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2020年8月8日土曜日

【日本史】マンガ『雪花の虎』が面白い!~「上杉謙信=女性説」について~大虫・虫気とは何なのか?~

マンガ/日本史コラム




☝・・・週刊マンガ雑誌・ビックコミックスピリッツ連載、東村アキコさん作の『雪花の虎』が佳境を迎えている。 今回は、この話をー。







(*´ω`)(*´ω`)(*´ω`)


☆『雪花の虎』9巻より


☝・・・まず、『雪花の虎』とは、「上杉謙信=女性説」を採った歴史もののマンガのことです。 そして、物語はまさに「鞭声粛々、夜河を渡る・・・」のシーンに差し掛かったところだ。


マンガについて興味を持った方は『雪花の虎』を読んでいただくとして、それにしても「上杉謙信=女性説」は意外と世の中に普及したもんだ。 歴史好きはもちろんのこと、ゲームといったサブカルの分野を経由して、そんじょそこいらの一般人でもこの説について知っている人は意外と多い(たぶん)。







☆グーグル検索より、八切止夫さん


☝・・・この「上杉謙信=女性説」を初めて世の中に発表したのが、作家で歴史家でもある八切止夫さん(1914~1987、故人)だ。 なお、この説は、昭和40年代(1965~1975)頃には八切さんの著作によって発表されていた模様。


八切さんという作家は、たとえば「上杉謙信は実は女性だった!」などと、勇壮な武人であるはずの上杉謙信が実は女性だったと主張するなど、いわゆる世間の常識・認識とは程遠い説を展開する作家である。


それなので、八切さんが存命の頃には、もっぱら彼は「突飛な主張で世間を騒がせる作家」だとみなされていた。 これは八切さん本人も「クレイジーだ、でたらめだと世間から言われる」と、自身の評判について著書でそう述べている。







☆『雪花の虎』4巻より


☝・・・一見でたらめな主張をしている八切止夫さんだが、独自の説を展開するにあたって、厳格なルールがあるのだという。 それが「一級史料だけを用いる」というものだ。 今回話題にしている「上杉謙信=女性説」も、江戸時代の前期に松平忠明が編纂を命じたという『当代記』の記述がその種となっている。


なんでも、その『当代記』には上杉謙信の死因が書かれているというのだ。







☆『戦国IXA』より、松平忠明











☝・・・『当代記』巻二の記述にこうある。


”この春、越後景虎卒去。 年四十九、大虫と云々。”


☝・・・凡百の一般人であるなら、この記述を読んでも「ふーん」の一言で終わってしまうところだろう。 だが、八切さんは違った。 このたった一言の記述が、今日でも広く知られるようになる、「上杉謙信=女性説」の起点となっているのだ。


では、この「大虫」とは、いったい何のことなのだろう。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


☆映画『千と千尋の神隠し』より、虫


☝・・・話は脱線しますが、日本語の慣用句に「虫の居所が悪い」「腹の虫が収まらない」などと、虫を使った表現がいくつかある。 中世の日本においては、人間の感情には「虫」が関わっているという認識があったという、何よりの証拠だ。


ここでいう虫とは、昆虫(bug,insect)といった類ではない。 それは固い甲殻を持つ昆虫ではなく、むしろウネウネとしたミミズのような印象の生き物だ。 回虫など、寄生虫(parasite)といった気持ちの悪い系の虫がそのイメージに近いだろう。


こういった、ウネウネとした虫を古来の日本人は体内に抱えていると考えていた。 まぁ、中世では実際に寄生虫を持っている人は割合多かったと思いますが・・・
@@;


とりわけ女性には大きな虫が体内にいるとされ、その虫が一か月に一度体内で活発に動きまわり、内臓を突くことで、それが原因で月経が起こると当時は信じられていたのだ。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


☆官公庁のサイトより、庚申塔


☝・・・人の体内には虫がいるーーーこういった中世日本の信仰/迷信は、「庚申(こうしん)信仰」という民間信仰に端を発している。


「庚申さま」「庚申講」などと知られる庚申信仰の考えはこうだ。


人間の体内には「尸(し)」という虫がいて、庚申(かのえさる)の夜に体内から抜け出しては、天帝、もしくは閻魔大王に告げ口をして人間の寿命を縮めるーーーというものだ。


寿命が縮むなどと言われては、損をしたような、どことなく不安な気持ちにさせられる。 そこで人々が取った行動が、「庚申の日の夜にグループを組んで集い、そこで物語をしたり、祀られた神仏を拝みながら徹夜をする」ということだった。


どうも尸という虫は、人間が起きてさえいれば、体から外に出ていかないと考えられていたようだ。 だから徹夜をしたというワケ。 こうした風習は古くは平安時代(10世紀)の頃に中国から日本へ伝わり、初めは貴族の習慣であったが、やがて室町時代(14世紀)頃までには一般大衆に広まり、江戸時代(17~19世紀)にとりわけ流行した。


日本人には興味深い小話を。 「コンニャクがお腹をキレイにする/お腹の砂を下す」と俗に言われるのは、この庚申信仰のためらしい。 「庚申の日には蒟蒻を食べる」という信仰に基づいた習慣があり、元々は尸=虫を下すという呪術的な意味合いだったものが、今日まで伝わっているということだ。


☆『コトバンク』より、蒟蒻







また、「月待塔信仰」も先ほどの「庚申信仰」と関連した信仰だ。 「二十三夜さま」「十九夜さま」などと「〇〇夜さま」で知られる月待塔信仰は、もともとは庚申信仰とは別の信仰であったが、室町時代あたりに習合。 事実上、女性に限定した庚申信仰となった。


ええとねえ・・・、信仰上の行事とはいえ、複数の男女が一夜を過ごすとなると、それはワクワクするイベントであり、一方でハプニングやトラブルも起こったりと、そういった理由から女性専用の「月待塔信仰」が生まれたのだろう。 真面目に言えば、「女性の血の穢れ(→月経、出産)」が庚申信仰に差し障ったためらしい。 女性の月経は虫が悪さをしたせいと考えられていたからね。


「庚申信仰」も「月待塔信仰」も、どちらもキッチリとした決まり事のない民間の信仰であり、そこには地域差があって、さらには時代の移り変わり・信仰の流行り廃りといった要素も加えるとその実態は流動的で一言では言えないが、いずれにしても中近世の日本には、体内に得体のしれない虫がいるという認識があったことが伺われる。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


☆『雪花の虎』7巻より


☝・・・『当代記』記述の上杉謙信の死因と書かれた「大虫」を、八切さんは婦人病であると解釈した。 その背景は先ほどご説明したとおりだ。


「そんなバカな!」「トンデモ説だ!」と怒号にも似た非難を浴びつつも、昭和40年代に発表されたこの説は、なんだかんだと言いながら平成年間を通過して、令和のこんにちでは、むしろ八切さんが存命中の頃よりも「上杉謙信=女性説」信者を増やしている。


このこと自体が「仮に上杉謙信が女性だとしたら、いくつかの謎がすんなりと解ける」という、大衆によるこの説への支持表明であると言えるだろう。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


☆『雪花の虎』2巻より


☝・・・賛否両論の併記が歴史に対する公平な態度だとするならば、最後に少し「上杉謙信=女性説」に否定的な側面をお伝えしていこう。


上杉謙信の死にざまについて、歴史好きな人は「厠(便所)でぶっ倒れて、それからコロッと死んでしまった」と知っていることだろう。 このソースは『景勝公御書』という史料からのようだ。


「不慮之虫気」と、その史料では上杉謙信の死因についてそう書かれている。 松平忠明編纂の『当代記』では「大虫」だったが、ここでは「虫気」だと記されていることに留意しよう。


まじめな日本史の学問では、この「虫気」を、「むしけ」ではなく「ちゅうき」と解釈している。 「むしけ」とは迷信上の虫である三尸(さんし)によって引き起こされる腹の病で、ともすれば婦人病とも解釈できるが、「ちゅうき」とは中気であり、すなわち脳卒中であると考えているのだ。


つまり「虫気=ちゅうき=中気=脳卒中」という等式である。 この等式はしごく穏当な解釈であるともいえるが、わたしからすれば、史料の記述(→厠で倒れたという記述)に引きずられて導き出した印象が強い。


果たして上杉謙信の死因は虫気(むしけ=婦人病)だったのか、それとも中気(ちゅうき=脳卒中)だったのか。 歴史書がその辺ハッキリと記さなかったばっかりに、今日このような混乱を招いている。 何かのきっかけで決定的な史料が見つかり、「上杉謙信=女性説」に決着がつくことを私たちは待つのみだ。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


☆『雪花の虎』1巻より


☝・・・「上杉謙信=女性説」。 信じるか信じないかは、アナタ次第です・・・!
(`・ω・´)


と、お茶を濁して、今回のブログはこのあたりでお開きにしておこう。


上杉謙信が本当に女性だったとしたら、こんなに面白い話はないし、あるいはその反対にその説が間違っていたとしても、私たちはその過程でロマンを十分に楽しめたと納得できる。









☝・・・てゆうかシロ! 甘粕景持! しんがりガンバレ!!
(*´ω`)


※この文章はブログ主の見解です。


(つづく)


【ご挨拶】
更新お久しぶりです。 何かと忙しいので、月刊更新的なブログを目指していこうと方針転換をしました。 よかったら、引き続きご覧になってくださいませ。

ゲームにマンガといったサブカルに、少しお堅い歴史分野の散策。 各方面への興味は尽きませんが、とにかく時間が、ねえ。




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日本史ランキング

2020年5月24日日曜日

【日本史】コロナ・パンデミックと信長の叡山攻め!~ついでに日本仏教について思いを馳せる~キャラ絵小話!シリーズ~

時事/日本史/仏教コラム


☆サイト『ダイヤモンドオンライン』 2020年4月24日の記事
「東京五輪の1年後開催は無理、中止を直ちに決めるべき理由」より
https://diamond.jp/articles/-/235644


☝・・・コロナ・パンデミックという緊急事態で1年の延期が決定している東京2020オリンピック。


けれども、このパンデミックの影響の大きさ・深刻さを考えると、来年2021年度での通常開催は、難しいというのが正直なところだろう。







☆サイト『痛いニュース』 2020年3月の記事
「来日した聖火さん、強風により予備含め種火ごと消えてしまう」より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1998903.html


☝・・・先ほどのニュースに関連して思い出されるのは、今年の3月に「日本に来た五輪の聖火が消えてしまった」というトラブルです。


このトラブル、ネット上では「不吉だ」「縁起でもない」ということが半ば冗談のように言われていましたが・・・ここにきて、その縁起でもないことが、おぼろげながらにも現実味を帯びてきたと言えるのではないでしょうか?
(;・∀・)







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


それはそうと、今回のブログは日本史がテーマだ。 そして、わたしが先ほどの「五輪の聖火が消えてしまった」という事件に触れて、思い出すことがある。









☝・・・それが、工藤かずや原作、池上遼一画のマンガ・『信長』(連載期間:1986~90)だ。


その3巻に信長の比叡山攻めの回があり、そこで「不滅の法燈」なるものが出てくるのです。









☝・・・「不滅の法燈」ってナニ? という方への説明の画像がこちら。


【不滅の法燈】
比叡山延暦寺 開山以来1200年以上 根本中堂でともし続ける 天台宗の象徴


☝・・・「不滅の法燈」について、簡潔な説明としてはこれ以上のものはないだろう。


ある炎を一つの灯にして、絶やさずにずっと灯し続ける・・・これを尊い象徴としたものが「五輪の聖火」であり、天台宗の開祖・最澄が灯したと言われる「不滅の法燈」というわけだ。







さて、「不滅の法燈」を巡っての攻防を、先ほどのマンガ『信長』では、比叡山の僧兵・・・若狭坊厳空(わかさぼう・げんくう)という名の、武蔵坊弁慶を思わせるような見た目の僧兵の立場から描いている。


そして劇中では、比叡山は信長軍の攻撃によって全山が灰燼と化したかのように見えたが、若狭坊厳空らの命を懸けた活躍によって、不滅の法燈は守られたという話になっている。







☆ゲーム『信長の野望』シリーズより


☝・・・先ほどのマンガ『信長』の「不滅の法燈」を巡ってのストーリーは要するに、


比叡山延暦寺は信長の攻撃によって灰燼と化しました。 けれども、その象徴であり魂でもある「不滅の法燈」だけは、なんとか守り切ることができたのです!


・・・という、延暦寺の主張がそのまま採用されている。 しかしその本当のところはというと、延暦寺の主張とはやや異なっているようだ。







☆『戦国大戦』シリーズより、南光坊天海


☝・・・戦国時代が終わり、江戸時代に入ってからのこと。 比叡山延暦寺は江戸幕府の支援を受けて、僧・天海 の総指揮のもと再建されることになる。 そしてその際の記録が残されている。 それによると、


延暦寺を再興するにあたって、その象徴である「不滅の法燈」がすでに失われてしまったことは、寺にとって不名誉なことであった。 それなので、出羽国の立石寺(山寺の通称で知られる)に分灯した法燈があったので、そこから再度分灯するという手順を取って、法燈を再び本山へ戻したのだ、と。


・・・やはり、信長の叡山攻めで「不滅の法燈」が失われたことは確実だ。 このように、寺の関係者は威厳を重んじるあまりか、嘘をつくことが往々にしてある。







☆『戦国アスカZERO』より、姫化した天海


☝・・・なお、比叡山延暦寺が江戸時代に再興されるにあたって、かつて寺にいた僧侶や、寺の古記録といった資料が役に立ったと言われている。


これは大いなる謎で、通説によれば延暦寺は織田軍によって徹底した破壊や殺戮の大弾圧を受けて、再起不能の状態に追いやられていたハズだ。


それなのに、延暦寺の再建が比較的スムーズに行われたという事実を考えれば、信長の叡山攻めは不徹底で、事前に難を逃れた僧侶や寺宝、古記録が多数あったことを示唆している。 かの天海も、難を逃れたその一人という訳だ。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した天海


☝・・・それに加えて、近年の比叡山の発掘調査によると、「信長の叡山攻め」の焼け跡などの状況を調べたところ、『信長公記』や『言継卿日記』といった史料の記述とは一致しない部分が多数あったようだ。


それなので、調査をした学者は 「信長が行った比叡山焼き討ちについての通説は、いろいろな史料に依存して真実だと思われてきたが、この度の発掘調査を見る限りでは、そういった史料には誇張といった嘘が含まれているように思われるので、通説の見直しが必要だ」 と結論づけている。


織田軍は、比叡山延暦寺の中心的な建物を焼き払い、そのことを「全山、火の海にしてやったぞ!」と誇張する。 それに対して延暦寺は「いやいや! そうはいっても、我らは天台宗の象徴・不滅の法燈を守り切ったのです!」と虚偽の主張をする。 いつの世も変わらない、権力をもった者同士の宣伝合戦という事だ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、先ほど比叡山延暦寺について触れたことで、ここからは仏教のことを少し考察していきたい。 比叡山延暦寺が「鎮護国家の根本道場」という日本仏教の大看板をしょっているのは有名な話で、それに対してわたしは、日本仏教というものについて一般人なりに考察をしてみたいとかねてより思っており、今回がそのいい機会というワケだ。


いつもの脱線ですが、日本史と仏教に関心のある方はお付き合いください。









☝・・・仏教。 それはインドの釈迦の教えであると言われていて、一般の人たちもそういった認識を持っているものだと思いますが、わたしからすればそれは難解・・・というか、正直言って意味不明なものだ。


まず、仏教は釈迦が本尊であるはずなのに、日本の寺では如来や観音、不動、阿修羅、明王、○○天(毘沙門天など)といった、釈迦とは異なるものを「ほとけ」と総称して祀っている。 たとえば観音って、明らかに女神でしょ。


そして、寺で釈迦の教えは平易な言葉では説かれず、「題目」や「経」といった、よくわからない呪文が大切にされている。 南無妙法蓮華経/南無阿弥陀仏/あるいは「般若心経」などと。 ごく一部の熱心な信者ならば、呪文のような経を聞いて釈迦の思想が分かるのだろうけれども、それってかなり不親切ではないの?


さらに、僧侶は広範かつ難解な釈迦の教えを理解し、そのうえ厳しい戒律を守ることで人々の尊敬を集める・・・ハズが、なんだかんだで戒律なんのその。 釈迦との見解の相違で、妻帯OK。 お酒?いえこれは般若湯です。 戒名一文字○万円と金儲け。 釈迦の教えを、どれだけ理解して実践しているのだろう。 こういったような現状がある。 頭を丸めて寺で働いてさえいれば、その人は僧侶ですか?


このようにわたしには、仏教への興味や関心がありつつも、日本仏教に対する不信感や批判心がある。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)




☝・・・わたしの仏教についての認識は以上のとおりとして、次は日本仏教の沿革を見てみよう。


日本の仏教伝来は、「ゴミ屋さん、ほっとけ」という語呂合わせで、538年のことだと教科書では教えている。 聖徳太子が生まれる前の、飛鳥時代の初期に伝わった、外来の宗教ということだ。


そして大和国(奈良県)を中心とした畿内地方で仏教は隆盛した。 東大寺、興福寺といった寺院を包括した南都・平城京の成立だ。









☝・・・時は流れ、100年足らずで平城京は廃都とされ、遷都が敢行される。 「鳴くよウグイス平安京」の語呂合わせで知られるように、桓武天皇は794年に都を新たに建設した。 その主な理由は、大きな力を持つようになった南都の寺院勢力の政治干渉を嫌ったためだと言われている。


一国の都が破棄される・・・それも短期間に二つも(平城京と長岡京)という事実は、よくよく考えれば重大な事件であり、教科書で説かれる以上のよほどの理由があったものだと思われるけれども、ここでその疑問はスルーしよう。


ともかく、南都に代わり、新しい計画都市が山城盆地の中央、二つの川に挟まれた原っぱに建設された。 その都市は中国大陸の思想・・・いわゆる「風水」の思想のもと、立地が決まったと言われている。


「風水」で有名なのが、「青龍・白虎・朱雀・玄武」という四つの神獣による「四神相応の地」というワードだ。 地形/地勢をそれぞれの神獣に見立てて祭祀をすることで、一定の条件を満たした都市はマジカルな恩恵を受けると当時は信じられていた。







☆切手「特別史跡キトラ古墳」より


☝・・・この「四神相応の地」には弱点がある。 それが「鬼門」という概念で、対象となる都市の東北から南西にかけた斜めのラインが「鬼」の通り道であり、様々な災厄をもたらすと風水の思想では考えられていた。


それに対抗するのが「鬼門除け」という概念だ。 鬼門除けの祭祀をすることで、都市のマジカルな結界が完成すると当時は信じられたのだ。 そしてこの時、たまたま新都の鬼門の方角:東北の比叡山に、たまたま若き無名の僧:最澄が小さな庵を結んで暮らしていた。


その小さな庵は、新しい都の鬼門を守護する祭祀施設として認定され、のちに日本仏教を代表する大寺院・比叡山延暦寺へと発展することとなる・・・。







☆切手「遣唐使船」より


☝・・・桓武天皇は進取の気概がある大政治家で、当時世界最大の帝国であった唐へ、優れた人材を派遣・留学させた。 それが「延暦年間の遣唐使」で、多数の官僚とともに、空海・最澄といった僧侶が入唐したことが知られている。


桓武天皇が僧侶を入唐させた狙いは、ズバリ、当時最先端の仏教の一派である「密教」を日本へ導入するためだ。 事実、最澄と空海はともに唐の寺院で密教を学び、日本へ帰国すると密教系の寺院を建設している。







☆ウィキペディアより、桓武天皇


☝・・・桓武天皇はどうして新しい仏教を必要としていたのだろう。 その心底は時代も身分も異なるわたしには伺い知ることはできませんが、桓武天皇は皇統の異なる出身であり、一説には、皇位を巡る数多くの暗闘を制覇した、血塗られた天皇だともいわれている。


「密教」は仏教の宗派のなかでも、より現世利益を求めた仏教ともいわれ、「加持祈祷」といった儀式で呪術的な効果を得られると当時は信じられていたらしい。 密教の儀式・呪法のひとつに呪詛があり、さらには呪詛に対するアンチ効果・・・怨霊除け・怨霊封じといった分野もあるといわれ、桓武天皇はそういったマジカルな恩恵を密教に求めていたのかもしれない。


それはさておき、桓武天皇は延暦25年(806)3月に崩御した。 最澄が唐から帰国して半年後のことで、このとき行われたであろう密教の加持祈祷は効果を発揮しなかったようだ。 最澄・空海といった密教を学んだ僧侶たちは、こうして自分たちの庇護者を失ったのである。







☆切手「東寺 大威徳明王」より


☝・・・しかし、最澄・空海のもたらした新仏教・密教は、当時の日本仏教界に画期的なインパクトを与えた。 最澄もすぐれた人物だったが、特に、空海という人物が巨大すぎた。 この空海という人物は、権威付けといった粉飾を差し引いても、まぎれもなく日本史上屈指の天才だ。


最澄・空海はときに反目しつつも、密教を日本で弘めるという点では足並みをそろえ、従来の日本仏教をより密教的に、密教へと塗り替えていくことに尽力した。 その結果、最澄の比叡山延暦寺と空海の高野山金剛峰寺という二つの密教寺院は、やがて日本仏教の中核として確立・定着したのである。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)




☝・・・しかし、わたしが思うに、その「密教」なるものが日本仏教の中心となることは、釈迦の教え本来のものから遠ざかることであり、残念なことであった。


わたしたち日本人は、日本仏教こそがスタンダードな仏教だと信じて疑わず、歴史や仏教に関心が無ければこのことに気づくこともありませんが、よくよく注意してみれば、日本仏教は本来の仏教からは大きく変容してしまっている。 その例をいくつか挙げてみよう。










☝・・・そもそも、密教とは「秘密の仏教」という意味であり、「釈迦の教えに隠された秘密がある」と見做している。 そしてそれは極論すればオカルトへの道だ。 オカルトの怖いところは、解釈人の考えによっては、本来の教えが曲解されてしまうことにある。


傍証として、今日の世界宗教であるキリスト教やイスラム教に対して、「聖書/コーランには秘密が隠されている!」などと主張するものがいるだろうか? もしいたとしても、それはごく一部の少数であり、反主流の異端と呼ぶべき存在であろう。


つづいて、密教は英語で「タントリズム~タントラ主義の仏教~」と訳されており、仏教の亜流とされている。 そして、日本仏教は高野山・比叡山の両密教系寺院を中心としているでしょう。 そのことから、日本仏教は密教が正統ということになり、それはつまり釈迦本来の教えからは遠ざかってしまっているといえる。









☝・・・さらに、密教とは曼陀羅の図を見ればわかるように、(中央に主なるほとけがいるものの、)多神教の世界観だ。 これはインドのヒンズー教の影響が大きいと言われている。 その証左としては、たとえば観音菩薩信仰はインドの女神信仰が変容したものだと言われている。 また、不動明王といった怒れる表情の「明王」や、毘沙門天といった戦いのほとけである「〇〇天」は、どちらもインド・ペルシア由来の神々だ。 つまり、本来の釈迦の教えとは関係がない。


そして何よりも、釈迦は加持祈祷といった儀式・呪法を民衆に勧めていたのか。 題目を唱えよ、ただ一心に帰依せよと言っていたのか。 釈迦が民衆に伝えたことは、


1.「すべてのものごとに原因と結果・・・すなわち因果がある」
2.「人間の知覚、また人を取り巻く環境には実体がない・・・すなわち空(くう)である」
3.「因果と空、このことについてよく考えを巡らせれば、人は苦しみから解き放たれる」


・・・この3行にまとめたことであり、日本仏教が重んじる儀礼的なものは、本来否定されるべきことだ。


以上が、密教へ傾斜した日本仏教ついての個人的見解です。







(`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)


日本仏教についてここまで批判を展開してきたわたしですが、


しかし、仏教についていくつか本を読み、考えているうちに、日本仏教がこのような亜流へとなってしまったことは、残念なことであるけれども、仕方のないことだともわたしは思えてきた。









1.そもそも、釈迦の思想は難解すぎた。 「対機説法」といって、釈迦が真理について相手や状況によってさまざまなたとえ話で語ったことが、後の世に多数の解釈を生じた原因だった。


また、難解な釈迦の思想を探求するには、釈迦が生きた当時のインド社会の背景・・・すなわちインドの国民宗教であるヒンズー教を知る必要があった。 そのため、ヒンズー教が仏教に混じりこみ、やがて仏教はヒンズー教・・・巨大なインド社会という大海に飲み込まれ、沈んでしまった。




2.釈迦の語りでしばしば出てくる「般若(パンニャー)」は、「人知を超えた智慧」と解釈されている。 その般若なるものを、生身の人間が獲得できるのだろうか? ・・・つまり、釈迦は人知を超えた存在を認めており、それはすなわち神以外にほかならない。 なので、こんにち仏教寺院がアミダとか如来といった釈迦以外の神をあがめることは、釈迦の思想と矛盾していない。




3.日本仏教は中国仏教を基盤としているが、その中国仏教がすでに本来の仏教から変容してしまっていたので、そこから学んだ日本仏教もまた、釈迦本来の教えから遠くなってしまっていることはやむを得ないことだ。




4.さらに、釈迦の教えは僧侶であっても完全に理解することは困難なのだから、それを当時の無知な民衆に広めるためには、「超訳」する必要があった。


加持祈祷といった現世利益を求めるマジカルな行為や、題目や経を唱えるといった行為は、一種の「超訳」であるといっていい。 当時としてはやむを得ない必要悪であったと言えるだろう。 「超訳」のために日本仏教は隆盛したが、一方で純粋さを無くすなど、失うものも多かった。




5.寺院、僧侶の堕落や腐敗はいつの世もありがちなことで、それを批判していても始まらない。 それでも朽ち果てなかったということは、腐敗する以上に浄化するものがあったということで、そのために日本仏教は今日でも存続しているのではないか。


仏教批判のうち、僧侶のお金儲けについては、寺という施設の運営には欠かせないものである。 また、日本の僧侶が妻をめとるという事は、本来戒律では禁じられていることだが、僧侶が人である以上、結婚することは普通のことだと思うし、世襲化は寺の安定した継続のために役に立っている。




6.江戸時代が日本仏教にとって悪い時代だった。 この時代に、寺は完全に民衆統治のための行政の一機関となり下がった。 寺人別帳で戸籍管理。 寺子屋で民衆を教育。 これらにはもちろん功罪があって、一概に良し悪しは言えないが、批判の多い「葬式仏教」の始まりは江戸時代であることは確実だ。







このように、日本仏教の寺院や僧侶が世俗化したことはやむを得ないことだったと、一定の理解はできる。


とはいえ、ほんらい宗教とは理想を語り、夢を見させるものだろう? それに対して日本仏教は、あまりにも現実に流され過ぎている。 釈迦の説いた純粋な仏教を、今一度弘めてピュアさを取り戻すべきだ。 それがこんにちの日本仏教の課題だと思う。







日本仏教がこれからも存続して、日本の歴史の連続性・継続性が保たれることを願いつつ、今回はこのあたりでお開きとしておきましょう。 硬い話題の文章を読んでいただき、ありがとうございました。
mm


※この文章はブログ主の見解です。


(つづく)



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2020年3月20日金曜日

【日本史】荒木村重・異伝!~キャラ絵小話シリーズ~

日本史コラム




☝・・・先日、荒木村重さんカードを引きました。 今回は、この話をー。









☝・・・今回のキャラ絵の荒木村重さん・・・ゴッソリと荷物を担いでいますねえ。
@@







☆マンガ『へうげもの』より、荒木村重


☝・・・歴史好き、かつマンガ好きの方には言わずもがなですが、先ほどのキャラ絵は、マンガ『へうげもの』に登場する荒木村重が、城から一人で逃亡するという一場面をそっくりそのままパクっています。


しかし、これをパクリ・・・もしくは借用と言ったら、少々意地が悪いかもしれない。







☆『信長の野望』シリーズより、荒木村重


☝・・・なんせ、本来 “硬派” であるはずの『信長の野望』シリーズまでもが、荒木村重のキャラ絵を茶道具に執着する姿として描いたりなどと、完全にネタキャラとしての扱いをしているくらいなんですから・・・!


それほどまでに、荒木村重が妻子や家臣を見捨てて、そのうえで茶道具を持って有岡城をはじめとした摂津四城から逃亡したという逸話は、戦国時代屈指のヘタレ話として鉄板となってしまっているようだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆書籍『信長の野望 覇王伝 武将file』より


☝・・・そんな荒木村重の謀反は、通説では謎が多いとされている。 わたしがバイブルとして愛読している『信長の野望・覇王伝 武将file』でも、彼の謀反はまったくの意味不明だと、そういった解説がなされていて印象的だ。


そこの部分を少しだけ引用させてもらおう。


【荒木村重】1535~1586
❝今一つよく解せない謀叛を起こして、城を攻囲されるとあっさり妻子を捨てて逃げたといわれる不思議な人である。 信長は怒り狂って二十一才になったばかりの美人の妻君はじめ百二十人を磔刑にして槍で突き殺させ、さらに五百人以上を小屋に押し込めて生きたまま焼き殺した。 戦国七不思議のひとつともいうべき妙な事件である。 ・・・以下略・・・❞



☝・・・そうそう、解せない謀反を起こされた報復として、信長は数百人にも及ぶ村重の縁者を殺戮しているんですよね。 第六天魔王の本領発揮といったところかな・・・おっかねえ!







☆NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』より、だし姫


☝・・・信長が村重に対して行った報復の中でとりわけ悲劇だと言われているのが、先ほどでも触れられた、荒木村重の美人の細君(21)の処刑だ。 そんな彼女は「だし」の名前で知られている。 「だし姫」とか、「だしの方」といった呼び名で。


けっこう前のNHK大河ドラマ・『軍師官兵衛』で、女優の桐谷美玲さんが演じたことで有名になりましたよね。 うーん、美人さんです!







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した荒木村重


☝・・・『信長の野望・覇王伝 武将file』の著者に「戦国七不思議のひとつ」とまで言わしめた荒木村重の謀反。


とはいえ何事にも理由というものはあるもので、村重が謀反に至った理由についての説はいくつか世の中に出回っている。 その中で代表的なものを二つ挙げてみよう。







(1)村重の部下が、勝手に敵である本願寺勢に兵糧を運び入れた。 これは重大な利敵行為であり、このことが信長にバレたら恐ろしいことになる・・・ということでやむなく謀反に至った説。

(2)そもそも村重は野心家であり、毛利家と織田家との間でコウモリ/二股をやっていた。 それが信長にバレたので謀反説。


・・・と、このように、村重が謀反に至った説としては、(1)が通説としてよく知られ、(2)が文献史料を用いる学問の分野で有力となっている。 そして、現在では史料重視の風潮によって(2)の説に軍配が上がっているようだ。


しかし、(2)の説では、それだけでは解けない謎がある。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した荒木村重


そういった謎を具体的に挙げてみよう。


(謎1)
信長が村重の謀反をあらかじめ知っていたとするならば、なぜ村重に弁明の機会を与え、村重の出方を見極めたのか。 また「黒田官兵衛の幽閉」という事件も、信長が村重の叛意を知っていたのならば起こり得なかったハズだ。


(謎2)
どうして村重は、信長軍の包囲が厳重だった有岡城をはじめとした、摂津四城から落ち延びることができたのか。 そして、どうして信長からさらなる追撃や追及といったことを受けなかったのか。 これは村重の妻子や家臣たちが虐殺されていることを思えば、あまりにも対応に差がありすぎる。


・・・こういった、いくつかの疑問は先ほどの説ではうまく説明することができない。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『ぐんたま』より、荒木村重


☝・・・要するに、荒木村重は傍から見て「解せない謀反」をして、経緯は不明なものの、結果的に逃げおおせることができた。 こういった印象を強く持ったわたしでしたが、のちに一つの説を知るようになる。


それは通説とはまるで異なった、異端かつ魅力的な説だ。


これから、その説の骨子を箇条書きで説明することとしよう。








(・ω・)(・ω・)(・ω・)




1.荒木村重と織田信長が対立するそもそもの原因とは、実は一人の美少年を巡ってのことだった。

2.美少年とは小姓の万見重元・・・通称、万見仙千代である。

3.仙千代は色小姓(男色をもっぱらとする小姓、つまりは男娼)上がり。 そんな彼は紆余曲折を経て村重に身受けされ、彼の近侍兼寵童として仕えるようになった。 そんな彼の諱(いみな)である重元の「重」は、村重から偏諱を賜ったもの。

4.仙千代の美少年っぷりは荒木家中だけでなく、やがて上位の織田家中にても知れ渡ることとなる。

5.衆道家としても知られる信長が興味を示す。 そして仙千代を安土に呼び寄せ、そのまま理由をつけて返すことをせず、強引に直臣にしてしまった。

6.当然、村重は信長に対しての感情を悪くする。 やがて村重は信長相手に意地を張り、傍目には不可解・無謀とも思わせる謀反に踏み切る・・・


・・・といったものだ。


とはいえ、荒木村重の謀反の真相が、信長と一人の小姓を取り合っての争いだとは、にわかに聞かされても多くの人は納得してくれないだろう。







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☝・・・なお、先ほどの「荒木村重が謀反をした理由は、万見仙千代を織田信長に奪われた恨みから、説」を展開したのは、往年の大衆作家で歴史家でもある八切止夫さん(1914~1987)だ。







☆マンガ『雪花の虎』より


☝・・・八切止夫さんを一言で説明するのならば、「上杉謙信=女性説」をはじめて世の中に発表した人、これに尽きます。 (※なお、マンガ『雪花の虎』は八切氏の唱えた「謙信は女性であった」という主張をベースに、ストーリーをはじめとした細かな部分は作者・編集者のオリジナルであると思われます。)


そのため、八切止夫さんはとっぴな説・オカルト説を唱える歴史作家であると世間では見なされている。


けれども、八切さん一連の書籍をきちんと読めば、その主張するところは十分な説得力を持っていて、「あるいは、そうだったかも・・・」と思わせるものがあり、やや強引な部分はあるけれども、ひとつの可能性としてたいへん魅力的であると、少なくともわたしはそう思っています。







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☆『戦国サーガ』より、姫化した万見重元


☝・・・話を万見仙千代に戻してみよう。


『織田信長家臣人名辞典』によれば、仙千代は信長の代表的な小姓らしい。 とはいえ、その出自については神子田氏だとされるものの、複数の説があり、不確実なものとなっている。


このことはよく考えれば奇妙なことだ。 大名の側近に侍る小姓とは、身元が確かな、信頼できる譜代家臣の子息が務めることが一般的だからだ。


しかも、仙千代が史料に登場して活躍するのは、わずか3年ほどの間だ。







☆『千万の覇者』より、堀秀政


☝・・・まず、万見仙千代が史料に初めて登場するのは天正3年(1575)。 どうやら仙千代は先輩小姓である堀秀政の部下となり、信長の小姓としての務めのイロハを学んだようだ。


そうして仙千代は若年ながら南部氏の使者を安土城内の邸宅で饗応したり、相撲好きな信長のために相撲大会の奉行を行ったりなどと、様々な活動が史料に残っていて判明している。

もっとも、仙千代のこういった働きは、彼が有能だから仕事を振られたというのではなく、主君の信長が美少年を大勢侍らしていることを内外にひけらかしたい、そんな虚栄心からであったようだ。 信長という人は安土城を華美に装飾したり、「茶の湯政道」で茶道具をひけらかしたりと、こういった傾向が見て取れる。


やがて来る、天正6年(1578)の10月。 仙千代は謀反を起こした荒木村重に対する糾問使として有岡城に派遣される。 そしてどういったいきさつか、仙千代は実戦経験がなさそうなものの、そこで彼は鉄砲隊の隊長として合戦に参加したようなのだが、あえなく戦死を遂げることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『しろくろジョーカー』より、荒木道糞


☝・・・話を荒木村重の謀反に戻してみよう。


矢切さんの展開する説・・・「荒木村重が謀反をしたのは、万見仙千代を信長に奪われたため恨みに思った説」の信ぴょう性は、果たしてどの程度なのだろう。


❝ーーー親子は一世、夫婦は二世、主従は三世というが、衆道の念者の繋がりは七世。 ともいうし、終生。未来永劫ともいうじゃろ・・・もし、荒木村重を、わしより早く死なせてみい。 あやつめ喜び勇んで死に居って、あの世へいき・・・去る伊丹城攻めの日に討ち死にしおった仙千代と、あの世で再会し、また二人して仲よう睦みあうに決まっとる。 そない馬鹿げた真似が、させられるかや・・・ よって村重めを殺すなどとは、もっての外なんじゃえ。❞


☝・・・これは矢切さんの小説の劇中にて、織田信長が村重の処遇について述懐する場面を引用したものですが、案外的を得ているのではないでしょうか。 時には緩慢と生かし続けておくことの方が、一思いに殺してしまうよりも残酷な場合が世の中にはある。


わたしも、村重は信長から逃れたのではなく、信長によってあえて見逃されたのだ、といった八切氏の説は十分理にかなっていると思う。 それが傍から見れば「解せない謀反と逃亡劇」であり、あるいは「戦国七不思議のひとつ」と映るのだろう。


村重は逃げ延びてからというもの、自らの名を道糞(どうふん)・・・「道端の野糞」とまで自虐自嘲して、侘しく暮らしていくことになる。







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☆『戦国IXA』より、長谷川秀一


☝・・・最後に・・・寵童の万見仙千代を失った織田信長だったが、とりたてて悲しみに浸る様子もなく、これからも何人かの小姓を寵愛していくこととなる。


まず信長は、仙千代の戦死が確かなことが判ると、仙千代に与えていた安土城内の邸宅を召し上げて、同僚の小姓である長谷川秀一を後任として引き継がせた。


その長谷川秀一と信長との蜜月も比較的短い期間で終わり、やがて森長定・・・通称森蘭丸がその寵愛をほぼ独占することとなる。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦魂~SENTAMA~』より、森蘭丸


☝・・・と! いうことで、今回はこのあたりにてお開きにしましょうか。


衆道といった戦国時代など中世のアブノーマルな性愛については、教科書にはもちろん書かれてはいないし、ホームドラマ風を目指しているNHK大河ドラマでもタブーとされていて、ほとんど無視されるか、あるいは触れられたとしても冗談のように描かれるなど、私たちの戦国時代観に影を落としている。


とはいえ、まぁ、日曜夜の8時台でガチの男色に関する場面がお茶の間に流れたとしたら、それはそれで問題だというか、お茶の間が凍り付くだろうとも思うので、w、フィクションと史実とは分けて楽しんでいくのがいいだろう。


それはそうと、戦国時代当時の男色の文化を知り、そういったものを踏まえての考察が無ければ、分からないことや見えないことも多数あるのではないか。 矢切氏が唱える「荒木村重が謀反した理由は、万見仙千代を奪われた恨みから説」は、こういったことを教えてくれていると、私は思っています・・・!


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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