2019年5月29日水曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(5)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_23.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(4)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は5回目・・・いつまで続くんだろう、このシリーズ・・・といったカオスな予感を感じていますが、w、今回は永禄年間の中頃、伊達氏との緊張が高まってきたあたりから話を進めていこう。







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☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏と伊達晴宗


☝・・・永禄年間の中ごろ(1562頃)のこと。 蘆名と伊達との関係は次第にギクシャクとしたものへと変わっていった。 それはつまり、奥羽一の大名の座を巡って両家が意識をしはじめ、互いに譲らず、やがては大きな争いへと発展していったと見做すことができるだろう。







☆オンゲ『ホップステップジャンパーズ』より、ホウ・レンソウ


「二位じゃ・・・ダメなんですか?w」


☝・・・関連で脱線ですが、ここでふと頭をよぎったのはこのフレーズだ。w 平成の某有名女性国会議員が発した名言/迷言であり、これは批判や揶揄・嘲笑の対象となってきましたが、わたしはこの発言には一定の真実が含まれていると思う。


すなわち、女性にとって一位争いなどさほど大した価値は無いんだという事実と、その一方で、男性にとって一位争いとはけっこう重要な問題である、ということを改めて世の中に知らしめたことだ。


そもそも、戦国時代そのものが国を挙げての壮大な一位争いの時代だとも言えるし、それぞれの地域においてもローカルボスの座を巡る争いは当然あった。


その背景としては、戦国時代といった中近世には身分意識・・・それも非常に強い身分意識があり、男性が中心の武家社会においては、あらゆるものごとにおいて上下の関係を明らかにする習わしがあった。


それは、挨拶の仕方、会議・宴席といった場の席順、手紙の文言、などなど・・・常に自分と相手の身分とを、秤にかけるように推し量って、それぞれの関係が築かれていたのだ。 また、それは個人だけにとどまらず「大名という法人」についても同じことが言えた。


なお、そういった武家の秩序に真っ向から反対したのが一向宗、法華宗といった当時流行りの仏教勢力で、「一揆」・・・「揆を一にする」の思想であると言われている。 ・・・ですが、こういった話はあまりにも深淵なので、深みに嵌らないうちにここで引き揚げることにしよう。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「❝二位よりも 一位の方が気持ちいい❞。・・・武家の上下関係を巡る争いとは、そのような卑小なものでは断じてないぞ」


盛氏が言うように、武家は単に順位争いで勝ちたいがために争いをする訳ではない。 一位が二位の、あるいは上位者が下位者の生殺与奪の権をときには握ることもあることから、それは全精力を傾けた争いとして行われたのだ。 蘆名と伊達の争いも、つまりはそういうことだと言えるだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話を戻します。


☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・永禄年間の中ごろ。 蘆名盛氏は、伊達氏の行う挑発的な政略攻勢に腹を据えかねていた。 なかでも、新たに二階堂氏が伊達氏との縁組みを決めたことが、盛氏にとっては痛かった。 岩瀬郡を支配する二階堂領は仙道の中央の一端に位置しており、蘆名家の仙道支配の要ともいえる立地にあったためだ。


戦国時代は軍事がものをいう。 盛氏は伊達晴宗の政略攻勢を覆すべく、二階堂領へと兵を進めることを決意する。 そう、永禄5年(1562)辺りから数年にわたる、蘆名の対二階堂戦役が勃発したのだ。







【二階堂氏について】


残された史料が断片的ということもあり、このころの二階堂ー蘆名ー伊達の三者をめぐる関係の解釈は難しい。 それなので、ここからの文章は、通説を踏まえたうえでの、わたし流の解釈であると前置きをしておこう。







☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


☝・・・わたしはとても真面目に、二階堂家の話をしたいと思っている。 とはいえ、こんにちのネット上では、コーエー社が悪ふざけで作ったこのキャラクター・・・「変顔の二階堂盛義」が流布・確立してしまっているので、どうしてもこの画像に触れざるを得ない。w


このキャラ絵を見て、「あぁ、この人物!?」と心当たりのあった人もいるだろう。


さて、ではどうして二階堂氏のことを細かく述べなければならないかというと、将来、蘆名家を継ぐ人物を、この二階堂家は輩出することになるからだ。







☆『戦国サーガ』より、伊達阿南


☝・・・さて、このころ二階堂氏と縁組した伊達氏の子女とは、伊達晴宗の長女で、のちに「みちのくの女城主」の通り名で知られる阿南(おなみひめ)だ。


ウィキペディアによると、彼女の生年は天文10年(1541)であり、夫・二階堂盛義に嫁いだ年は不明となっている。 そんなところ、わたしがいくつかの書籍で調べた限りでは、彼女が二階堂氏に嫁いだのは永禄初年(1558)から、遅くとも永禄5年(1562)までの間ほどのことだと推定される。 それと重要なのは、彼女は「後室」として嫁いだとされている。 つまり、二階堂盛義の二番目の奥さんとして嫁いだという事実だ。


では二階堂盛義の「前室」は誰かと言うと、以前に、蘆名盛氏が天文年間(1550年代)に二階堂・田村の両氏を軍事力で屈服させて、その際に二階堂氏については軍事的威圧のもと姻戚関係を結んだ・・・ということに触れましたが、そのときに嫁いだのが盛氏の妹で、この女性が二階堂盛義の「前室」だと推定されている。


なお、ウィキペディアにこの盛氏の妹については全く触れられていなく、そこでは二階堂盛義の妻は阿南姫ただ一人といったような印象を受ける。 しかし、盛氏妹が二階堂に嫁いだのは確かなようで、この女性は、蘆名氏側の一部史料・系図にのみに登場する。







☆『のぶニャがの野望』より、ニーかいどう盛義


☝・・・戦国大名が複数の妻・妾といった女性たちと関係することは決して珍しいことではない。 しかし、正妻の地位につく女性は一人だと昔から決められている。 それなので、二階堂盛義の前室・蘆名盛氏妹は、阿南姫が嫁いできた段階で、盛義のもとから去っていたものだと思われる。


可能性としては、大きく二つのものが考えられる。 死別、離別のいずれかである。 しかし史料は黙して語らず、様々な可能性を孕んだまま、盛氏妹は歴史の叢(くさむら)の中に埋もれてしまっているといった状況だ。


二階堂盛義の前室・盛氏妹・・・。 彼女は大いなる謎の女性であり、そこからは複数の謎が連なって横たわっている。 なお、謎といってもそれはミステリーという意味ではなく、ミッシングといった部類のものだ。


そのことについてはおいおい語っていくとして、当ブログでは、謎は謎として積極的・断定的な解釈はおこなわず、ここでは「ただ、このような姫がいた」という事実だけにとどめて、二階堂ー蘆名ー伊達の三者の因縁については、いったんこのあたりで引き揚げることにしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


☝・・・こういった婚姻を巡る因縁もあってか、蘆名と二階堂との戦いは激しかった。 蘆名家はかつて天文年間に二階堂家と戦い、その時は容易に屈服せしめたが、永禄年間の今回の戦いでは伊達家からの加勢も入ったためか、両軍の戦いは一進一退の状況が続いた。







そんなところ、


一方で、永禄年間の中頃ともなると日本中の至る所で戦いが日常化してきており、蘆名家もただ一つの敵と向かい合えばそれで良いという状況ではなくなってきていた。 戦場の多極化である。 このころの蘆名盛氏は、メインの戦場として二階堂ー伊達氏連合軍と対峙しつつ、いくつかの戦場を掛け持ちしている。







☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・戦場の多極化により、第2の戦場として再燃したのが、佐竹氏方面・白河結城領での戦いだ。 この戦いは北条氏康の要請によって行われたもので、ご丁寧にもその合戦には、作戦がすでに練り上げられて付いてきた。


その作戦の骨子は、北条氏と友好関係を結んでいる各大名が、示し合わせて各方面から佐竹氏を攻める・・・といったもので、つまりは「佐竹をみんなでフルボッコ作戦」である。


この作戦によって、北条・下総結城・白河結城・蘆名・相馬の各氏が一斉に佐竹領に侵入した。 我らが蘆名盛氏はというと、残念ながらはかばかしい戦果は得られなかったようだ。 二階堂ー伊達と対峙している関係で、積極的な攻撃ができなかったのだろうか。 なお、このキャンペーンで最も激しく佐竹氏と戦ったのは相馬氏であると言われている。







☆『のぶニャがの野望』より、金上もりペル


☝・・・戦場の多極化・第3の戦場が越後方面である。 蘆名家は越後の国・津川も領国の内に入れており、その統治は金上盛備(もりはる)が任されていた。 なお、金上氏は蘆名氏の一族で、家中一番の知行地を誇る筆頭重臣の家柄として知られている。


このころ、蘆名盛氏は武田信玄に要請されて、上杉謙信の後方を脅かすべく、越後の国・中蒲原郡に攻め入ったと伝わっている。


このように、永禄年間の中ごろの蘆名家は、兵を3つに分散して戦いが行われていたのだ。







☆『戦国大戦』シリーズより、蘆名盛氏


☝・・・ついでに、このエピソードもご紹介しておこう。


時の流れが前後してしまいますが、蘆名の二階堂戦役が始まる1年ほど前、蘆名盛氏の兄が謀反を起こして鎮圧されるという事件が起こった。 氏方(うじかた)という名の、盛氏にとっては腹違いの兄が起こした謀反であった。


氏方は長男であったものの、母が白拍子・・・身分の低い女性ということで彼は家督を継ぐことはできず、家中でこれといって目立つこともなく過ごしていたのだったが、それがどういう訳かこのタイミングで事を起こしたのだ。


資料によれば氏方の謀反の理由は、家中で冷遇されていたため(要約)、とされている。 とはいえ、前後の周囲の大名の動向を見れば、この乱は伊達氏、あるいは敵対する大名いずれかによる扇動工作と思えなくもない。 もちろん証拠がある訳ではないけれども、何の当てもなく、強大な蘆名家中で謀反の単独行動を起こす道理があるだろうか?


氏方と少数の協力者は謀反を起こしたものの、即座に鎮圧の部隊が動員されて彼らは討ち取られ、あるいは自害へと追い込まれた。 ほとんど犬死にに近い、そのような謀反劇であった。 氏方の享年は47だという。


盛氏 「業をまた一つ背負ってしまったな・・・許せよ兄貴」


戦国時代において親子・兄弟間で争い、骨肉劇を演じることは稀なことでは無い。 とはいえ、兄を死に追いやったこの事件は、なんとも後味の悪い出来事であった。 寝覚めの悪い日が幾日も続く。 盛氏は、残された兄の子を僧侶として出家させることで赦免とし、改めて兄の霊を弔った。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、では話を本線に戻そう。


☆グーグルマップより


☝・・・蘆名の二階堂戦役が始まってから3年目となる永禄8年(1565)、伊達氏は単に二階堂領・須賀川に援軍を送るだけではなく、新手を繰り出すようになる。 居城・米沢から蘆名家の本拠地・会津盆地に向かってダイレクトアタックを志向したのだ。


こんにち、会津盆地から米沢盆地に向かうには、国道121号線を使うのが一般的だと思われる。 けれども、その当時の会津ー米沢間の街道は、磐梯山裏の桧山という地を通っていたようだ。 そして会津に続く道の要衝ということで、伊達軍の精鋭が桧山城に襲い掛かった。


だがしかし。 桧山城は境目の城ということで、蘆名盛氏はふだんの守りを堅くしておくようにと指示を出しており、桧山の城兵は伊達軍を食い止めることに成功、伊達軍のダイレクトアタックは未遂に終わった。 この桧山という地は街道上の要地であり、これからの戦いでも登場することになる・・・。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した蘆名盛氏


☝・・・一進一退を続けていた蘆名VS二階堂ー伊達連合の戦いですが、先の「伊達軍の桧山城襲撃」が終わったあたりから流れが変わり始める。 そう、この戦いは徐々に蘆名方の優勢へと潮目が変わってきたのだ。


永禄8年(1565)、桧山城防衛戦の返す刀で、蘆名盛氏は二階堂領に大規模な攻撃を加えた。 注目すべきなのは、そのとき蘆名軍と戦った相手が二階堂氏ではなく、その重臣・須田氏であったということだ。


これはどういうことだろう? わたしが思うに、おそらくこの時点で、二階堂家は内部で蘆名派と伊達派の二派に分かれていたのだろう。 二階堂家は、現時点では阿南姫が嫁いでおり親伊達の立場となってはいる。 けれども、その数年前までは盛氏妹が正室だったということで、二階堂家中には蘆名に心を寄せる者も少なからず残っていたのだろう。 


そんな二階堂家中の内情を察知して、盛氏は親伊達の領袖・須田氏に的を絞って攻撃をしたのだろう。 なお、この時の勝敗、その他の情報は分からない。







☆『のぶニャがの野望』より、伊達シャルむね


☝・・・年は明けて永禄9年(1566)正月。 蘆名と二階堂・伊達連合との戦いは、ついに決着の時を迎える。 それはまるで、「綱引き」において両者が互角であったところを、時間の経過とともに片方の力が弱まりだして、ついにはずるずると、あとは一気に崩れる様とそれは似ていた。


まず、これ以上蘆名との戦いを続けていても益なしと判断した伊達晴宗が、二階堂氏に先立って、蘆名盛氏に和睦の打診をしてきたのだ。 この戦いにおける、伊達氏の事実上の撤退だ。


こうなるともう、戦局は一気に動いた。 翌月2月、二階堂家中における反蘆名派の掃討戦が行われ、横田、長沼の二城が蘆名方によって攻略された。 この攻略をもって、蘆名は二階堂を完全に制圧したのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


こうして蘆名と二階堂との戦い・・・いや、蘆名と伊達との戦いは終結した。 そして戦後処理としていくつかの取り決めが結ばれ、まとめられてゆく。







☆『戦国ixa』より、彦姫


☝・・・伊達氏は蘆名氏との和睦の条件の一つとして、晴宗四女・彦姫が蘆名盛興に嫁ぐことと決められた。 彼女は14、伊達晴宗が最後まで嫁ぎ先を決めかね、手元に残しておいた秘蔵の愛娘だ。 また、一方の二階堂氏は蘆名氏への臣従の証として、まだ幼い嫡男・次郎を人質として差し出した。


・・・このとき蘆名家にやって来た伊達氏の娘と人質の少年とが、やがて夫婦となり、蘆名家を担う日が来るだろうとは、いったい誰が予測できただろうか?


本当に不思議な世の中の巡り合わせだと思う。 しかし、その話はもう少し後の話でもあるし、それまでは丁寧に順を追って話していこう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回はこの辺りでいったんお開き。 次回をお楽しみにー。
(*´ω`)


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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