2019年5月29日水曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(5)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_23.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(4)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は5回目・・・いつまで続くんだろう、このシリーズ・・・といったカオスな予感を感じていますが、w、今回は永禄年間の中頃、伊達氏との緊張が高まってきたあたりから話を進めていこう。







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☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏と伊達晴宗


☝・・・永禄年間の中ごろ(1562頃)のこと。 蘆名と伊達との関係は次第にギクシャクとしたものへと変わっていった。 それはつまり、奥羽一の大名の座を巡って両家が意識をしはじめ、互いに譲らず、やがては大きな争いへと発展していったと見做すことができるだろう。







☆オンゲ『ホップステップジャンパーズ』より、ホウ・レンソウ


「二位じゃ・・・ダメなんですか?w」


☝・・・関連で脱線ですが、ここでふと頭をよぎったのはこのフレーズだ。w 平成の某有名女性国会議員が発した名言/迷言であり、これは批判や揶揄・嘲笑の対象となってきましたが、わたしはこの発言には一定の真実が含まれていると思う。


すなわち、女性にとって一位争いなどさほど大した価値は無いんだという事実と、その一方で、男性にとって一位争いとはけっこう重要な問題である、ということを改めて世の中に知らしめたことだ。


そもそも、戦国時代そのものが国を挙げての壮大な一位争いの時代だとも言えるし、それぞれの地域においてもローカルボスの座を巡る争いは当然あった。


その背景としては、戦国時代といった中近世には身分意識・・・それも非常に強い身分意識があり、男性が中心の武家社会においては、あらゆるものごとにおいて上下の関係を明らかにする習わしがあった。


それは、挨拶の仕方、会議・宴席といった場の席順、手紙の文言、などなど・・・常に自分と相手の身分とを、秤にかけるように推し量って、それぞれの関係が築かれていたのだ。 また、それは個人だけにとどまらず「大名という法人」についても同じことが言えた。


なお、そういった武家の秩序に真っ向から反対したのが一向宗、法華宗といった当時流行りの仏教勢力で、「一揆」・・・「揆を一にする」の思想であると言われている。 ・・・ですが、こういった話はあまりにも深淵なので、深みに嵌らないうちにここで引き揚げることにしよう。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「❝二位よりも 一位の方が気持ちいい❞。・・・武家の上下関係を巡る争いとは、そのような卑小なものでは断じてないぞ」


盛氏が言うように、武家は単に順位争いで勝ちたいがために争いをする訳ではない。 一位が二位の、あるいは上位者が下位者の生殺与奪の権をときには握ることもあることから、それは全精力を傾けた争いとして行われたのだ。 蘆名と伊達の争いも、つまりはそういうことだと言えるだろう。







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話を戻します。


☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・永禄年間の中ごろ。 蘆名盛氏は、伊達氏の行う挑発的な政略攻勢に腹を据えかねていた。 なかでも、新たに二階堂氏が伊達氏との縁組みを決めたことが、盛氏にとっては痛かった。 岩瀬郡を支配する二階堂領は仙道の中央の一端に位置しており、蘆名家の仙道支配の要ともいえる立地にあったためだ。


戦国時代は軍事がものをいう。 盛氏は伊達晴宗の政略攻勢を覆すべく、二階堂領へと兵を進めることを決意する。 そう、永禄5年(1562)辺りから数年にわたる、蘆名の対二階堂戦役が勃発したのだ。







【二階堂氏について】


残された史料が断片的ということもあり、このころの二階堂ー蘆名ー伊達の三者をめぐる関係の解釈は難しい。 それなので、ここからの文章は、通説を踏まえたうえでの、わたし流の解釈であると前置きをしておこう。







☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


☝・・・わたしはとても真面目に、二階堂家の話をしたいと思っている。 とはいえ、こんにちのネット上では、コーエー社が悪ふざけで作ったこのキャラクター・・・「変顔の二階堂盛義」が流布・確立してしまっているので、どうしてもこの画像に触れざるを得ない。w


このキャラ絵を見て、「あぁ、この人物!?」と心当たりのあった人もいるだろう。


さて、ではどうして二階堂氏のことを細かく述べなければならないかというと、将来、蘆名家を継ぐ人物を、この二階堂家は輩出することになるからだ。







☆『戦国サーガ』より、伊達阿南


☝・・・さて、このころ二階堂氏と縁組した伊達氏の子女とは、伊達晴宗の長女で、のちに「みちのくの女城主」の通り名で知られる阿南(おなみひめ)だ。


ウィキペディアによると、彼女の生年は天文10年(1541)であり、夫・二階堂盛義に嫁いだ年は不明となっている。 そんなところ、わたしがいくつかの書籍で調べた限りでは、彼女が二階堂氏に嫁いだのは永禄初年(1558)から、遅くとも永禄5年(1562)までの間ほどのことだと推定される。 それと重要なのは、彼女は「後室」として嫁いだとされている。 つまり、二階堂盛義の二番目の奥さんとして嫁いだという事実だ。


では二階堂盛義の「前室」は誰かと言うと、以前に、蘆名盛氏が天文年間(1550年代)に二階堂・田村の両氏を軍事力で屈服させて、その際に二階堂氏については軍事的威圧のもと姻戚関係を結んだ・・・ということに触れましたが、そのときに嫁いだのが盛氏の妹で、この女性が二階堂盛義の「前室」だと推定されている。


なお、ウィキペディアにこの盛氏の妹については全く触れられていなく、そこでは二階堂盛義の妻は阿南姫ただ一人といったような印象を受ける。 しかし、盛氏妹が二階堂に嫁いだのは確かなようで、この女性は、蘆名氏側の一部史料・系図にのみに登場する。







☆『のぶニャがの野望』より、ニーかいどう盛義


☝・・・戦国大名が複数の妻・妾といった女性たちと関係することは決して珍しいことではない。 しかし、正妻の地位につく女性は一人だと昔から決められている。 それなので、二階堂盛義の前室・蘆名盛氏妹は、阿南姫が嫁いできた段階で、盛義のもとから去っていたものだと思われる。


可能性としては、大きく二つのものが考えられる。 死別、離別のいずれかである。 しかし史料は黙して語らず、様々な可能性を孕んだまま、盛氏妹は歴史の叢(くさむら)の中に埋もれてしまっているといった状況だ。


二階堂盛義の前室・盛氏妹・・・。 彼女は大いなる謎の女性であり、そこからは複数の謎が連なって横たわっている。 なお、謎といってもそれはミステリーという意味ではなく、ミッシングといった部類のものだ。


そのことについてはおいおい語っていくとして、当ブログでは、謎は謎として積極的・断定的な解釈はおこなわず、ここでは「ただ、このような姫がいた」という事実だけにとどめて、二階堂ー蘆名ー伊達の三者の因縁については、いったんこのあたりで引き揚げることにしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


☝・・・こういった婚姻を巡る因縁もあってか、蘆名と二階堂との戦いは激しかった。 蘆名家はかつて天文年間に二階堂家と戦い、その時は容易に屈服せしめたが、永禄年間の今回の戦いでは伊達家からの加勢も入ったためか、両軍の戦いは一進一退の状況が続いた。







そんなところ、


一方で、永禄年間の中頃ともなると日本中の至る所で戦いが日常化してきており、蘆名家もただ一つの敵と向かい合えばそれで良いという状況ではなくなってきていた。 戦場の多極化である。 このころの蘆名盛氏は、メインの戦場として二階堂ー伊達氏連合軍と対峙しつつ、いくつかの戦場を掛け持ちしている。







☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・戦場の多極化により、第2の戦場として再燃したのが、佐竹氏方面・白河結城領での戦いだ。 この戦いは北条氏康の要請によって行われたもので、ご丁寧にもその合戦には、作戦がすでに練り上げられて付いてきた。


その作戦の骨子は、北条氏と友好関係を結んでいる各大名が、示し合わせて各方面から佐竹氏を攻める・・・といったもので、つまりは「佐竹をみんなでフルボッコ作戦」である。


この作戦によって、北条・下総結城・白河結城・蘆名・相馬の各氏が一斉に佐竹領に侵入した。 我らが蘆名盛氏はというと、残念ながらはかばかしい戦果は得られなかったようだ。 二階堂ー伊達と対峙している関係で、積極的な攻撃ができなかったのだろうか。 なお、このキャンペーンで最も激しく佐竹氏と戦ったのは相馬氏であると言われている。







☆『のぶニャがの野望』より、金上もりペル


☝・・・戦場の多極化・第3の戦場が越後方面である。 蘆名家は越後の国・津川も領国の内に入れており、その統治は金上盛備(もりはる)が任されていた。 なお、金上氏は蘆名氏の一族で、家中一番の知行地を誇る筆頭重臣の家柄として知られている。


このころ、蘆名盛氏は武田信玄に要請されて、上杉謙信の後方を脅かすべく、越後の国・中蒲原郡に攻め入ったと伝わっている。


このように、永禄年間の中ごろの蘆名家は、兵を3つに分散して戦いが行われていたのだ。







☆『戦国大戦』シリーズより、蘆名盛氏


☝・・・ついでに、このエピソードもご紹介しておこう。


時の流れが前後してしまいますが、蘆名の二階堂戦役が始まる1年ほど前、蘆名盛氏の兄が謀反を起こして鎮圧されるという事件が起こった。 氏方(うじかた)という名の、盛氏にとっては腹違いの兄が起こした謀反であった。


氏方は長男であったものの、母が白拍子・・・身分の低い女性ということで彼は家督を継ぐことはできず、家中でこれといって目立つこともなく過ごしていたのだったが、それがどういう訳かこのタイミングで事を起こしたのだ。


資料によれば氏方の謀反の理由は、家中で冷遇されていたため(要約)、とされている。 とはいえ、前後の周囲の大名の動向を見れば、この乱は伊達氏、あるいは敵対する大名いずれかによる扇動工作と思えなくもない。 もちろん証拠がある訳ではないけれども、何の当てもなく、強大な蘆名家中で謀反の単独行動を起こす道理があるだろうか?


氏方と少数の協力者は謀反を起こしたものの、即座に鎮圧の部隊が動員されて彼らは討ち取られ、あるいは自害へと追い込まれた。 ほとんど犬死にに近い、そのような謀反劇であった。 氏方の享年は47だという。


盛氏 「業をまた一つ背負ってしまったな・・・許せよ兄貴」


戦国時代において親子・兄弟間で争い、骨肉劇を演じることは稀なことでは無い。 とはいえ、兄を死に追いやったこの事件は、なんとも後味の悪い出来事であった。 寝覚めの悪い日が幾日も続く。 盛氏は、残された兄の子を僧侶として出家させることで赦免とし、改めて兄の霊を弔った。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、では話を本線に戻そう。


☆グーグルマップより


☝・・・蘆名の二階堂戦役が始まってから3年目となる永禄8年(1565)、伊達氏は単に二階堂領・須賀川に援軍を送るだけではなく、新手を繰り出すようになる。 居城・米沢から蘆名家の本拠地・会津盆地に向かってダイレクトアタックを志向したのだ。


こんにち、会津盆地から米沢盆地に向かうには、国道121号線を使うのが一般的だと思われる。 けれども、その当時の会津ー米沢間の街道は、磐梯山裏の桧山という地を通っていたようだ。 そして会津に続く道の要衝ということで、伊達軍の精鋭が桧山城に襲い掛かった。


だがしかし。 桧山城は境目の城ということで、蘆名盛氏はふだんの守りを堅くしておくようにと指示を出しており、桧山の城兵は伊達軍を食い止めることに成功、伊達軍のダイレクトアタックは未遂に終わった。 この桧山という地は街道上の要地であり、これからの戦いでも登場することになる・・・。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した蘆名盛氏


☝・・・一進一退を続けていた蘆名VS二階堂ー伊達連合の戦いですが、先の「伊達軍の桧山城襲撃」が終わったあたりから流れが変わり始める。 そう、この戦いは徐々に蘆名方の優勢へと潮目が変わってきたのだ。


永禄8年(1565)、桧山城防衛戦の返す刀で、蘆名盛氏は二階堂領に大規模な攻撃を加えた。 注目すべきなのは、そのとき蘆名軍と戦った相手が二階堂氏ではなく、その重臣・須田氏であったということだ。


これはどういうことだろう? わたしが思うに、おそらくこの時点で、二階堂家は内部で蘆名派と伊達派の二派に分かれていたのだろう。 二階堂家は、現時点では阿南姫が嫁いでおり親伊達の立場となってはいる。 けれども、その数年前までは盛氏妹が正室だったということで、二階堂家中には蘆名に心を寄せる者も少なからず残っていたのだろう。 


そんな二階堂家中の内情を察知して、盛氏は親伊達の領袖・須田氏に的を絞って攻撃をしたのだろう。 なお、この時の勝敗、その他の情報は分からない。







☆『のぶニャがの野望』より、伊達シャルむね


☝・・・年は明けて永禄9年(1566)正月。 蘆名と二階堂・伊達連合との戦いは、ついに決着の時を迎える。 それはまるで、「綱引き」において両者が互角であったところを、時間の経過とともに片方の力が弱まりだして、ついにはずるずると、あとは一気に崩れる様とそれは似ていた。


まず、これ以上蘆名との戦いを続けていても益なしと判断した伊達晴宗が、二階堂氏に先立って、蘆名盛氏に和睦の打診をしてきたのだ。 この戦いにおける、伊達氏の事実上の撤退だ。


こうなるともう、戦局は一気に動いた。 翌月2月、二階堂家中における反蘆名派の掃討戦が行われ、横田、長沼の二城が蘆名方によって攻略された。 この攻略をもって、蘆名は二階堂を完全に制圧したのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


こうして蘆名と二階堂との戦い・・・いや、蘆名と伊達との戦いは終結した。 そして戦後処理としていくつかの取り決めが結ばれ、まとめられてゆく。







☆『戦国ixa』より、彦姫


☝・・・伊達氏は蘆名氏との和睦の条件の一つとして、晴宗四女・彦姫が蘆名盛興に嫁ぐことと決められた。 彼女は14、伊達晴宗が最後まで嫁ぎ先を決めかね、手元に残しておいた秘蔵の愛娘だ。 また、一方の二階堂氏は蘆名氏への臣従の証として、まだ幼い嫡男・次郎を人質として差し出した。


・・・このとき蘆名家にやって来た伊達氏の娘と人質の少年とが、やがて夫婦となり、蘆名家を担う日が来るだろうとは、いったい誰が予測できただろうか?


本当に不思議な世の中の巡り合わせだと思う。 しかし、その話はもう少し後の話でもあるし、それまでは丁寧に順を追って話していこう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回はこの辺りでいったんお開き。 次回をお楽しみにー。
(*´ω`)


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年5月23日木曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(4)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_20.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(3)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は4回目になります、今回も蘆名家の歴史について語って行こう。







永禄年間の中ごろ。 東国はあいもかわらず戦乱の災禍が渦巻いていた。 その渦の中心にいるのが上杉謙信、武田信玄、北条氏康の3将で、それら3将を中心に激しいうねりが広がって、周囲にじゃぶじゃぶと波濤を浴びせかけているといった状況だ。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・そんなところ、会津の領主・蘆名盛氏は北条・武田と誼を通じ、上杉と敵対するといった方針を採っていた。 とはいえ会津は幾重もの山々に囲まれた領国であり、北条・武田・上杉間の争いに直接介入するということは現時点では起こっていない。


ほどなくして・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛興


盛興 「お待たせしました! ようやく元服です」


☝・・・永禄5年(1562)、蘆名盛氏の嫡男・盛興が元服・成人し、同時に家督の交代も行われた。 このとき盛氏の年齢は43歳、盛興は18歳だと言われている。


盛氏 「うむ、これからはわしが大殿、お前が若殿として南奥を仕切っていくぞ!」
盛興 「はい! グビグビ・・・」
盛氏 「なんだお前、呑んでいるのか・・・ま、ほどほどにせいよ、わしは向かい山の隠居城に移るゆえ」


こうして盛氏は会津黒川の本城を盛興に譲り、自らは隠居の城・向羽黒山城に移ったのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・それにしても43歳で隠居とは、現代の感覚からすれば早すぎる引退だと言えるだろう。 しかし、戦国時代の隠居とは、即引退といった意味合いのものではなかったようだ。


当主の座は次世代に譲りながらも、先代が引き続き権力を握り続ける・・・こういった例は戦国時代に数多く、蘆名盛氏の隠居もそういった例の一つであり、彼もすぐさま政治・軍事から手を引いたという訳ではなさそうだ。 なかでも外交活動に関しては、むしろ隠居してからの方が活発となっている。


しかし、盛氏が権力の第一線から身を引いたのは確かなようで、この前後から使用される「止々斎(ししさい)の号と印章のもと、盛氏は様々な文化活動に傾倒していく。








☆官公庁のサイトより


☝・・・雪村(せっそん)という絵師を知っているだろうか? 彼は水墨画で知られる画僧で、この頃は蘆名盛氏の隠居城に寄寓して創作活動を行っていた。 雪村は盛氏のために多くの画を描いたと言われている。


このように盛氏は、時代を代表するような文化人との密な交流があり、それは絵師・雪村だけにとどまらず、その他の絵師、僧侶、連歌師、茶人らも加わって、盛氏の隠居城はさながらみちのくの文化サロンと化していたのだ。


盛氏 「ほほw わし・・・ボチボチ武将を辞めてもいいかな?」


盛氏は文化活動に専念したかったが、やはり戦国の世がそれを許すことはなかった。 蘆名領国において盛氏という人物の存在はあまりにも大きく、なにかにつけて盛氏は引っ張り出され、嫡男・盛興の教育、ならびに権力移譲はスムーズには行われなかったのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このような感じで蘆名家の家督交代が行われたが、ほぼ同じころ、蘆名家の周りの大名でも世代交代の波が押し寄せていた。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した佐竹義重


☝・・・まずは佐竹家である。 永禄5年(1563)、佐竹の当主・義昭が32歳で隠居、家督を嫡男の義重に譲った。 義重は弱冠の15歳だ。







☆『千万の覇者』より、伊達輝宗


☝・・・続いては伊達家だ。 佐竹家が家督交代をした次の年、伊達晴宗が隠居をして嫡男・輝宗に跡を継がせている。 その背景には父子の対立があったらしく、晴宗は対立を解消するべく、その懐柔策としてこの家督交代が行われたと言われている。 なお、このとき晴宗の年齢は45歳、そして輝宗の年齢は20歳だ。


季節は巡る、いつの間に。 このように、奇しくもほぼ同時期、蘆名、佐竹、伊達の三家で家督交代が行われ、気づけば蘆名家を巡る周囲の環境は様変わりをしてしまっていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、伊達晴宗


☝・・・蘆名家を取り巻く景色は、日に日に色合いを変えてゆく。


永禄年間の中ごろ、特に変化が著しかったのが伊達家である。 かつては「伊達氏天文の乱」で大きく傷付き、羽州・米沢に退いた伊達氏であったが、この頃までにはすっかりその傷は癒えたようで、奥羽一の大名という自負と自信を取り戻し、活動を再開させていた。


そして勢力が拡大していた蘆名家に対して、どうやら伊達晴宗は少なからぬ敵愾心を抱いたらしい。 ここから伊達氏による、蘆名家を仮想敵と見据えた怒涛の政略が仕掛けられることとなる・・・。


そう、かの有名な「伊達の姻戚曼荼羅図、ふたたび」である。







☆グーグル検索より、伊達氏の姻戚関係の図







☆『戦国大戦』シリーズより、久保姫


☝・・・戦国時代の当時、多くの戦国大名が血を遺すため、あるいは好色によって複数の妻、妾といった女性たちと暮らしていたが、そんななか伊達晴宗の妻は久保姫ただ一人だった。


久保姫は美人の誉れが高く、また同時にとても健康な女性で、天文年間の初めごろに晴宗と結婚して以来、子を次々に儲けていった。 そうしてできた11人の子供たちはすくすくと成長し、いまや嫡男の輝宗が家督を継ぐなど、永禄年間の中頃にはみな❝いい年齢❞に達していたのだ。


武家の結婚はすべて政略結婚であり、念入り、かつ用意周到に準備される。 ・・・晴宗は11人ものその子らを、かつて父・稙宗が行ったと同様に、奥羽にあまねく各武家との縁組みを進めさせた。


それも、蘆名家を疎外するように、である。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛興


☝・・・まず伊達氏は、蘆名家との間でかねてよりの習わしである婚姻・・・嫡男・盛興と伊達氏の子女いずれかとの婚姻について、なんやかんやと言っては難色を示してきたのだ。


・・・ストレートに言えば、それはつまり「破談」である。


盛氏 「なんだと? おい妻よ、伊達の晴宗殿はどういったつもりなのだ!?」
妻  「それがなんとも・・・」


盛氏の妻は伊達晴宗の姉であり、伊達家の内情を知るうえでの窓口の一つとなっていた。 しかし、その妻は嫁いでより四半世紀が経ったということもあり、この頃にはすっかり情報の経路が細くなってしまっていたのだ。 盛氏妻は他の姉妹を頼って事の経緯や背景を探ろうとしたが、明確なことは分からなかった。


盛氏 「蘆名と伊達は奥羽の二大大名。 両家が婚姻を結ぶことで、地域の安定にどれだけ貢献しているか・・・知らぬ晴宗どのではないだろうに」


そのうえ、困惑する盛氏ら蘆名家に追い打ちをかけるように、伊達の縁組み内定の知らせが次々と舞い込んでくる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


知らせは告げる。


☆『千万の覇者』より、阿南姫


☝・・・仙道・岩瀬郡の二階堂家に、晴宗長女の阿南(おなみ)の嫁入りが決定。







☆『のぶニャがの野望』より、石川あきミィつ


☝・・・仙道・石川郡の中小大名、石川家に晴宗四男の入嗣が内定。 のちに彼は石川昭光と名乗ることとなる。







☆『戦国いろは武将図鑑』より、宝寿院


☝・・・晴宗の五女・のちの宝寿院が、常陸太田の佐竹義重との婚約が内定する。


そのほかに伊達は岩城、留守、国分といった奥羽の名門大名とも婚姻・入嗣を内定/決定させるなど、怒涛の政略攻勢は続いた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆官公庁のサイトより、南奥の諸大名の図


☝・・・こういった伊達氏の一連の政略により、南奥の勢力・相関関係は大幅な上書き・塗り替えがなされた。


「伊達氏天文の乱」であれほど壮大な親子喧嘩を繰り広げて、伊達稙宗による洞中(とうちゅう)支配体制を否定した晴宗であったが、皮肉なことに、彼は憎んでいた親父と同じ手法で洞中を新たに出現させ、権力を強化したということになる。


晴宗による新伊達洞中の出現は、特に仙道(いまの福島県中通り地区)で著しいパワーバランスの変化をもたらした。 蘆名方の勢力は上図で言えば二階堂が離反、田村が中立へと立場を変え、伊東は無力化しており蘆名による支配は継続中、石川は伊達から婿が来る関係で敵方に、白川は娘が嫁入りしている関係で味方、といった状況だ。


このように、永禄年間の中頃、伊達晴宗の政略によって蘆名家は重大な局面の変化を迎えたのであった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・蘆名盛氏は一連の報告を整理し、すべての事象を組み合わせて一枚の絵と成し、いま起きている事態を改めて眺め渡した。 そして嘆息ひとつ。


盛氏 「晴宗どのよ、わしは妻の手前、奥羽の無事のために、そなたとは上手くやっていきたかったというのに。 ・・・蘆名と伊達、どちらが奥羽一の武家であるか、白黒をつける時が来たようだな」


即座にそう決心したあたりは、流石は鎌倉以来の武家の名門・蘆名家の当主である。 この頃の盛氏は文雅の道に傾倒していたとはいえ、その心根までもが文弱に流されるといったことはなかった。 やはりこの人は根っからの武士(もののふ)、武人なのである。


盛氏 「宣戦布告なき宣戦・・・わしはそうと受け取ったぞ!」


ここに風雲は急を告げる。 蘆名と伊達との戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回は盛興が元服した年と、その前後の周囲の状況を追ってみました。 物語がなかなか進まずにもどかしいですが、いったんここで仕切りとしましょう。 次回をお楽しみに。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年5月20日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(3)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_15.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(2)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は3回目ということで、蘆名盛氏が仙道地区に進出してからの話を展開していこう。







☆官公庁のサイトより、戦国時代・天文年間ころの勢力イメージ


☝・・・ときは永禄年間の初め頃(1560頃)。 会津の領主・蘆名盛氏は仙道地区に積極的に攻勢をかけ、伊東・二階堂・田村・白河結城の各家を傘下に収めた。 そして自らを南奥(読み:なんおう、いまの福島県地域のこと)の盟主と位置付けて、同地の政治・軍事を取り仕切っていた。


そんな蘆名家最大の敵が、南奥への進出を図っている佐竹氏である。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、佐竹義昭


☝・・・蘆名氏のライバル・佐竹氏の当主を務めていたのが義昭と言う人物だ。







☆グーグルマップより、常陸の国・太田から北にかけて


☝・・・こちらをご覧になって頂ければわかるように、常陸の国はおおむね南北にわたって山地と谷とが形成されている。 とりわけ、太田から直接北へと続く谷は極端な難所もなく、佐竹氏にとってそれは南奥へと至る恰好の回廊であった。


なお、この回廊/街道の戦略的重要性に気づき、進出の作戦を開始したのはこのときの当主・義昭ではない。 それは義昭の祖父・義舜(よしきよ)の代からだと言われているが、その話は別の機会に譲ることにしよう。


とにかく、佐竹氏はこの回廊/街道を使って南奥へと進出し、永禄年間の初めごろ(1560頃)までには白河結城領のおよそ南半分を占領、蘆名盛氏の勢力と境を接していたのだ。


その土地をめぐって、両者ともに譲りあう気持ちなどさらさらない。 ときは戦国時代である、戦国大名にとって戦うことこそが、まず最初に行うべきコミュニケーションであった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「佐竹よ、ようやくやってきたな。 すでに準備は整っているぞ」


☝・・・かくして永禄3年(1560)8月、初めて蘆名と佐竹とが衝突することになる。 これは「寺山館の戦い」と呼ばれ、蘆名が南奥の諸将を率いたのに対して、佐竹は下野の国・那須氏と連合してこの戦いは行われた。


話の展開を遅くしたくないので結論を先に言ってしまおう。 ・・・この戦いで蘆名方は勝利した。 ホームの守備戦というアドバンテージもあっただろう。 それ以上に、蘆名盛氏は単独行動に走りがちな那須氏に目をつけ、それに付け込こみ、味方の連携で打ち破って形勢を優勢に導いたのだ。


このように蘆名勢が優勢であったが、残る佐竹軍を攻撃することはなく、この戦いはやがて膠着状態が続き、最終的には講和(一時停戦)の協定が結ばれて佐竹は撤兵することになる。 なお、この調停は古河公方の名のもと、北条氏康によってとりなされた。


しかし・・・。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、佐竹義昭


義昭 「てゆうか俺たち無傷なんで。 アレは那須がバカやったってだけで、次は絶対(ぜってー)に勝つから!


・・・まったく諦める様子のない佐竹であった。 w







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このように南奥への進出を諦めない佐竹であり、それゆえに蘆名盛氏は警戒を緩めることができなかったが、ここで情勢の一大変化が起きる。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した上杉謙信


☝・・・それが永禄3年(1560)10月に起こる「長尾景虎の越山」・・・すなわち、のちの上杉謙信による関東への介入と、それに伴うすったもんだの始まり、である。


景虎は関東で反北条の勢力を結集、北条を撃滅するべく電撃的な作戦を開始する。 佐竹氏もそのムーブメントに当然参加をし、反北条軍の主力の一つとして、とうぶん関東にかかりきりになることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛氏


☝・・・関東の情勢が劇的に変化し、佐竹が南奥から引き揚げた絶好の機会だというのに、蘆名盛氏はあえて佐竹に反撃、その領内に攻め入るといった事をしなかった。 これはいったいどういうことだろう? 戦国の世にあって少し消極的だと言わざるをえない。


わたしが思うに、蘆名洞中(とうちゅう)で反対の意見が多数上がって、それで佐竹への反撃・侵攻を見送ったのではないだろうか。 そもそもアウェイでの戦いは危険が倍増する。 そのうえ蘆名を中心とした南奥の武家連合が佐竹と死闘を繰り広げ、よしんば勝ったとしても、領地が戻ってくるのは白河結城家である。 白河以外の武家からすれば、そんなことで血は流したくない・・・。


蘆名洞中は南奥を地盤とした、基本的に利害の一致した集団として蘆名盛氏に統率されている。 しかし、すべての問題事で各武家の利害が一致するはずもなく、洞中は常に対立や分裂といった、組織崩壊の危機を孕んでいた。 盛氏は佐竹に一撃を与えることが戦略上よいとは思いながらも、洞中の消極的な意見に配慮をし、今一つ強権の行使ができなかったといったところではなかっただろうか。


このように、少々の優柔不断をもって蘆名の対佐竹南奥戦役はいちおうの終結を迎えたのである。







☆『戦国IXA』より、北条氏康と武田晴信


☝・・・対佐竹の軍事で優柔不断な面を見せた一方で、このころ蘆名盛氏は外交関係では大きな成果を上げている。 まず、北条と誓紙を交わして正式な同盟を結ぶ一方、同時に武田家とも友好の関係を結んだのだ。


これはつまり、「北条=武田=今川の三国同盟」に近づき、「長尾(上杉)=佐竹の反北条連合」と対立するという、蘆名家はいわば遠交近攻の策を採ったということになる。


加えて足元の奥羽の同盟関係はというと、盛氏の妻が伊達家出身で姻戚関係は継続中。 そしてが二階堂、が白河結城へと嫁いでいるなどと、なかなかのスクラムの組みっぷりだ。


こういった強固な同盟関係の構築といい、先ほどの佐竹への消極姿勢といい、盛氏は慎重な守備タイプの大名だと言えるだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『のぶニャがの野望』より


☝・・・年は明けて永禄4年(1561)。 この年の東国の出来事はというと、長尾景虎による小田原城攻囲戦、からの関東管領職就任、さらに越後に戻って武田信玄との川中島・ガチの戦いが行われる・・・。 などなど、永禄4年とは数々の輝かしい戦国伝説が生まれた1年であった。







☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・そんな戦国日本が盛りを迎える中、このころの蘆名盛氏は止々斎(ししさい)という号(名前)を使用しだした。


いわゆる通説では、この止々斎という号は盛氏の隠居名だと言われている。 しかし、この時点では、盛氏が隠居しようにも肝心の後継者がいまだ元服・成人していないではないか。 それなので、まじめな歴史研究によれば「止々斎=隠居名説」は否定的だ。


それではこの止々斎とは何なのか? といえば、「雅号(いわゆるペンネーム、あるいは茶席での呼び名)ということらしい。 前回でも少し触れましたが、盛氏は旅の連歌師のパトロンとなって、上方の情報入手も兼ねて彼らとの交流を行っていた。 また、茶の湯にも興味があったらしく、盛氏は永禄年間の奥羽の武将としては珍しく、茶坊主を何人も雇うなどしてその道を嗜んでいる。


このように、関東・東国で争いが激化するに反比例して、蘆名洞中での紛争は収まりつつあり、盛氏は雅号を名乗って文雅の道を楽しみ、戦乱の世の中における一時の心の平穏を求めた、といったところだろう。


このときの蘆名盛氏の年齢は40を超えたあたりで、そろそろ戦場で無理がきかない年齢に達してしまっていた。 現代では40歳台は男の働き盛りということとされているが、当時は医療が未発達で、人々の老化の進行は随分と早かったのだ。 加えて、奥羽は朝晩の冷え込みがことのほか厳しい。 ときには風雨に打たれながら陣頭指揮を執り、それでいて的確な思考をめぐらすことができるのは、男30台がピークだと言えるだろう。


盛氏 「蘆名家の土台は堅固である、今は少しだけ楽をさせてくれ」


・・・そんな気持ちであったとも見受けられなくもない。 盛氏がおよそ10年前に決心した、「南奥の盟主に、おれはなる!(超訳)といった裂帛の気迫も、時と共に薄らいでいったのだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


それでは長くなってきましたので、いったんここでお開きにすることにしましょう。


次回は永禄年間の後半にかけて、変化してゆく周囲の情勢、そして次代を担う武将の登場といった話ができたら、と思っています。
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年5月15日水曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(2)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
れんみつ姫を引く!~キャラ絵小話・蘆名家&れんみつ姫編(1)









☝・・・「蘆名家とれんみつ姫」について! 今回は「伊達氏天文の乱」が終わったあたりから話を展開していこうかな。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・「伊達氏天文の乱」が終結して間もない頃。 奥羽地方を覆っていた伊達宗家の支配力は大幅に低下していた。 そのため、その影響下に置かれていた奥羽の大名たちは軛(くびき)を解かれた獣のように、それぞれの道の模索を始める。 会津の領主・蘆名盛氏もそういった大名のなかの一人だ。







☆『戦国大戦』シリーズより、伊達晴宗


☝・・・奥羽の盟主的な存在・伊達氏を相続したばかりの晴宗は、そのころ米沢に本拠を移して、傷付いた自家の回復に必死になっていた。 同時に、「天文の乱」でいちど崩壊してしまった洞中(とうちゅう)をなんとか復活させようと、あれこれと策をめぐらせているようでもある。 伊達氏にとってこの乱とは、あまりにも代償の大きい親子喧嘩であった。


このように、奥羽最大の武家である伊達家が傷付き、活動を低下することで、奥羽地方には束の間の平和が訪れた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【洞(うつろ)について】

前回でも触れましたが、「洞(うつろ)」という概念は少し難しい。 伊達氏戦国期についてのある書籍を読んだところ、それによると伊達洞中(とうちゅう)とは、「伊達氏の伝統的な領国内で、直接支配権の及ぶ範囲」と解説されていた。 つまり「洞中≒家中」といった捉え方だ。 なので、その書籍からすれば、わたしの洞についての理解は間違っていることになる。


しかしながら、洞(うつろ)という言葉は「一族、仲間をいう(→日本史用語大辞典)とも定義されている。 それを踏まえれば、大名家同士の婚姻によって仲間意識が形成されたのであれば、それは他家であっても洞・洞中だと言えるのではないだろうか。 なによりも、他家と縁戚関係を結んで回った動機やメリットは、そういった勢力形成目的意外に何があるというのだろう? ・・・このように、「洞」という概念の研究は未だ途上だとわたしは感じます。


それにしても興味深いのが、当時の東国を中心とした武家が、一族や仲間のことを「洞(うつろ)」と呼びならわしていたことだ。 「洞」という漢字の原義には、①「ほら。空っぽのもの。」というお馴染みの意味がある一方で、②「見抜く。知り尽くす。」という意味もあり、①②の意味を併せ持たせて洞(うつろ)と呼びならわしていたことに、改めて深い含蓄を感じてしまうのです。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』シリーズより、姫化した蘆名盛氏


☝・・・一方そのころの蘆名盛氏はというと、連歌師や僧侶といった各地を巡り歩く民を介して、関東や甲信越といった東国・上方の情報を事あるごとに入手していた。 一時の平穏に安堵せず、時代のうねりや流れといったものを把握し、次に来たる異変に備えるためだ。


彼ら・・・漂泊の民の話すところによれば、日本各地でみられる下剋上の風潮は嵐のごとくで、室町幕府によって定められた世の秩序は乱れていくばかりだという。 そのようななか、今のところ南奥地方(南東北地域)だけは唯一、❝凪いでいるようだ❞とも。


盛氏 「南奥(なんおう)の風は凪いでいる、か・・・」


南奥は比較的平和だと言われたところで、盛氏には気がかりなことが一つあった。 それが常陸の国・太田の佐竹氏の動向だ。 ここ最近の佐竹はどうも、太田から北へ延びる谷伝いに、南奥への進出をしきりに図っているのだと言う。 その当面の標的になっているのは結城氏の白河領・南郷地区だ。


白河を領する白河結城氏は、いまより100年ほど前までは、南奥地域最大の勢力を誇っていた。 それが南北朝の動乱にあい、一族間の内紛にあって弱体化し、今ではすっかり力を失ってしまっていることは、その土地の大名・国人なら誰もが知っていることだ。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、佐竹義昭


☝・・・当時の佐竹家を率いる当主は義昭という人物である。 佐竹軍は戦において派手な強さこそは無いものの、土地土地に堅固な山城を築き、南奥に向かって地道に地歩を固めてにじり寄ってくるその姿勢を、盛氏は率直に脅威だと感じた。


盛氏 「今は時代が大きく動いているとき。 佐竹の動きを放置していたら、あるいは、奥羽も関東の二の舞になるやもしれぬな(→北条の関東進出・支配)。 怖いのはやはり、外部からの侵入者だ。 ここは奥羽の主筋・伊達に立ってもらうしかないが・・・」


しかし盛氏は苦い表情を面(おもて)にあらわす。 ほんらい頼りにすべき伊達氏はというと、羽州・米沢に退いてしまっている。 盛氏の目には、この伊達氏の行動は守りに入ったとしか見えなかった。 加えて、大崎・相馬の二大名が「天文の乱」の遺恨によって伊達氏に立ちはだかり、その当面の敵として戦う構えで事が進んでしまっている。 そのため伊達氏の注意と視線とは、彼らに向けてのみ注がれているといった状況だ。


今は乱世である。 伊達氏がかつての力を失った今を狙ってか、外部からの侵入が本格的に始まろうとしているのだ。 ・・・それならば、座して余所者の侵入を許すより、自らがその地域を掌握するべきであろう。 奪われるよりも先に奪ってやれーーーこういった「戦国の論理」で盛氏がものを考えたであろうことは想像に難くない。


盛氏 「もはや南奥において、伊達は頼みとならず・・・この蘆名が、伊達に代わって南奥に立つしかないな」


かくして盛氏は、野望半分、自衛半分といった心持ちで、南奥の盟主となるべく行動を始めたのである。




(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【戦国奥羽の作物・食料について】


☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・ここで少し脱線話を。 俗に、「東北地方は寒冷の地で、土地の生産力が低い」などと言われることがある。 それは事実その通りなのですが、しかし、それは米ベースで見た土地の生産力であって、稗や麦、蕎麦や豆といった雑穀は、戦国時代の当時でも問題なく収穫することができたようだ。


☆官公庁のサイトより、稗


☝・・・むしろ、冷害といった災害の際には、そういった雑穀の方が安定して収穫できたと言われている。 とりわけ(ひえ)が奥羽地方では重視された穀物であった。 現代人の私たちからすれば、「田んぼ=米、稲作」であるけれども、「稗田阿礼」の「稗田」が示すように、奥羽の田んぼには稗が植えられることが少なくなかった。


このように当時の奥羽の人々は、米よりもそういった雑穀を主食とし、普通に生きていくことができたのである。


会津黒川を中心とした蘆名氏の所領は伊達氏に勝るとも劣らない広大さで、広い農地は大勢の武士とその家族を養え、盛氏はその地方において抜きんでた兵数を動員できたのだ。






(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆官公庁のサイトより、南奥の勢力図


☝・・・「天文の乱」による伊達氏の弱体化と、それに乗じた関東衆・佐竹氏による南奥進出の本格化。 このような事態に対応するべく、蘆名盛氏は天文年間終わり(1550)あたりから仙道地域に進出することになる。


まず盛氏は、伊東氏という勢力を駆逐した。 この勢力はすでに没落して久しいらしく、簡単にひねり潰せたようだ。 次いで、蘆名家は二階堂、田村の両氏を軍事力で屈服させた。


その際、二階堂氏については軍事的威圧のもとに婚姻関係を結んだようだ。 諸説あるものの、盛氏は二階堂盛義に自分のを娶らせたとも伝わっている。


そのほかに、白河結城氏に対しては謀略をもって支配を及ぼしている。 その手口がこうだ。 まず、白河結城氏の一族でひとかどの人物・・・小峰隆綱(のちの義親に目をつけ、彼に自分の娘を嫁がせる。 そうして縁戚関係を結び、肩入れをしておいてから、隆綱をそそのかしてクーデターを起こさせ、白河結城の家督を乗っ取らせたのだ。 こうして盛氏は、自分の娘とその婿・義親を介して、白河結城家を自らの影響下に置くことに成功したのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・永禄年間のはじめ頃(1560頃)。 このようにして蘆名盛氏は、時おり領内で起きる反乱を鎮圧しつつ、足かけ10年以上ほどの年月をかけて、懸案であった仙道地域に完全ではないながらも自らの「洞(うつろ)を築き上げた。 本領である会津四郡に加えて、伊東、二階堂、田村、白河領。 その総知行地は70万貫、石高に直せば100万石とも称される一大勢力圏である。


軍事、謀略ともによく使いこなす。 壮年となっていた盛氏は力に満ち、このとき彼は押しも押されぬ南奥の盟主として、その地に君臨していた。


仮想敵の佐竹は、いまだ南奥への進出を諦めてはいないようだ。 佐竹との決戦、近しーーー盛氏の視線と注意は南東に向かってとうとうと注がれていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回は「天文の乱」~「蘆名の仙道支配」までを追ってみました。 


このあたりでいったんお開きにしましょう、次回をお楽しみにー。
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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