関連する前回
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れんみつ姫を引く!~キャラ絵小話・蘆名家&れんみつ姫編(1)
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☝・・・「蘆名家とれんみつ姫」について! 今回は「伊達氏天文の乱」が終わったあたりから話を展開していこうかな。
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☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏
☝・・・「伊達氏天文の乱」が終結して間もない頃。 奥羽地方を覆っていた伊達宗家の支配力は大幅に低下していた。 そのため、その影響下に置かれていた奥羽の大名たちは軛(くびき)を解かれた獣のように、それぞれの道の模索を始める。 会津の領主・蘆名盛氏もそういった大名のなかの一人だ。
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☆『戦国大戦』シリーズより、伊達晴宗
☝・・・奥羽の盟主的な存在・伊達氏を相続したばかりの晴宗は、そのころ米沢に本拠を移して、傷付いた自家の回復に必死になっていた。 同時に、「天文の乱」でいちど崩壊してしまった洞中(とうちゅう)をなんとか復活させようと、あれこれと策をめぐらせているようでもある。 伊達氏にとってこの乱とは、あまりにも代償の大きい親子喧嘩であった。
このように、奥羽最大の武家である伊達家が傷付き、活動を低下することで、奥羽地方には束の間の平和が訪れた。
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【洞(うつろ)について】
前回でも触れましたが、「洞(うつろ)」という概念は少し難しい。 伊達氏戦国期についてのある書籍を読んだところ、それによると伊達洞中(とうちゅう)とは、「伊達氏の伝統的な領国内で、直接支配権の及ぶ範囲」と解説されていた。 つまり「洞中≒家中」といった捉え方だ。 なので、その書籍からすれば、わたしの洞についての理解は間違っていることになる。
しかしながら、洞(うつろ)という言葉は「一族、仲間をいう(→日本史用語大辞典)」とも定義されている。 それを踏まえれば、大名家同士の婚姻によって仲間意識が形成されたのであれば、それは他家であっても洞・洞中だと言えるのではないだろうか。 なによりも、他家と縁戚関係を結んで回った動機やメリットは、そういった勢力形成目的意外に何があるというのだろう? ・・・このように、「洞」という概念の研究は未だ途上だとわたしは感じます。
それにしても興味深いのが、当時の東国を中心とした武家が、一族や仲間のことを「洞(うつろ)」と呼びならわしていたことだ。 「洞」という漢字の原義には、①「ほら。空っぽのもの。」というお馴染みの意味がある一方で、②「見抜く。知り尽くす。」という意味もあり、①②の意味を併せ持たせて洞(うつろ)と呼びならわしていたことに、改めて深い含蓄を感じてしまうのです。
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☆『戦国姫譚Muramasa』シリーズより、姫化した蘆名盛氏
☝・・・一方そのころの蘆名盛氏はというと、連歌師や僧侶といった各地を巡り歩く民を介して、関東や甲信越といった東国・上方の情報を事あるごとに入手していた。 一時の平穏に安堵せず、時代のうねりや流れといったものを把握し、次に来たる異変に備えるためだ。
彼ら・・・漂泊の民の話すところによれば、日本各地でみられる下剋上の風潮は嵐のごとくで、室町幕府によって定められた世の秩序は乱れていくばかりだという。 そのようななか、今のところ南奥地方(南東北地域)だけは唯一、❝凪いでいるようだ❞とも。
盛氏 「南奥(なんおう)の風は凪いでいる、か・・・」
南奥は比較的平和だと言われたところで、盛氏には気がかりなことが一つあった。 それが常陸の国・太田の佐竹氏の動向だ。 ここ最近の佐竹はどうも、太田から北へ延びる谷伝いに、南奥への進出をしきりに図っているのだと言う。 その当面の標的になっているのは結城氏の白河領・南郷地区だ。
白河を領する白河結城氏は、いまより100年ほど前までは、南奥地域最大の勢力を誇っていた。 それが南北朝の動乱にあい、一族間の内紛にあって弱体化し、今ではすっかり力を失ってしまっていることは、その土地の大名・国人なら誰もが知っていることだ。
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☆『戦魂~SENTAMA~』より、佐竹義昭
☝・・・当時の佐竹家を率いる当主は義昭という人物である。 佐竹軍は戦において派手な強さこそは無いものの、土地土地に堅固な山城を築き、南奥に向かって地道に地歩を固めてにじり寄ってくるその姿勢を、盛氏は率直に脅威だと感じた。
盛氏 「今は時代が大きく動いているとき。 佐竹の動きを放置していたら、あるいは、奥羽も関東の二の舞になるやもしれぬな(→北条の関東進出・支配)。 怖いのはやはり、外部からの侵入者だ。 ここは奥羽の主筋・伊達に立ってもらうしかないが・・・」
しかし盛氏は苦い表情を面(おもて)にあらわす。 ほんらい頼りにすべき伊達氏はというと、羽州・米沢に退いてしまっている。 盛氏の目には、この伊達氏の行動は守りに入ったとしか見えなかった。 加えて、大崎・相馬の二大名が「天文の乱」の遺恨によって伊達氏に立ちはだかり、その当面の敵として戦う構えで事が進んでしまっている。 そのため伊達氏の注意と視線とは、彼らに向けてのみ注がれているといった状況だ。
今は乱世である。 伊達氏がかつての力を失った今を狙ってか、外部からの侵入が本格的に始まろうとしているのだ。 ・・・それならば、座して余所者の侵入を許すより、自らがその地域を掌握するべきであろう。 奪われるよりも先に奪ってやれーーーこういった「戦国の論理」で盛氏がものを考えたであろうことは想像に難くない。
盛氏 「もはや南奥において、伊達は頼みとならず・・・この蘆名が、伊達に代わって南奥に立つしかないな」
かくして盛氏は、野望半分、自衛半分といった心持ちで、南奥の盟主となるべく行動を始めたのである。
盛氏 「もはや南奥において、伊達は頼みとならず・・・この蘆名が、伊達に代わって南奥に立つしかないな」
かくして盛氏は、野望半分、自衛半分といった心持ちで、南奥の盟主となるべく行動を始めたのである。
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☝・・・ここで少し脱線話を。 俗に、「東北地方は寒冷の地で、土地の生産力が低い」などと言われることがある。 それは事実その通りなのですが、しかし、それは米ベースで見た土地の生産力であって、稗や麦、蕎麦や豆といった雑穀は、戦国時代の当時でも問題なく収穫することができたようだ。
☆官公庁のサイトより、稗
☝・・・むしろ、冷害といった災害の際には、そういった雑穀の方が安定して収穫できたと言われている。 とりわけ稗(ひえ)が奥羽地方では重視された穀物であった。 現代人の私たちからすれば、「田んぼ=米、稲作」であるけれども、「稗田阿礼」の「稗田」が示すように、奥羽の田んぼには稗が植えられることが少なくなかった。
このように当時の奥羽の人々は、米よりもそういった雑穀を主食とし、普通に生きていくことができたのである。
☆官公庁のサイトより、稗
☝・・・むしろ、冷害といった災害の際には、そういった雑穀の方が安定して収穫できたと言われている。 とりわけ稗(ひえ)が奥羽地方では重視された穀物であった。 現代人の私たちからすれば、「田んぼ=米、稲作」であるけれども、「稗田阿礼」の「稗田」が示すように、奥羽の田んぼには稗が植えられることが少なくなかった。
このように当時の奥羽の人々は、米よりもそういった雑穀を主食とし、普通に生きていくことができたのである。
会津黒川を中心とした蘆名氏の所領は伊達氏に勝るとも劣らない広大さで、広い農地は大勢の武士とその家族を養え、盛氏はその地方において抜きんでた兵数を動員できたのだ。
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☆官公庁のサイトより、南奥の勢力図
☝・・・「天文の乱」による伊達氏の弱体化と、それに乗じた関東衆・佐竹氏による南奥進出の本格化。 このような事態に対応するべく、蘆名盛氏は天文年間終わり(1550)あたりから仙道地域に進出することになる。
まず盛氏は、伊東氏という勢力を駆逐した。 この勢力はすでに没落して久しいらしく、簡単にひねり潰せたようだ。 次いで、蘆名家は二階堂、田村の両氏を軍事力で屈服させた。
その際、二階堂氏については軍事的威圧のもとに婚姻関係を結んだようだ。 諸説あるものの、盛氏は二階堂盛義に自分の妹を娶らせたとも伝わっている。
そのほかに、白河結城氏に対しては謀略をもって支配を及ぼしている。 その手口がこうだ。 まず、白河結城氏の一族でひとかどの人物・・・小峰隆綱(のちの義親)に目をつけ、彼に自分の娘を嫁がせる。 そうして縁戚関係を結び、肩入れをしておいてから、隆綱をそそのかしてクーデターを起こさせ、白河結城の家督を乗っ取らせたのだ。 こうして盛氏は、自分の娘とその婿・義親を介して、白河結城家を自らの影響下に置くことに成功したのである。
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☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏
☝・・・永禄年間のはじめ頃(1560頃)。 このようにして蘆名盛氏は、時おり領内で起きる反乱を鎮圧しつつ、足かけ10年以上ほどの年月をかけて、懸案であった仙道地域に完全ではないながらも自らの「洞(うつろ)」を築き上げた。 本領である会津四郡に加えて、伊東、二階堂、田村、白河領。 その総知行地は70万貫、石高に直せば100万石とも称される一大勢力圏である。
軍事、謀略ともによく使いこなす。 壮年となっていた盛氏は力に満ち、このとき彼は押しも押されぬ南奥の盟主として、その地に君臨していた。
仮想敵の佐竹は、いまだ南奥への進出を諦めてはいないようだ。 佐竹との決戦、近しーーー盛氏の視線と注意は南東に向かってとうとうと注がれていた。
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と、いうことで、今回は「天文の乱」~「蘆名の仙道支配」までを追ってみました。
このあたりでいったんお開きにしましょう、次回をお楽しみにー。
(・ω・)ノシ
(つづく)
※この文章はブログ主の見解です。
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