2019年5月23日木曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(4)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_20.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(3)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は4回目になります、今回も蘆名家の歴史について語って行こう。







永禄年間の中ごろ。 東国はあいもかわらず戦乱の災禍が渦巻いていた。 その渦の中心にいるのが上杉謙信、武田信玄、北条氏康の3将で、それら3将を中心に激しいうねりが広がって、周囲にじゃぶじゃぶと波濤を浴びせかけているといった状況だ。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・そんなところ、会津の領主・蘆名盛氏は北条・武田と誼を通じ、上杉と敵対するといった方針を採っていた。 とはいえ会津は幾重もの山々に囲まれた領国であり、北条・武田・上杉間の争いに直接介入するということは現時点では起こっていない。


ほどなくして・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛興


盛興 「お待たせしました! ようやく元服です」


☝・・・永禄5年(1562)、蘆名盛氏の嫡男・盛興が元服・成人し、同時に家督の交代も行われた。 このとき盛氏の年齢は43歳、盛興は18歳だと言われている。


盛氏 「うむ、これからはわしが大殿、お前が若殿として南奥を仕切っていくぞ!」
盛興 「はい! グビグビ・・・」
盛氏 「なんだお前、呑んでいるのか・・・ま、ほどほどにせいよ、わしは向かい山の隠居城に移るゆえ」


こうして盛氏は会津黒川の本城を盛興に譲り、自らは隠居の城・向羽黒山城に移ったのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・それにしても43歳で隠居とは、現代の感覚からすれば早すぎる引退だと言えるだろう。 しかし、戦国時代の隠居とは、即引退といった意味合いのものではなかったようだ。


当主の座は次世代に譲りながらも、先代が引き続き権力を握り続ける・・・こういった例は戦国時代に数多く、蘆名盛氏の隠居もそういった例の一つであり、彼もすぐさま政治・軍事から手を引いたという訳ではなさそうだ。 なかでも外交活動に関しては、むしろ隠居してからの方が活発となっている。


しかし、盛氏が権力の第一線から身を引いたのは確かなようで、この前後から使用される「止々斎(ししさい)の号と印章のもと、盛氏は様々な文化活動に傾倒していく。








☆官公庁のサイトより


☝・・・雪村(せっそん)という絵師を知っているだろうか? 彼は水墨画で知られる画僧で、この頃は蘆名盛氏の隠居城に寄寓して創作活動を行っていた。 雪村は盛氏のために多くの画を描いたと言われている。


このように盛氏は、時代を代表するような文化人との密な交流があり、それは絵師・雪村だけにとどまらず、その他の絵師、僧侶、連歌師、茶人らも加わって、盛氏の隠居城はさながらみちのくの文化サロンと化していたのだ。


盛氏 「ほほw わし・・・ボチボチ武将を辞めてもいいかな?」


盛氏は文化活動に専念したかったが、やはり戦国の世がそれを許すことはなかった。 蘆名領国において盛氏という人物の存在はあまりにも大きく、なにかにつけて盛氏は引っ張り出され、嫡男・盛興の教育、ならびに権力移譲はスムーズには行われなかったのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このような感じで蘆名家の家督交代が行われたが、ほぼ同じころ、蘆名家の周りの大名でも世代交代の波が押し寄せていた。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した佐竹義重


☝・・・まずは佐竹家である。 永禄5年(1563)、佐竹の当主・義昭が32歳で隠居、家督を嫡男の義重に譲った。 義重は弱冠の15歳だ。







☆『千万の覇者』より、伊達輝宗


☝・・・続いては伊達家だ。 佐竹家が家督交代をした次の年、伊達晴宗が隠居をして嫡男・輝宗に跡を継がせている。 その背景には父子の対立があったらしく、晴宗は対立を解消するべく、その懐柔策としてこの家督交代が行われたと言われている。 なお、このとき晴宗の年齢は45歳、そして輝宗の年齢は20歳だ。


季節は巡る、いつの間に。 このように、奇しくもほぼ同時期、蘆名、佐竹、伊達の三家で家督交代が行われ、気づけば蘆名家を巡る周囲の環境は様変わりをしてしまっていた。







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☆『信長の野望』シリーズより、伊達晴宗


☝・・・蘆名家を取り巻く景色は、日に日に色合いを変えてゆく。


永禄年間の中ごろ、特に変化が著しかったのが伊達家である。 かつては「伊達氏天文の乱」で大きく傷付き、羽州・米沢に退いた伊達氏であったが、この頃までにはすっかりその傷は癒えたようで、奥羽一の大名という自負と自信を取り戻し、活動を再開させていた。


そして勢力が拡大していた蘆名家に対して、どうやら伊達晴宗は少なからぬ敵愾心を抱いたらしい。 ここから伊達氏による、蘆名家を仮想敵と見据えた怒涛の政略が仕掛けられることとなる・・・。


そう、かの有名な「伊達の姻戚曼荼羅図、ふたたび」である。







☆グーグル検索より、伊達氏の姻戚関係の図







☆『戦国大戦』シリーズより、久保姫


☝・・・戦国時代の当時、多くの戦国大名が血を遺すため、あるいは好色によって複数の妻、妾といった女性たちと暮らしていたが、そんななか伊達晴宗の妻は久保姫ただ一人だった。


久保姫は美人の誉れが高く、また同時にとても健康な女性で、天文年間の初めごろに晴宗と結婚して以来、子を次々に儲けていった。 そうしてできた11人の子供たちはすくすくと成長し、いまや嫡男の輝宗が家督を継ぐなど、永禄年間の中頃にはみな❝いい年齢❞に達していたのだ。


武家の結婚はすべて政略結婚であり、念入り、かつ用意周到に準備される。 ・・・晴宗は11人ものその子らを、かつて父・稙宗が行ったと同様に、奥羽にあまねく各武家との縁組みを進めさせた。


それも、蘆名家を疎外するように、である。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛興


☝・・・まず伊達氏は、蘆名家との間でかねてよりの習わしである婚姻・・・嫡男・盛興と伊達氏の子女いずれかとの婚姻について、なんやかんやと言っては難色を示してきたのだ。


・・・ストレートに言えば、それはつまり「破談」である。


盛氏 「なんだと? おい妻よ、伊達の晴宗殿はどういったつもりなのだ!?」
妻  「それがなんとも・・・」


盛氏の妻は伊達晴宗の姉であり、伊達家の内情を知るうえでの窓口の一つとなっていた。 しかし、その妻は嫁いでより四半世紀が経ったということもあり、この頃にはすっかり情報の経路が細くなってしまっていたのだ。 盛氏妻は他の姉妹を頼って事の経緯や背景を探ろうとしたが、明確なことは分からなかった。


盛氏 「蘆名と伊達は奥羽の二大大名。 両家が婚姻を結ぶことで、地域の安定にどれだけ貢献しているか・・・知らぬ晴宗どのではないだろうに」


そのうえ、困惑する盛氏ら蘆名家に追い打ちをかけるように、伊達の縁組み内定の知らせが次々と舞い込んでくる。







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知らせは告げる。


☆『千万の覇者』より、阿南姫


☝・・・仙道・岩瀬郡の二階堂家に、晴宗長女の阿南(おなみ)の嫁入りが決定。







☆『のぶニャがの野望』より、石川あきミィつ


☝・・・仙道・石川郡の中小大名、石川家に晴宗四男の入嗣が内定。 のちに彼は石川昭光と名乗ることとなる。







☆『戦国いろは武将図鑑』より、宝寿院


☝・・・晴宗の五女・のちの宝寿院が、常陸太田の佐竹義重との婚約が内定する。


そのほかに伊達は岩城、留守、国分といった奥羽の名門大名とも婚姻・入嗣を内定/決定させるなど、怒涛の政略攻勢は続いた。







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☆官公庁のサイトより、南奥の諸大名の図


☝・・・こういった伊達氏の一連の政略により、南奥の勢力・相関関係は大幅な上書き・塗り替えがなされた。


「伊達氏天文の乱」であれほど壮大な親子喧嘩を繰り広げて、伊達稙宗による洞中(とうちゅう)支配体制を否定した晴宗であったが、皮肉なことに、彼は憎んでいた親父と同じ手法で洞中を新たに出現させ、権力を強化したということになる。


晴宗による新伊達洞中の出現は、特に仙道(いまの福島県中通り地区)で著しいパワーバランスの変化をもたらした。 蘆名方の勢力は上図で言えば二階堂が離反、田村が中立へと立場を変え、伊東は無力化しており蘆名による支配は継続中、石川は伊達から婿が来る関係で敵方に、白川は娘が嫁入りしている関係で味方、といった状況だ。


このように、永禄年間の中頃、伊達晴宗の政略によって蘆名家は重大な局面の変化を迎えたのであった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・蘆名盛氏は一連の報告を整理し、すべての事象を組み合わせて一枚の絵と成し、いま起きている事態を改めて眺め渡した。 そして嘆息ひとつ。


盛氏 「晴宗どのよ、わしは妻の手前、奥羽の無事のために、そなたとは上手くやっていきたかったというのに。 ・・・蘆名と伊達、どちらが奥羽一の武家であるか、白黒をつける時が来たようだな」


即座にそう決心したあたりは、流石は鎌倉以来の武家の名門・蘆名家の当主である。 この頃の盛氏は文雅の道に傾倒していたとはいえ、その心根までもが文弱に流されるといったことはなかった。 やはりこの人は根っからの武士(もののふ)、武人なのである。


盛氏 「宣戦布告なき宣戦・・・わしはそうと受け取ったぞ!」


ここに風雲は急を告げる。 蘆名と伊達との戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回は盛興が元服した年と、その前後の周囲の状況を追ってみました。 物語がなかなか進まずにもどかしいですが、いったんここで仕切りとしましょう。 次回をお楽しみに。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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