2019年5月20日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(3)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_15.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(2)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は3回目ということで、蘆名盛氏が仙道地区に進出してからの話を展開していこう。







☆官公庁のサイトより、戦国時代・天文年間ころの勢力イメージ


☝・・・ときは永禄年間の初め頃(1560頃)。 会津の領主・蘆名盛氏は仙道地区に積極的に攻勢をかけ、伊東・二階堂・田村・白河結城の各家を傘下に収めた。 そして自らを南奥(読み:なんおう、いまの福島県地域のこと)の盟主と位置付けて、同地の政治・軍事を取り仕切っていた。


そんな蘆名家最大の敵が、南奥への進出を図っている佐竹氏である。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、佐竹義昭


☝・・・蘆名氏のライバル・佐竹氏の当主を務めていたのが義昭と言う人物だ。







☆グーグルマップより、常陸の国・太田から北にかけて


☝・・・こちらをご覧になって頂ければわかるように、常陸の国はおおむね南北にわたって山地と谷とが形成されている。 とりわけ、太田から直接北へと続く谷は極端な難所もなく、佐竹氏にとってそれは南奥へと至る恰好の回廊であった。


なお、この回廊/街道の戦略的重要性に気づき、進出の作戦を開始したのはこのときの当主・義昭ではない。 それは義昭の祖父・義舜(よしきよ)の代からだと言われているが、その話は別の機会に譲ることにしよう。


とにかく、佐竹氏はこの回廊/街道を使って南奥へと進出し、永禄年間の初めごろ(1560頃)までには白河結城領のおよそ南半分を占領、蘆名盛氏の勢力と境を接していたのだ。


その土地をめぐって、両者ともに譲りあう気持ちなどさらさらない。 ときは戦国時代である、戦国大名にとって戦うことこそが、まず最初に行うべきコミュニケーションであった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「佐竹よ、ようやくやってきたな。 すでに準備は整っているぞ」


☝・・・かくして永禄3年(1560)8月、初めて蘆名と佐竹とが衝突することになる。 これは「寺山館の戦い」と呼ばれ、蘆名が南奥の諸将を率いたのに対して、佐竹は下野の国・那須氏と連合してこの戦いは行われた。


話の展開を遅くしたくないので結論を先に言ってしまおう。 ・・・この戦いで蘆名方は勝利した。 ホームの守備戦というアドバンテージもあっただろう。 それ以上に、蘆名盛氏は単独行動に走りがちな那須氏に目をつけ、それに付け込こみ、味方の連携で打ち破って形勢を優勢に導いたのだ。


このように蘆名勢が優勢であったが、残る佐竹軍を攻撃することはなく、この戦いはやがて膠着状態が続き、最終的には講和(一時停戦)の協定が結ばれて佐竹は撤兵することになる。 なお、この調停は古河公方の名のもと、北条氏康によってとりなされた。


しかし・・・。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、佐竹義昭


義昭 「てゆうか俺たち無傷なんで。 アレは那須がバカやったってだけで、次は絶対(ぜってー)に勝つから!


・・・まったく諦める様子のない佐竹であった。 w







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このように南奥への進出を諦めない佐竹であり、それゆえに蘆名盛氏は警戒を緩めることができなかったが、ここで情勢の一大変化が起きる。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した上杉謙信


☝・・・それが永禄3年(1560)10月に起こる「長尾景虎の越山」・・・すなわち、のちの上杉謙信による関東への介入と、それに伴うすったもんだの始まり、である。


景虎は関東で反北条の勢力を結集、北条を撃滅するべく電撃的な作戦を開始する。 佐竹氏もそのムーブメントに当然参加をし、反北条軍の主力の一つとして、とうぶん関東にかかりきりになることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛氏


☝・・・関東の情勢が劇的に変化し、佐竹が南奥から引き揚げた絶好の機会だというのに、蘆名盛氏はあえて佐竹に反撃、その領内に攻め入るといった事をしなかった。 これはいったいどういうことだろう? 戦国の世にあって少し消極的だと言わざるをえない。


わたしが思うに、蘆名洞中(とうちゅう)で反対の意見が多数上がって、それで佐竹への反撃・侵攻を見送ったのではないだろうか。 そもそもアウェイでの戦いは危険が倍増する。 そのうえ蘆名を中心とした南奥の武家連合が佐竹と死闘を繰り広げ、よしんば勝ったとしても、領地が戻ってくるのは白河結城家である。 白河以外の武家からすれば、そんなことで血は流したくない・・・。


蘆名洞中は南奥を地盤とした、基本的に利害の一致した集団として蘆名盛氏に統率されている。 しかし、すべての問題事で各武家の利害が一致するはずもなく、洞中は常に対立や分裂といった、組織崩壊の危機を孕んでいた。 盛氏は佐竹に一撃を与えることが戦略上よいとは思いながらも、洞中の消極的な意見に配慮をし、今一つ強権の行使ができなかったといったところではなかっただろうか。


このように、少々の優柔不断をもって蘆名の対佐竹南奥戦役はいちおうの終結を迎えたのである。







☆『戦国IXA』より、北条氏康と武田晴信


☝・・・対佐竹の軍事で優柔不断な面を見せた一方で、このころ蘆名盛氏は外交関係では大きな成果を上げている。 まず、北条と誓紙を交わして正式な同盟を結ぶ一方、同時に武田家とも友好の関係を結んだのだ。


これはつまり、「北条=武田=今川の三国同盟」に近づき、「長尾(上杉)=佐竹の反北条連合」と対立するという、蘆名家はいわば遠交近攻の策を採ったということになる。


加えて足元の奥羽の同盟関係はというと、盛氏の妻が伊達家出身で姻戚関係は継続中。 そしてが二階堂、が白河結城へと嫁いでいるなどと、なかなかのスクラムの組みっぷりだ。


こういった強固な同盟関係の構築といい、先ほどの佐竹への消極姿勢といい、盛氏は慎重な守備タイプの大名だと言えるだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『のぶニャがの野望』より


☝・・・年は明けて永禄4年(1561)。 この年の東国の出来事はというと、長尾景虎による小田原城攻囲戦、からの関東管領職就任、さらに越後に戻って武田信玄との川中島・ガチの戦いが行われる・・・。 などなど、永禄4年とは数々の輝かしい戦国伝説が生まれた1年であった。







☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・そんな戦国日本が盛りを迎える中、このころの蘆名盛氏は止々斎(ししさい)という号(名前)を使用しだした。


いわゆる通説では、この止々斎という号は盛氏の隠居名だと言われている。 しかし、この時点では、盛氏が隠居しようにも肝心の後継者がいまだ元服・成人していないではないか。 それなので、まじめな歴史研究によれば「止々斎=隠居名説」は否定的だ。


それではこの止々斎とは何なのか? といえば、「雅号(いわゆるペンネーム、あるいは茶席での呼び名)ということらしい。 前回でも少し触れましたが、盛氏は旅の連歌師のパトロンとなって、上方の情報入手も兼ねて彼らとの交流を行っていた。 また、茶の湯にも興味があったらしく、盛氏は永禄年間の奥羽の武将としては珍しく、茶坊主を何人も雇うなどしてその道を嗜んでいる。


このように、関東・東国で争いが激化するに反比例して、蘆名洞中での紛争は収まりつつあり、盛氏は雅号を名乗って文雅の道を楽しみ、戦乱の世の中における一時の心の平穏を求めた、といったところだろう。


このときの蘆名盛氏の年齢は40を超えたあたりで、そろそろ戦場で無理がきかない年齢に達してしまっていた。 現代では40歳台は男の働き盛りということとされているが、当時は医療が未発達で、人々の老化の進行は随分と早かったのだ。 加えて、奥羽は朝晩の冷え込みがことのほか厳しい。 ときには風雨に打たれながら陣頭指揮を執り、それでいて的確な思考をめぐらすことができるのは、男30台がピークだと言えるだろう。


盛氏 「蘆名家の土台は堅固である、今は少しだけ楽をさせてくれ」


・・・そんな気持ちであったとも見受けられなくもない。 盛氏がおよそ10年前に決心した、「南奥の盟主に、おれはなる!(超訳)といった裂帛の気迫も、時と共に薄らいでいったのだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


それでは長くなってきましたので、いったんここでお開きにすることにしましょう。


次回は永禄年間の後半にかけて、変化してゆく周囲の情勢、そして次代を担う武将の登場といった話ができたら、と思っています。
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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