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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(14)
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☝・・・シリーズ第一回はこちら
☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は第15回目ということで、いまだ終わりの見えないストーリーの終焉に向かって進んでいこうジャマイカ。
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(前回のあらすじ)
天正4年(1576)9月のこと。 仙道の国衆・田村氏が突然佐竹陣営から離れ、蘆名方へと鞍替えをした。 田村・蘆名の両氏は連合軍を結成して、佐竹氏に反転攻勢をかけてゆく。
天正5年(1577)閏7月、蘆名ー田村連合軍は戦局を優位に進め、やがては白河城を包囲・攻撃する構えを見せた。 これに対し、佐竹義重は同城を放棄することを決意、白川領南部の赤館、ならびに寺山城へと退く。 その際、義重は地侍に謀反を起こされ、重臣を討ち取られるなど一時は危険な目にあったが、辛くもそれを切り抜けることができた。
のち、佐竹義重は蘆名ー田村の北方戦線とは一時停戦する意思を固め、根回しを行った。 その結果、伝承では上杉謙信が、残存史料的には結城晴朝が中人(仲裁者)となり、この講和を成立させた。
北条氏という別の強敵を抱える佐竹氏にとって、この講和はきわめて合理的な判断であったが、一定の譲歩を強いられたこともあり、「坂東太郎」「鬼義重」と畏怖された佐竹義重にとっては屈辱の講和であった。(前回のあらすじ、ここまで)
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☆『戦国サーガ』より、佐竹義重
☝・・・合戦、あるいは戦い全般というものは、濃密なコミュニケーションであると言われている。 この前後の合戦で、蘆名盛隆率いる蘆名軍の戦いぶりに佐竹義重は目を見開いた。 それは単純で稚拙、なんのケレン味もない軍の動かし方ではあったが、その闘志みなぎる攻撃姿勢に、義重には何か感じるところがあったようだ。
そして、義重は戦場で対峙する敵将・盛隆に対して、ある一つの思いを抱き始める。 それは始め、「アンタの愚直な攻撃・・・嫌いじゃないよ」的なものであったが、その思いは次第に変化をしていく。
恋慕ーーーそう、彼(義重)の言葉を借りれば、なんと恋慕の想いへと化していたのだ。
・・・ココ、笑うところじゃないですよ! 義重さんってばマジなんですから・・・
(`・ω・´)
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した蘆名盛隆
「一目見染めしより、恋慕浅からずーーー」
☝・・・天正5年(1577)のころ、蘆名盛隆のもとに佐竹義重からの書状が届いた。 そしてそれはどう見ても恋文であったのだと、記録ではそう書かれている。
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「馬鹿な俗説を真に受けてるんじゃねーよ!」ヽ(`Д´#)ノ
「どうせBL好きな、一部の人たちに曲解された資料でしょう?」(´・ω・`)
・・・このように思われる人もいるかもしれない。 かくいうわたしもこの逸話について、はじめは出所不明で眉唾な話だと思っていましたが、いろいろと調べていくうちに、どうもこの逸話の信ぴょう性は高いと思い直すに至ったのです。
と、いうのは、この逸話は『武功雑記』という書物に書かれているからだ。
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【書物『武功雑記』について】
☆『千万の覇者』より、松浦隆信
☝・・・戦国時代のころ、肥前の国・平戸島に松浦氏という中小の大名がいた。 松浦氏は水軍が強いことで知られ、生存競争の厳しかった戦国の世を生き延び、やがて平戸藩を成立させる。 ここで掲示したキャラ絵の戦国武将・松浦隆信の子孫に、鎮信(しげのぶ)という藩主がいた。
平戸4代藩主鎮信は江戸時代前期を生きた人物で、「島原の乱」でも功績があったこの武将は、学問好きの殿様としても有名であった。 そして趣味と実益を兼ねて、戦国武将のさまざまな逸話を集めては精査し、記録に残すという事業を行うこととなる。 ・・・その結果、纏められたのが件の書物『武功雑記』という訳だ。
要は、戦国時代の逸話について、江戸時代になってから成立した書物ということであるけれども、だからといってバカにしてはいけない。 『武功雑記』に採用された逸話の多くは歴史事件の当事者から聞き書きをしたものであり、それは一次史料ではないものの、そんじょそこいらの「軍記物」とは別格の信ぴょう性を持つと思われるからだ。
わたしも確認をしましたが、確かに『武功雑記』の巻二に佐竹義重と蘆名盛隆の逸話が載っておりました。 そして、その前後の文章を通読するに、現代の通説とはやや異なる部分があって100%の信用はできないものの、「ある一定の事実を反映した内容」であることは納得できました。
なんせ、この『武功雑記』は、早くから『甲陽軍鑑』の信ぴょう性について考察を行い、「疑わしい」という評価をつけるなど、硬質な編集者が携わっていたと思われて、そういった点でもこの書物の史料的な価値は高いとみなされているのだ。
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☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆
☝・・・さあさあ、佐竹義重からの恋文を貰った蘆名盛隆はどのような対応をしたのだろうか。
先ほどの『武功雑記』では、
❝書を通じせしかば、さっそく同心にて契りう、云々・・・❞とあり、
カップル成立を明言している。 @@
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うーん。 w
ちなみに、この時の年代は天正5年(1577)、そしてこの時点での佐竹義重の年齢は30前後で、蘆名盛隆の年齢は16前後だと思われる。
佐竹と蘆名の両当主が男色関係にあっただなんて、個人的にはにわかには信用できないというか、信じたくない思いもあるのですが、w、「不倶戴天の敵」でもあった両家の関係が急速に改善に向かった事実、そして「これ以降の盛隆の行状」を考えれば、義重ー盛隆のカップリングは、「さもありなん・・・」と感じてしまいますね。
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☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆
☝・・・花は咲いては実を結ぶ。 実を結ばない花は徒花(あだばな)と呼ばれ、虚しきものの象徴として扱われるが、戦国天正年間のここ奥羽でも、見事なまでの徒花が咲き誇ったのであった。
あだ花の名前を、蘆名盛隆という。 この花は今後数年間にわたり、奥羽の地でいくつかの花を咲かせることとなる。
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さてさてどうなる会津の蘆名家。 今回はこのあたりでいったんお開き、次回に続くー!
(*´ω`)ノシ
(つづく)
※この文章はブログ主の見解です。
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