかかわらず、ある一夜を境に形勢は大逆転されてしまう。


それは稀に見る逆転劇であった。 北条氏康がずる賢い謀略の下ごしらえを行ったうえで夜襲が敢行され、それに呼応した北条綱成の鬼神的武勇の追撃が加わって、名のある武将たちがイッキに次々と討ち取られてしまったという、氏治たち反北条の諸将にとっては拭うことのできない伝説級トラウマな一戦であった。 氏治の華麗な戦歴(?)も、ここから始まったのだ。 w







改めて「川越合戦」の傷に触れた氏治の胸の内には、かつて大敗した敵への本能的な恐れと、それを克服しようと思う闘争心が相反し、次第に心が張り詰めていくのを感じていく。


☆『信長の野望』シリーズより、菅谷勝貞

「因縁の対決の行く末を見ずして、どうして死んでいけましょうや!」


☝・・・そう心情を吐露した勝貞の体はプルプルと震えていたが、それは決して年齢からくるものではなかっただろう。 氏治もまた、老武者の気合いを直に接して胸が熱くなったのである。








(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、ここから少し脱線ですが、





☝・・・脱線ですが、先ほど話に出た、「馬出し」について示した簡単な図がこちらとなります。 このように、馬出しとは「馬が出てくる出入り口」のことを指した呼び名となっていますが、実際は門を守るための堡塁/バリケードとして機能していた。







☆『戦国ixa』より、「丸馬出し」の内藤昌豊


☝・・・「馬出し」と聞くと、「丸馬出し」の内藤昌豊さんを思い出す「ixa民」の方も多いかもしれない。 資料によると、武田氏に属する城の馬出しが半円形の「丸馬出し」であったのに対し、北条氏はホッチキスの針の形をした「角馬出し」であったと述べられている。


丸だろうと角だろうと、両者に機能の差はあまり無いように思いますが、こういった細かな様式の違いによって、その城がどの大名の系統に属するのか判断する材料になるのだそうだ。 マニアックですねー。 @@









☝・・・そんな馬出しは、破城槌や攻城櫓といった攻城兵器を門に近づけさせず、撃退するために設けられていた。 破城槌などといった鈍重な攻城兵器は、馬出しという障害物があることによって、ほとんど足止めをくらってしまうのだ。


日本では破城槌があまり普及・発展しませんでしたが、その理由も、馬出しの防御効果が優れていたことにあると言えるだろう。 危険を顧みず、重たい破城槌を引きずりながら門ににじり寄ってドゴン!ドゴン!と打撃を与えるよりも、遠距離から放つ火矢の延焼で門に一定のダメージを与えて、それから掛矢(木製のハンマー)や金棒を使い、焼け残りを打ち壊して突破した方がはるかに人的被害を抑えられたからだ。


以上が馬出しに関連した逸話でしたが、このように攻城戦とは、その準備や戦い方が野戦とはまるで違ったものであったことが解ってくる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


脱線から戻ります。


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した上杉謙信

「よっこいしょういち!(死語)」


☝・・・長尾景虎が自らの武運を試すような、危険な座り込みを行っていた時と同じくして、氏治たち関東の諸将も小田原城に攻めかかる。 氏治率いる小田軍が受け持ったのは、先ほどの蓮池門の馬出しからはやや西側に進んだ、2ノ丸の側面であった。




☆『グーグル画像検索』より


☝・・・その2ノ丸の側面は、地形の関係で池ではなく空堀で守られていた。 この空堀は「格子堀」と呼ばれる特殊な堀で、小田軍を苦しめることになる。




☆『千万の覇者』より


☝・・・戦国時代の城といえば、石垣を高く積み上げ、そこに高層の天守閣が乗っかったイメージが一般的で、北条氏康や武田信玄、長尾景虎といった武将たちの城も同じようなものだったと、戦国時代をテーマにしたゲームの多くがそう作られている。 ですが、そういった城は豊臣秀吉が天下統一を果たした前後から作られ始めたものであり、この頃・永禄年間の城とは異なっている。


石垣と天守閣でできた城が、地方政府(藩)の政庁として権威があるように作られたのに対し、この頃の時代の城とは、あくまで実戦のために作られた、粗野で飾り気の無いものだった。 「城」という漢字は「土へん」に「成る」を組み合わせてできているが、土づくりの堀と土塁に囲まれた小田原城は、まさに漢字の原意のとおりに作られた要塞だと言える。




先ほどの格子堀というのは実にやっかいなもので、集団で寄せることができないのだ。 これは要するに、人数差の有利が働かないということだ。 寄せ手(反北条軍)からすれば、城の周囲、堀から土塁にかけては身の隠すことのできない裸地が広がり、格子堀のあぜ道をそろそろと進むところを、矢を射られ、鉄砲で撃たれてしまう。


寄せ手も弓隊を用意し、負けじと矢を放ち返して最前線の援護を試みる。 しかし、曲輪/廓に建設された櫓からの攻撃のためか、なかなか矢の反撃が届かない。 逆に、寄せ手の弓兵は守備側から狙い撃ちにされてズタボロとなってしまった。


神奈川県に住む人にとってはごく普通の光景だが、このあたりの岡と谷が組み合わさった地形は複雑であり、高低差も大きい。 櫓と平場、これらはせいぜい10数メートルほどの高低差であったが、この高低差が守備側にとって絶妙に有利な弓の間合いを生み出していたのだった。 矢というものは、有効射程を超えると、惰性で飛び続けるだけの殺傷力に欠けるものとなってしまう。 まさにこの時、守備側の弓兵は「無敵タイム」となって寄せ手の兵士を一方的に射ちまくったのだった。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治

「うきょー! やっぱり北条軍は固いし強い! orz」


全力で側面攻撃を行った小田軍だったが、その多くは矢や鉄砲によって撃たれて負傷してしまい、なんとか奥にたどり着いた兵も、待ち受けた敵槍兵らによって撃退される。 この攻撃は寄せ手にとって成果の上がることのない、むなしい攻撃だと言えた。 (陽動や牽制といった役割は果たしたかもしれませんw)




一方、メインの戦場である蓮池門とその馬出し周辺でも、寄せ手の苦戦は続いていた。


☆『戦国炎舞』より、北条綱成

「孫次郎の敵討ちじゃあ! 烏合の衆など恐れるなー!」


☝・・・そこでは猛将・北条綱成の采配がいつも以上5割増しに奮っていた。 孫次郎とは彼の次男で、上野の国・沼田城の守将としてそこで玉砕して討ち取られている。


この戦役で綱成は自分の持ち城・玉縄城を守っていたが、景虎が小田原にダイレクトアタックすることを察知すると、玉縄衆の最精鋭を引き連れて、反北条軍が小田原を包囲する直前に滑り込みで兵を入れ、自ら志願して最前線の死地の指揮を買って出たのである。


このように、寄せ手も守備側も、どちらも譲れない武士の意地があった。




(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田原城兵の頑強な抵抗を受け、長尾ー上杉勢の旗色が悪いことは明白だった。




☝・・・脱線ですが、この状況に、ふと「長尾ー上杉方も鉄砲で対抗すればよかったんじゃね?」などと思ってしまいます。 しかし、この時の戦いをはじめ、永禄年間のこの頃・この地域においては、城攻めのために鉄砲が使用されたという確かな記録は無いようだ。


景虎の軍にも少数の鉄砲侍はいたようだが、やはり、この頃の鉄砲とは貴重な兵器であり、自らはあまり動かずに、射程に入ってくる敵を撃退するための、きわめて守備的な武器として使われていたのだった。 この慣習・先入観は織田信長の「鉄砲隊運用の革命」まで続いていく・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、女性説の上杉謙信


「・・・! 本日はここまでにするぞ! ・・・退き太鼓、鳴らせい!」


退き太鼓が相模・小田原の山野に響き渡ると、兵たちは続々と陣に撤収していく。 予想以上に戦意の高い小田原城兵の抵抗を受け、これより長尾ー上杉軍は周囲の補給路を抑え、同城の兵糧攻めをする方針となる・・・。


軍神と畏れられた景虎も、堅固な小田原城と、敵討ちに燃える地黄八幡・綱成の意地を前に、一歩下がって再び身構え直す。 そんな小田原攻城戦の緒戦であった。


(つづく)




※この文章はブログ主の見解です。





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2017年12月13日水曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話! 小田氏治さん編(9)

ixaコラム:経験0からのIXA!










関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/12/ixa6364_4.html
キャラ絵小話! 小田氏治さん編(8)


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した上杉謙信


☝・・・永禄4年(1561年)3月上旬のこと。 長尾景虎率いる軍勢は北条氏康が籠る小田原城に殺到、やや遠巻きに同城の包囲を開始した。


この時点で景虎が率いていたのは越後兵8000を中核とした連合軍で、主に北関東の反北条の大名たちが集まって成立していた。 彼らは通説によれば総勢7~11万という大人数へと膨れ上がり、各地から北条氏の領地へと攻めかかっていたのだった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、小田氏治

「打倒・北条一強!!」


☝・・・そんななか、このコラムの主人公であり、「小田三千騎」と言われた常陸の国・小田家当主の氏治も、この戦役に数千の兵を率いて参加していたのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、このシリーズ・「長尾景虎の小田原戦役」の書き直しをしていることは以前にお断りを入れた通りなのですが、その最大の理由であり原因が以下となります。


それは、「景虎が攻めた小田原城は、総構えの城ではなかった」ということだ。








「な・なんだってー! Σ@@」


☝・・・小田原城はゲームなど歴史系エンタメで「総構えの城」として扱われてあまりにも有名ですが、景虎が攻め込んだ永禄年間においては、町一つを囲んでいたという総構え/総曲輪の大外郭はまだ未建設であり、「堅城であるものの、飛びぬけた特徴のない普通の城」だったようだ。


わたしは書籍の資料を読むことでこのことを正確に知り、目から鱗の思いをしましたが、よくよく思い出してみれば、コーエー社のゲーム『信長の野望』などにおいて、ゲーム中に堅城として登場する小田原城が本来の姿とは異なっている、うんぬん、といった雑談をどこかで聞いたことがありましたが、このことを言っていたんですね。 @@;







☆『グーグルマップ』より、今日の小田原城付近


☝・・・それでは現在の小田原城の姿をもとに、永禄年間の小田原城をイメージしてみよう。 資料によれば、当時の小田原城は「現在残っている近世城郭」とは異なり、「八幡山古郭を中心とした〝本丸”」と「現在の本丸周辺を敷地とした〝二の丸”」を主要な防御施設として成り立った、連郭式の平山城であったらしい。


そんな小田原城のメインゲートは「蓮池門」と呼ばれていたらしく、そこは蓮池の名が示すように、周囲は池といった水に囲まれて守られていたようだ。 今回の景虎の小田原攻めでは、ここ蓮池門周辺が最大の激戦区域となっていく・・・。







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☆『戦国やらいでか』より、姫化した上杉謙信


「・・・まずは堅固な本陣を築くぞ! 邪魔な城下町から材を取れ!」


☝・・・景虎は周辺の地形を確認すると、すかさず陣取りの場所について下知を飛ばす。 想定する戦場との距離や敵との力量差を考慮しつつ、さらには地形のメリット・デメリットなども踏まえながら本陣の場所は決められるのである。 もっと言えば、合理的な判断のほかにも、「易:方位占い」の結果によっても陣の場所は左右されていたことが知られている。




☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治


「小田原の民家、ぶっ壊死!」


☝・・・景虎の命を受けた氏治ら諸将は配下を引き連れ、小田原城下町の建物を打ち壊していく。 小田原城の総構えはこの時点ではまだ建設されておらず、城下町は無防備な状態となっていた。




☝・・・彼ら長尾ー上杉軍の兵士はてきぱきと梁や柱、戸板などといった建築材をはぎ取っていったのだが、それもそのはず、当時の一般庶民の家屋は背の低い簡素な平屋で、屋根は板葺きが主流だった。


こうして解体された民家は築陣用の材や、野営の際の暖を取る燃料として使用されたのである。 その後、取るものを取った建物の残骸には火がつけられ、小田原城下は焼け野が原となったのだった。


景虎 「うむ。 これで見通しが良くなったな!」


・・・現在の価値観からすれば、武家同士の争いにおいて一般民衆の家屋を焼くことは非道な行いだと言えるが、殺すか殺されるかといった戦国の世においては、こういった行為は「ごく普通の行い」だと言えた。




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さて、


☆『グーグルマップ』より


☝・・・さて一方で、景虎が小田原城の包囲を始めたころ、反北条の東部戦線では里見・正木・佐竹氏らが共同して北条の属城である葛西城を攻め落とすなど、快進撃が続いていた。 彼らは景虎の指揮に入らない別動隊であり、房総半島と常陸の国の反北条勢力の経路を結ぶために戦っていたのである。


景虎は馬周り衆を通じて里見たち別動隊と連絡を取り、彼らに小田原への後詰を要請する。 こうすることによって、小田原城攻めの態勢はあらかた整ったように思えた。







☆『戦国サーガ』より、長尾景虎

「懸り乱れ龍の旗、立てい! 攻撃態勢に移れ!」


☝・・・懸り乱れ龍の旗が高々とはためき、出撃のほら貝が鳴り響くと、戦士たちは武者震いをしながら攻撃目標へ続々と向かっていく。 こうして、景虎の小田原城攻めが開始されたのである。 







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さて、


☆『千万の覇者』より、長尾景虎

「よっこいしょういち!(死語)」


☝・・・さて、長尾景虎はこの小田原城攻めで特異なエピソードを残している(細かなことについては諸説あり)。 それは、敵の鉄砲玉が届く最前線へおもむろに出向き、そこで床几(携帯用の折り畳み椅子)にどっかと座り足を組んで、具足を外しつつ食事をしたり、お茶を飲み始めた、というものだ。


小田原の城兵からすれば、なにやら変な奴が前線に出てきて座りだし、のんきに茶などを飲みだしている。 なので、 「しゃらくせえ! 撃て撃て!」 と銃撃を次々と浴びせかけた。 しかし、その弾は不思議とその人物には当たらないのだった。


やがて景虎の挙動に気づき、肝を冷やした長尾の将兵らが「キケンです! お下がりください! Σ( ゚Д゚) 」と、わらわら群がってくる。


「!?」 その様子の異様さに、小田原の鉄砲侍たちも座っている人物がただ者ではないことに薄々気づく。 どよめく城兵たち。 やがて景虎の姿を見知った者たちが、「景虎だー! 敵の総大将だ!!」 と声を上げる。


小田原の鉄砲侍たちの目の色は変わった。 そりゃあもう、大将首が射程圏にのこのこと入って来ているのだから。 討ち取れば大金星、間違いなし!である。


再び銃口が景虎に向けられ、弾雨となって激しく襲いかかる。 しかし、ここでも景虎は悠然と座り、茶を飲みながら休憩を続けていたのだった。 小田原の鉄砲侍のなかには、ここぞという時のための、ゲン担ぎの用の「特別製・金の玉(銃弾)」で狙撃に臨んだ者もいたが、それも空しく的を外したのだった。


「長尾景虎は軍神の加護を受けている、という噂はまことだったのか!?」Σ@@


長尾景虎が軍神の化身である、という噂はかねてより関東兵の間で流布され、それは北条の兵士たちも十分聞かされている。 そして今回まさに、これほどの銃撃をしても景虎に全くかすりもしないことに小田原の城兵たちは戦慄した。


戦国時代の当時は、戦で死んだり生き延びたりなど、戦場だけでなくおおよそ人生で起こりうるすべての幸運・不運は、すべて神仏の加護や、天の計らいであると解釈する一種の信仰があった。


景虎のこの大胆な行動のおかげで、長尾ー上杉軍の士気は大いに上がり、敵対する小田原の城兵たちの士気は下がった。 軍神が味方についていることは何よりも心強いことであるし、敵対する側の兵士にとっては、生身の人間が軍神と戦って、勝てる道理があろうか?と忌避する気持ちが沸いたのだった。






☆『戦国やらいでか』より、姫化した上杉謙信

「軍神の加護があれば、鉄砲玉に当たることなどありえない! ・・・むしろ、玉が勝手に避けてくれるわー!」


☝・・・それにしても、長尾景虎があえて敵の銃撃の射程圏内に入り、危険極まりない冒険をしたのはいったい何のためだったのだろうか?


もちろん味方の士気を上げるためにあえて危険に身を晒したのだ、と解釈することは至極まっとうな意見だ。 しかし、もし銃撃をまともに当たりでもしたら、総大将の負傷ということで合戦の形勢は傾いてしまうだろうし、何よりも作り上げてきた軍神の神話が一気に崩壊してしまう。 士気を上げるというリターンに対し、あまりにもリスクが大きすぎるのだ。


当たらなかったから良かったものの、この危険な行為を豪胆・大胆不敵と解釈するのか、それとも自らを軍神と錯覚した誇大妄想的な行為だと解釈するのかは、意見が分かれるところだろう。 あるいはこの二通りの解釈は不可分なものであり、勇気と豪胆さ、そして毘沙門天などといった神仏への過度の信仰が混じり合って、彼独自の行動をとらせていたのかもしれない。 長尾景虎という人物の興味は尽きないね。







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ところで、先ほどに関連した脱線ですが、長尾景虎の宗教観だとか信仰心といったものを考察するうえで、注目される人物がいます。 それが、細川政元という武将である・・・!


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した細川政元


☝・・・なんとまぁ、この人物までもが姫化/キャラ化していたのかー! @@; とわたしは笑いながら半ば呆れてしまいましたが、この人物の残したエピソードは第一級の、かなり濃ゆい武将です。


「だれ? この武将・・・」と思う人もいるかもしれませんが、細川政元は、長尾景虎よりもおよそ70年ほど前に生まれた人物で、「応仁の乱」のメインキャストである細川勝元の嫡男で管領職を継ぎ、「半将軍」の通り名を持ったほどの人物だった。 そしてこの人物の最大の事績は、


①信長に先駆けて、比叡山を焼き討ちしたこと

②現役の将軍を襲撃して幽閉、強制的に退位させて傀儡を擁立したこと


・・・この二つの事績がよく知られている。







☆『戦国ixa』より、「流れ公方」の足利義稙(よしたね)


☝・・・「ixa民」の人に分かりやすく紹介するならば、将軍・足利義稙の敵となって、「流れ公方」となる原因を作った人物が細川政元ということになる。







それで、細川政元という武将と長尾景虎/上杉謙信がどう関連して注目されるのかというと、「宗教に傾倒して、独自の生活スタイルを行っていたこと」が共通しているからだ。 その生活スタイルをあけすけにいうと、「女性と一切交際しない」という一言に尽きる。


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した細川政元


☝・・・この人物は、曲がりなりにも当時、近畿地方の現職で最高実力者であったにもかかわらず、「愛宕(あたご)・飯綱(いづな)の法(修験道の一種で、法術/魔術のようです)」に傾倒し、姿形も山伏風となって「修行」と称して突然の出奔をしたり、さらには女性を近づけず、武家の不文律の義務である「ふつうに結婚して子孫を残すこと」を行わなかった奇行の人物として知られている。


当時の武家の結婚はすべて政略結婚で、念入りかつ用意周到に進められるものであり、男女ともに第二次性徴が終わって元服/髪結いしたら即結婚、という流れが当たり前の時代だといえた。 そんな時代に逆らって、脳みそまっさらな若き政元が結婚を拒否、政務もそこそこ、法術の体得に熱を上げていたというのだから、政元本人の責任というよりは周囲の監督不行き届きのように感じてしまいます・・・。


とにかく、政元の信仰した「飯綱の法」の飯綱の神とは「飛行天=烏天狗」のことであり、一心に信仰して修行を積めば空を飛ぶことができる、と信じられていたようだ。 そして、その法力を得るためには「女性と付き合うことは厳禁」なのだという。 これが飯綱信仰の最大の特徴で、当時その他の日本仏教であるならば、僧侶/信徒が妻帯しても全く問題は無かった。







☆『戦国サーガ』より、上杉謙信


☝・・・そんな怪しい術に傾倒した細川政元と同じように、長尾景虎も生涯女性を近づけず、また信仰した神仏のなかに飯綱の神も入っていた。


上のキャラ絵の、謙信の兜の前立てをご覧になってほしい。









☝・・・こちらは景虎の兜として有名な中の一つの写真ですが、この兜に付いている金色の像が飯綱の神のシンボルと言われている。 景虎に限らず、武将の兜の前立てというものは、ただ何となく好みのデザイン/シンボルが飾られているというよりは、自らが深く信仰する神を表明してその加護を期待する、といったゲン担ぎや呪術的な意味合いが込められた、とにかくメッセージ性が強いものだった。


兜に飾られたこの神・飯綱権現については、残念なことに表面的なこと以外の詳しいことはあまりよく分かっていない。 その法術の奥義は、師から弟子に口伝という方法で伝えられていたらしいが、どこかの時点で廃れて跡形も無く消え去ってしまった。 もしかしたら今日の修験道のどこかで飯綱の法について伝承している所があるかもしれないが、それはロマンの領域と言えるだろう。







☆『関ケ原演義』より、姫化した上杉謙信

「・・・女性はお断りだ! (`・ω・´) キリッ! 」


☝・・・このように、細川政元と長尾景虎は宗教に傾倒して女性を近づけなかったという生き方が共通しているので、両者の共通点となる「飯綱信仰」が注目されている、という訳なのだ。


景虎が飛行術を体得するために修行を行っていたという記録・伝承は見当たらないが、景虎が戦場において大胆不敵な用兵を行ったり、あえて危険に身を晒す行為をしばしば行ったのは、そういった行動を通して、毘沙門天や飯縄権現と言った神仏からある種の神託を伺うといった意味が込められていたのかもしれない。


やはり、景虎という武将の行動理念は、「理知的・合理的」というよりは、「直感的・神がかり的」だと言えるだろう。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治

「うーん! 景虎様って、謎が多くてホント不思議なお方だ・・・」


☝・・・独特すぎる景虎の用兵や行動に、ちょっと・・・いや、かなり疲れを感じる氏治なのであった。w


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。





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