2017年7月27日木曜日

戦国ixa(63+64鯖):コミックゼノンキャンペーン、はじまる!

ixaコラム:経験0からのIXA!




(関連する前回)
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/06/ixa_5.html
新章・「覇国黎明」に突入し、天上・天戦チケのイッキ引きをする!









☝・・・そういえば先日・・・というか、けっこう前から「コミックゼノン×戦国IXAコラボ」が始まっていましたね。 それに伴ってに新たにリリースされたのが、「極選くじ」から排出される、漫画家・原哲夫さん由来のキャラカードです。









☝・・・それらのコラボカードのなかで目玉となっているのがこの一枚、「織田三郎信長」さん。 攻撃側が2部隊以下という条件のもとならば、そのスキルが発動すれば攻撃力が+90%アップと、とにかく強いんですよ~@@;


・・・なぜ強いと断言できるかって?











☝・・・このレポートにあるように、一人のプレイヤーのソロ合流により、わたしはコテンパンにやられてしまっていて、存分にその強さを思い知らされていたのでしたw  orz







(-_-)(-_-)(-_-)


(わたしの回想シーン)


☝・・・先ほどのレポートを読み、わたしが関連で思い出してしまったのが、かつて楽しんだオンゲ・『スタギャラ』にて登場していたスペシャルなキャラたち。 キャラ絵の彼女たちも攻撃力+90%級のスペシャルなスキルを持っていたっけなぁ! (注:わたしは当然持っていませんでしたが~^^;)


『スタギャラ』は『ixa』と同じように、カード(キャラ)に兵器を載せて戦わせるというカードバトルゲームでしたが、そのゲーム性は『ixa』とは似て非なるものであったのです。 具体的にいうと、自分の艦隊(部隊複数)の速度を絶妙に調整したり、タイミングを計っての波状攻撃や、攻撃/防衛隊による虚々実々の駆け引きなど、「戦場における、秒単位での瞬間的な判断力」が大きく問われるゲームであり、スペシャルなカード・スキルがあるだけではいわゆる「無双」できないといった、なかなか奥深いゲームだったのです。


・・・おっと、ついつい脱線がし過ぎたようです。 ともかく、今後の『ixa』では「織田三郎信長」さんと同じ水準の強いカードが次々とリリースされていきそうなので、一般人である自分はガクブルです。 ・・・仮に「中級戦場」があるなら、そちらに逃げ込みたくなるくらいのレベルの。w







(・ω・)(・ω・)(・ω・)





☝・・・それにしても、原哲夫さんの描かれるこれらのキャラは、良くも悪くも濃いですね。w 『疾風の軍師』の作画は原さんではないようですが、『コミックゼノン』とは、すべての漫画家さんは原さん風のタッチでマンガを描かれているのでしょうか?
(・ω・)?  (そんな訳ないでしょ!とゆうツッコミ待ちw)







☆『戦国大戦』シリーズより


☝・・・そういえば、原さんのキャラ絵といえば、「平手殿」までもがマッチョなタフガイと化していたり・・・







☆『戦国大戦』シリーズより


☝・・・「天下布武」や「岐阜」の文言を考えたとされる沢彦(たくげん)和尚さんも首回りがかなり太いし・・・ とゆうか、ケンシロウにしか見えないし~!w







☆『戦国大戦』シリーズより


☝・・・こちらは今川義元さんですが、キャラ絵の肌の色の塗り方のおかげで、インドのシヴァ神のようにしか見えないし・・・@@







☆『戦国大戦』シリーズより


☝・・・織田信長さん。 片くちびる(もしくは片ほほ)が微妙にニヤリとしているのがこのキャラの特徴なのかな。 とはえいえ、平手殿、沢彦和尚、今川さんに比べればこの一枚はだいぶ親しみやすいですねw


と、まぁこのように、マンガ家・原哲夫さんのフィルターを通った人物たちはみなマッチョマンで、かなりの濃いキャラたちばかりのようなのですw











☝・・・そういえば、「コミックゼノン」の会社は、横綱・稀勢の里関の化粧まわしで「北斗のラオウ」が刺繍されたものを提供するなどして話題になっていましたよね。


こういった活動はかなりのお金がかかると思うんだけど、出版不況と言われる今日において、ここの会社はかなりの太っ腹です・・・! 『北斗の拳』や『花の慶次』はパチンコなどのタイトルになっていたりするので、もしかしたらそちらの方面でガッツリ儲けていらっしゃるのかな?







『コミックゼノン』・・・。 わたしの認識不足のせいなのか、最寄りのコンビニなどにはそれらの雑誌は置いていなかったように思っているのだけれど、『花の慶次』を描かれた原哲夫さんが今現在どんな戦国ものを描かれているのかは興味があるので、機会があれば手に取って読んでみたいなぁ!


(つづく)







『戦国ixa』
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2017年7月19日水曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(3)~

経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa6364_17.html
キャラ絵小話!~小田氏治さん編(2)~







☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。


今回は「黒子の戦い」後の、小田氏治さんの事績について追っていくことにしましょう!
(^ω^)









☝・・・永禄2年(1559年)8月、「海老ケ島の合戦」で小田勢と弓矢を交わした仇敵・結城政勝が57歳で亡くなった。 突然に倒れ亡くなったというので、脳卒中のような病気かなにかだと言われている。 政勝にはただ一人の男子で、嫡子の明政(あきまさ)がいたが、その嫡子は病弱であり、政勝が亡くなるのとほぼ同じ時期に流行り病に罹ってあっけなく亡くなってしまったなど、ことここに至って結城氏は正統な後継者を失い、その行く末は暗雲に覆われていったのだった。







そんな折り・・・。







「え? 憎っくき結城のジィさまがポックリ逝って、家督相続のゴタゴタが起こりそうだって!?」

(✧∀✧) キラーン!

小田氏治さんの目が光ったのだった。(たぶん。)


・・・こうして、小田氏治は「海老ケ島の合戦」の雪辱をそそぎ、結城氏に奪われた領地を取り返さんと軍事行動を開始したのだった。 このとき氏治、25歳。 結城政勝が亡くなってから約1か月後の出陣であったとゆうのだから、迅速とまでは言えなくとも、タイムリーな出陣だったといえるね。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、小田氏治


「先手必勝」。 ・・・これは、先の「海老ケ島合戦」において氏治が痛感した、合戦でアドバンテージを得るための必須行動だ。 その点、今回はこちらが戦を仕掛ける方であり、しかも相手の結城氏は当主が亡くなったばかりで、その体制は揺らいでいる。


そして、これまで単独行動をとっていた小田軍であったが、今回の合戦には味方がいた。 結城氏との間に確執を生じていた周辺の諸大名はこぞって小田氏と同じことを考え、 「あれ、お前も攻めるの?w」 的な、同時多発的・一斉攻撃現象となったのだった。


そのとき結城氏に攻め込んだのは、小田氏のほかに、多賀谷氏、佐竹氏、宇都宮氏などであった。 興味深いのは、これらの大名は小田氏を除いて、佐竹氏と同盟関係にあった勢力だということだ。 多賀谷氏は結城家中から離反して「佐竹組」に入ったばかりだし、宇都宮氏も佐竹氏の保護・後見を受ける形で先年「佐竹組」に入っていた。 となると、この共闘は偶然ではなく、佐竹氏の意向だった可能性が十分にある。







☆『グーグルアース』より


☝・・・結城氏、完全包囲まであと一手ーーー。


味方が優勢の時には、えてして士気は高くなるものである。 氏治をはじめ、小田方の将兵は勇んで結城領へと進撃していったのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、窮地に追いやられた結城氏であるが、


☆『千万の覇者』より



☝・・・結城氏の当主・政勝とその嫡子が相次いで亡くなったことで、その跡を急きょ継いだのが晴朝だった。 晴朝は結城氏の支族・小山氏をその出身としていたが、彼は先代・結城政勝の甥であり、また名君と称えられた先々代の当主・政朝の孫であるなど、晴朝は血の濃さとゆう点で結城家を相続することにとりたてて支障がなかったようだ。


晴朝の家督相続は家中のパワーバランス反映の結果だとも考えられなくもないが、このときはたいへんな非常時であり、比較的公正に、人物の優劣を見定めて晴朝は結城の当主に選ばれたと見ていいだろう。


と、ゆうことで、結城氏と敵対する勢力の思惑とは異なり、さしたる謀反・騒乱が起こることもなく結城氏の家督交代は行われたのだった。







☆『戦国サーガ』より、結城晴朝


「しかしいったい、どうすりゃええんじゃあ!」


優れた将器を見込まれて、ドタバタで家督を継いだ晴朝だったが、いきなり周囲四方のうち三方を敵に寄せられてはたまったものではなかった。 頼みの綱は盟友・北条氏からの鬼加勢だったが、北条氏も各方面で戦いを続けている最中であり、すぐさま結城へ駆けつけることは不可能だった。


「当面はそちらでなんとかせよ。・・・いずれ加勢を向かわせるから」 冷酷な通知が眩暈と共に返ってきたのだった。


晴朝は一通り絶望すると、やがて諦観の境地になり、いつしか先代、先々代のことをぼんやりと思い出していた。 それは、結城家中の夜話で必ずと言っていいほど題材になる、およそ100年前にあった「結城合戦」の話だ。


「結城家は、日の本中を敵に回しても義を守り、堂々と戦った。」 先代も、先々代も目を熱くして語っていたな。 晴朝はそう思いだすと、今回はその時の状況に少し似ているように思われる。 いや、結城合戦ほど絶望的ではないか・・・。 そう思えたら、不思議と勇気がわいてくるのだった。


晴朝はしばらく沈思黙考すると、重臣たちを呼び軍議を開き、その方針を告げる。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、結城晴朝


☝・・・晴朝が下した方針は籠城だった。 それも、結城家が持っている支城の一切を破却・放棄し、すべての軍兵・物資を結城本城に一点集中するとゆう籠城だった。(注:ただし、国衆である結城四天王の各家が持つ城は破却の対象には入っていなかったようだ。)


そうして敵を結城本城が引き付け、釘づけにしているところを結城四天王の各家が遊撃隊として出撃、時に応じては攻め、引き、を繰り返して敵を疲れさせ、そのうえで決戦を挑むという作戦だった。


こうして悲壮な覚悟で籠城の準備は進められていく。 晴朝のもとへ届く報せの多くは凶報だったが、中には朗報もあった。 それは、近隣の領主で近頃よしみを通じている、真壁氏がこのたび助太刀してくれるというものだった。





☝・・・『グーグルマップ』より、結城本城と四天王、&真壁氏のざっくりとした配置図。 (注:四天王のうち、多賀谷氏は先年寝返り、敵となっていた。)


そんななか、いよいよ敵兵が押し寄せてくる。 結城氏が各支城を破却・放棄したおかげで、反結城の各軍は結城本城へ易々と到着したのだった。 やはり、すべての支城を放棄するというのは悪手ではなかったのか。 結城の将兵たちが不安に思うのも無理はなかった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




☝・・・『グーグルマップ』で見る、結城城址。 戦国時代当時のものとは違うかもしれませんが、現代でもうっすらとその城域の輪郭は残されていますね。 結城城は中世の時分、沼や深田、そして堀で囲まれた難攻不落の城だったそうだ。


この結城城を、佐竹氏を筆頭とした反結城連合はぐるりと取り囲んだ。 一説に、この時の寄せ手(攻める側)は総勢7000騎だったという。 ちなみにこの時代の1騎とは、騎乗した武者に馬の口取り、槍持ち、旗持ち、荷物を担ぐ者(もしくは荷駄)などを合わせた単位であり、わかりやすいイメージとしては『花の慶次』の前田慶次に捨丸、岩兵衛の主従一行がそれに近いといえる。







そして来たる、いざ戦いのとき。


☆『戦国姫譚Muramasa』より


「ボッコボコにしてやんよ! 突撃~!!」


☝・・・戦いは多賀谷勢を先鋒として始まった。 小田勢は佐竹勢と共同で、北側の門を攻めたようだ。


しかし、深田に囲まれ、幾重にも防御線の張られた堅城・結城城である。 寄せ手は攻めあぐね、じわじわと死傷者の数は増えていく。 一説に、寄せ手の兵は初日で600名超の死者を出したのに対し、城兵は100余名ほどだったという。







ところで、永禄年間に入る少し前あたりから、「この地(関東)ではじめて鉄砲が使用された、云々」という記述が各文献でちらほらと散見できる。 それによると鉄砲は主に守備側で使われ、わずか数丁ほどのレベルであったものの、轟音とともに火を噴き、まともに命中すれば絶命に至ったことから、兵士たちは鉄砲を大いに恐れたという。 おそらく、この時の戦いでも鉄砲は登場し、寄せ手を追い返すのに使われたことだったろう。




ここで脱線ですが、「鉄砲なんてものは百姓に持たせりゃいいんだ!(閃いた♪)」的なことを先日の大河ドラマ・『おんな城主直虎』の劇中で言っていましたが、それはけっこうな間違いだと思います。 当時の鉄砲は最新兵器で、その取り扱いは最新兵器ゆえに機密扱いされており、たとえば鉄砲使用に不可欠な火薬の調合など、多くのことが秘密とされていた。


そのため、〝シロウトの大名”が鉄砲を導入・運用する場合は鉄砲の扱いに長けた「雑賀衆」を雇い入れるなど、いろいろと大変だったようだ。 雑賀衆が傭兵として各地に招かれ有名になったのは、鉄砲運用の機密性からそうなったと考えるのが妥当だろう。 なので、「鉄砲なんてものは百姓に持たせりゃいいんだ!(閃いた♪)」という概念は、近代に入って火薬の知識が秘密でなくなり、また高性能の銃が登場してからの話だといえ、ゆえに直虎の時代では間違いだと言えるだろう。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・脱線から戻り、結城城での攻防ーーー。 日に増して、結城攻めの寄せ手の損害は大きくなっていった。 結城の新当主・晴朝の策である「一点集中防衛」により、かなりの反撃力が結城城には備わっていたからだ。 もっとも、この「一点集中防衛」はおよそ100年前にあった結城合戦の防衛を参考としており、晴朝のオリジナルではない。


しかし、ここからが晴朝の策の真骨頂だった。 そう、各城に籠り、兵力を温存してきた結城四天王らの遊撃部隊が寄せ手の疲弊を見計らい、一斉に反撃に打って出てきたのだ。









☝・・・このときの結城・小田両軍の激突で、活躍し一躍名を上げたのが「鬼真壁」だった。 彼は乱戦になるとすかさず前線におどり出て、六角棒を振り回して暴れまわったのだ。


その六角棒の長さは3m半ほどで、樫の木でできたものに鉄張りをし、おまけに鋲をちりばめたとゆう鈍器で、鬼真壁はそれを手に取り、薙ぎ払い、突き、薙ぎ払い、突き・・・と繰り返して敵を押しまくった。 彼の手にかかった兵士は、おそらく「薙ぎ払う」で骨折し、「突き」で絶命させられたことだったろう。


「なんじゃあ、ありゃあ!」 Σ@@


前線が一人の武者によって崩されたのを見た氏治は、もはや冷静ではいられなかった。 よくも悪くも闘争心が強すぎたのだろう、氏治は自ら突っ込もうとして周囲に押しとどめられるなど、もはや小田勢全軍の指揮をまともに続けることは困難だった。 指揮系統が混乱するなか、徐々に崩壊の度を増していく小田軍。 せめて弓騎馬隊をすばやく動かし、鬼真壁を下がらせられたら・・・と、残念でならない。







☆『鬼武者ソウル』より、真壁氏幹


☝・・・ちなみに、このときの「鬼真壁」の大活躍はまさに豪傑・真壁氏幹らしいエピソードであり、長らくそうだと言われてきた。 しかし、近年の研究ではこのときの「鬼真壁」はどうやら氏幹の父・久幹(ひさもと)であるらしいことが分かってきており、とゆうことで、真壁氏は親子2代にわたって豪傑だったらしいのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


こうして、真壁軍から痛打を受けた小田軍は、その後も結城勢である水谷・小山隊からも追撃を受けて完全に崩壊、佐竹氏らが結城城攻めを続けるなか、一足先に撤退する羽目となってしまった。 ( ;∀;)


☆『戦国姫譚Muramasa』より








やがて、佐竹・多賀谷・宇都宮氏の反結城連合は結城氏と和議停戦の約定を結び、この戦争は一段落することになる。 なお、この戦いで佐竹氏側がおおむね優勢だったことから、このとき結城氏は領地の多くを失った。


あべこべなことに、ここでも小田氏は城を落とされ、領地を奪われたことがいくつかの資料ではそう書かれている。





☝・・・『グーグルアース』より。 「海老ケ島」は佐竹方に取られ、「北条」は結城方に取られたという。 さらには、小田城までもがこの時取られたと記す資料もあるのだ。 もはや、わたしにはこの時の状況を想像することはできない。w 記録が混乱してしまっただけなのか、それとも本当にカオスな状況だったのか。


それにしても、連合して結城氏を追い詰めていたはずが、いったいぜんたい、どうしてこうなったぁ!w







☆『鬼武者ソウル』より、多賀谷政広。



☝・・・もうひとつ不可解なことは、この戦後に多賀谷氏は結城家中に再び戻り、主家の斡旋で結城四天王のひとつ・山川家と婚姻を結んでいたりする。 一戦交えたことで、結城氏の新当主・晴朝を頼もしく思えたのだろうか? 多賀谷政広は人質として長いこと結城城で過ごしており、ほぼ同年代でよく見知っていた結城晴朝と、新たに関係を一から作り直したいと政広は結城離反の考えを改めたのかもしれない。(それにしても気分屋すぎィ~! 許す方も大概にせいやw)







☆『グーグルアース』より



☝・・・多賀谷氏が結城家中に帰参することで、下妻→北条→小田と結城勢が攻め入って突破され、小田城は落ち、その混乱をついて佐竹勢が海老ケ島を占拠した・・・ということになるのだろうか。


ともあれ、


☆『戦国姫譚Muramasa』より


☝・・・ともあれ、小田氏治が戦うたびに小田家が弱体化していくことには違いなかったのだった。w







( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。







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2017年7月17日月曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(2)~

ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa.html
(キャラ絵小話~小田氏治さん編(1)~)







☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。


今回は「海老ケ島合戦」以降の、小田氏治さんの事績について追っていくことにしましょう! (^ω^)


(ご連絡!) 前回(第一回)中を大幅に書き換えました。 よろしかったら再度ご覧になってくださいませ。 m(__)m







結城・北条氏連合VS小田氏が戦った「海老ケ島の合戦」。 その合戦がひと段落したあと、小田氏治は重臣たちの奔走もあり、なんとか和議によって小田城に戻ることができたのだったが、その時の合戦で失った小田の領地は少なくなかった。


一方、「海老ケ島の合戦」で小田勢の統率がいかにも拙く、思ったほど強くなかったことに目を付けた近隣の土豪・多賀谷氏は、今が絶好のチャンスタイムだと考え、小田領の侵入・切り取りの検討をし始めた。


ひとたび弱いと目をつけられ、侮られたのなら、周囲から立て続けに攻め込まれてしまう・・・。 関東の地は、まさに戦国時代の真っただ中だといえた。






(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話を進めていく前に、ここでまず「多賀谷氏」ってナニ? とゆう方のために、それについてざっくりとご説明しよう。


☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・多賀谷氏とは、結城氏の家臣であり、「結城四天王」の一つに数えられ、その筆頭であることが知られている。 そしてその拠点は下総の国・下妻だ。


・・・要するに、小田氏は結城氏の家臣に攻められたのだった。








☆『鬼武者ソウル』より、小田氏治。


「ぬわんだってぇ~!」 Σ@@


多賀谷氏が小田領へ兵を挙げた報せは、ただちに氏治とその重臣たちに伝えられた。 多賀谷氏と言えば、結城氏の家臣の分際であり、小田家とは格が違う・・・。 格下と見なしていた多賀谷氏にこのたび小田領は攻め込まれた、そのこと自体が氏治にとっては侮辱であり、そうとう彼の癇に障ったことだろう。


氏治は怒り心頭で自らの武士団に招集令を出すと、多賀谷氏を撃退すべく進軍していったのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


それにしても、なぜ多賀谷氏は単独で小田領に攻め込んだのだろう? 多賀谷氏は仮にも結城氏に属していたのだから、他領へ軍事行動をする場合は主家と相談して、結城軍として事を進めるのがふつうである。 そもそも、結城家中には「新法度」で知られる結城家法度があるのだから、その軍務規定を守り従うべきであった。


しかし、このとき多賀谷氏の取った行動はまるで違った。




☆『鬼武者ソウル』より、多賀谷政広。


☝・・・主家・結城氏に次ぐ、ナンバー2の実力・・・。 このことが、多賀谷氏当主・政広が結城家法を無視し、独自の行動を取らせるに至ったものと思われる。 そもそも、多賀谷氏とは歴史的にいって、時に結城氏に従い、時には背くといった、時勢に応じて態度を変えることでも知られていた。


「結城家法度」がこの前年に成立したばかりだという事実も重要かもしれない。 一般的に言って、戦国時代の家法とは戦国大名が強力な指導力を発揮するために定めた決まり事だが、支配を受ける多賀谷氏にとってみれば、この法度を受け入れることは結城家に掌握され、完全に服従することと同じだった。


・・・結局、多賀谷の当主・政広は干渉を嫌い、また独立への野心を捨てることができなかったのだろう。 そしてこのとき、多賀谷氏は意外な勢力と協定を結んでいた。 ・・・それが常陸の国・太田を本拠にする佐竹氏だ。


多賀谷氏は佐竹氏から援軍の確約を得ると、すかさず小田領に攻め入ることを決行したのだった。 この時点で、多賀谷氏は結城家中から完全に離反したと言える。




☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・多賀谷氏に協力したのは佐竹当主・義昭である。 この人物は一般的な知名度はあまりないものの、「坂東太郎」とあだ名され有名になる鬼義重の父であり、義重が戦国大名として飛躍するための基礎を地道に築いた有能な当主だった。


このたび佐竹氏が多賀谷氏に協力したのは、単に共同して小田を攻め領地を増やすことが主目的ではない。 多賀谷氏を結城氏から離反させるということは、結城氏内部の切り崩しであり、ひいては結城氏と同盟関係にあった北条氏への牽制という、きわめて戦略的な意味が含まれていた。 多賀谷氏と佐竹氏、どちらが先に接触を持ったのかは定かではないが、まさに佐竹氏はこの戦いで反北条の狼煙を上げ、常総地方の覇権争いに本格的に参戦したと言っていい。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・このような各家、水面下の動きがあるなか、小田氏治は多賀谷=佐竹の連携を察知できないでいた。 佐竹氏による多賀谷氏への肩入れは、小田勢にとって想定外の出来事となり、このたびの戦いに重大な影響を及ぼすこととなる。







☆『グーグルアース』より


☝・・・かくして、多賀谷氏の小田領攻めは始まったのだった。 時は弘治3年(1557年)2月、寒さがまだ厳しいなかでの軍事行動だった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『グーグルマップ』より


☝・・・このときの多賀谷氏VS小田氏の戦いは、「黒子の戦い」と呼ばれている。


多賀谷領の黒子と小田領の海老ケ島が向かい合う、ちょうど中間地点には小貝川が流れており、これが下総と常陸とを分かつ国境(くにざかい)となっている。 この当時の河川、それも国境になるような一級河川クラスの川は人の手に負えず、小貝川はきわめて蛇行して流れ、大雨のたびにあふれ出し、周囲は人が定住するのに不向きな湿地となって広がっていた。 小貝川が暴れ川であることは、近年起こった「関東東北豪雨」でも小貝川は堤防が一部決壊し、氾濫したことで関東の人にとっては記憶に新しいことだ。


そんな小貝川を前にして、多賀谷勢は黒子村に本陣を置き、続いては小貝川の渡河地点に築陣、さらにはその兵を海老ケ島城に進め、一気呵成に攻め立てた。 小田勢の援軍が本格的に到着する前に海老ケ島城を落としまおうという思惑である。


しかし、海老ケ島の城主・平塚氏は堅く守り、よく粘った。 そのため小田勢の援軍は間に合い、海老ケ島城を中心として重厚な布陣を展開することができた。 ・・・なお、このとき指揮をとったのは小田家の重鎮・菅谷勝貞だと言われている。


一方の多賀谷勢も合戦の呼吸を知る者で、小田の援軍が来るのを察知すると、さっさと海老ケ島から退却、小貝川を渡って黒子の本陣に戻ってしまった。 こうして両軍は小貝川を挟んでにらみ合うこととなる。




☝・・・『信長の野望』シリーズより、菅谷勝貞。




その後、にらみ合っていた均衡をあえて小田軍は崩し、黒子に攻め込むことになる。 そのことでこの合戦は「黒子の戦い」と呼ばれるようになるのだけれども、守るだけで事足りた小田軍がなぜ敵地へ攻め入ったのかは明らかではない。


思うに、大将・小田氏治の向こう見ずな突進行動が再びここで出てしまったのではないだろうか?w







☆『戦国姫譚Murasama』より


☝・・・氏治参上~! 全軍突撃、夜露死苦っ!!







(参考)


☝・・・大きな川を軍が通過するとき、船橋をかけることが当時はあったようだ。 このとき使われた船は小田家の持ち物ではなく、川で暮らす漁民にいくばくかの金銭を支払って船は調達された。 真冬ということもあり、川を渡るときに軍装が濡れてしまうと、その軍の士気は著しく低下してしまう。 手配をした菅谷氏はなかなか細心であった。


こうして小田勢は小貝川を渡り、そのまま黒子に布陣した多賀谷勢に迫って、ついに両軍の雌雄を決する戦いは始まったのだった。 「格の違いを見せてやるぜぇ~!」 そんな氏治の気迫が兵に乗り移ったのか、多賀谷勢を押しまくる小田勢。 このとき小田勢はまさに勝利を掴んだ・・・かのように見えた。


ところがどっこい。 多賀谷氏と秘かに盟約を結んでいた、佐竹氏の援軍がここにきて到着してしまったのだ。 佐竹の援軍は背後を脅かす動きを見せ、小田勢に動揺が走る。 さらに悪いことに、船橋の持ち主である漁民たちは船といっしょに一目散に逃げてしまっていた。 これによって、小田勢は小貝川の流れに阻まれ戻るに戻れず、敵地・黒子にて完全に孤立してしまったのだった。


まさに、絶体絶命ーーー。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・ここで小田勢は血路を開くべく必死に戦ったものの、散々に敗れ、その軍は潰走してしまった。 このとき、小田家の股肱といえる頼もしい将兵が次々と戦死してしまった、と記録にはある。 ( ;∀;)


氏治は佐竹勢の執拗な追撃を受け、軍を立て直すことができずにそのまま敗走を続けた。 やがて佐竹勢は主城・小田城を包囲、小田城に入ることができなかった氏治は小田城に入ることを諦め、「海老ケ島合戦」同様、またもや土浦城へと落ちていったのだった・・・。 小田城がほどなく落城したのは言うまでもない。







☆『戦国姫譚Muramasa』より







( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)


やがて後ほど、氏治はなんとか重臣・菅谷氏の活躍により小田城を奪還することになるのだが、その時期は「黒子の戦い」の4か月後とも、あるいは2年後ともいわれ、定かではない。 おそらくこの時期、この地域一帯では大小さまざまな合戦が繰り広げられていたので、伝承・記録ともに混乱してしまったものと思われる。 当ブログでは、前後の出来事を検討したところ、約4か月後の弘治3年(1557年)度中の奪還が大きな矛盾がなさそうなので、そちらを支持したい。







☆『戦国姫譚Muramasa』より


「またまた復活! 菅谷っちは使える家老じゃあ!」 (^ω^)


と、ゆうことで、小田氏治は2度目となる〝「フェニクスの尾」の使用”を行い、多賀谷=佐竹連合から小田城を奪還し、華麗?に復活したのだった。







(^ω^)(^ω^)(^ω^)


最後に、「黒子の戦い」の後日談をして今回を締めたいと思います。







☆『土浦・石岡・つくばの歴史』佐久間好雄監修、郷土出版社 より


☝・・・「黒子の戦い」の次の年、多賀谷勢は今度は豊田に狙いを定め、兵を進めてきた。 その地域は小田方の豊田氏が領主をしており、単独で防衛するのはあまりに厳しいと小田家に救援を求めてきた。 氏治は敗戦が続き軍を動かすことが苦しかったが、小田家の統領としてなんとか兵を集めて応援を出した。 なお、その時の大将は菅谷政貞だったと言われている。


そして両軍は合戦に至ったのだったが、このとき菅谷氏は軍を巧みに指揮し、作戦で相手方を翻弄した。 また、小田方に沼尻又五郎という豪胆な武士が登場し、その勇敢な振る舞いと獅子奮迅の働きで、この2者の連携活躍によって多賀谷勢は撃退されたのだった。


小田軍、いまだ健在なり! ・・・とかく「連戦連敗」「戦国最弱」とのレッテルを張らがちな小田家だけれど、この戦いで勝利を得るなど、かならずしも負けばかりではなかったことを皆さんにご紹介しておく。w このときの一戦で得た勝利は、小田氏にとっては実に貴重な勝ち星だといえた。


のちに豊田氏は、「攻めが無理なら計略で♪」と、多賀谷氏が仕掛けた内紛誘発の計略によって滅ぼされてしまうのだが、それはもう少し先のお話・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。






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