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関連する前回
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大河ドラマ「いだてん」について!
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最近、オンラインゲーム『戦国ixa』のNEW武将が”尖って”いて、それに感心しているブログ主です。
それも、とくに姫が・・・マイナーな姫がNEW武将として登場することがあって、そんな初見の時には 「ほぉー @@」 と見入ってしまうよ。
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☝・・・村松殿・・・ どこの姫だろう? 知らないなあ。
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☝・・・祥鳳・・・ わからんw
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☝・・・れんみつw れんみつって・・・ 壇蜜じゃないんだからw
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☝・・・そういえば、固有スキル発動確率が高く、使い勝手の良い松姫さんも 「この姫は、どこの誰なんだっけ?」 と思いながら防衛、攻撃に使っており・・・w
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☝・・・ゲーム中の姫がもし、すべて名字付きで表示されていたのなら、「どこのだれ?」といった疑問は半減することでしょう。
ですが、姫は嫁に行く/婿を取ることがほぼ決まっていますからね、未婚時代と結婚後、さらには夫と死別、あるいは離別後には呼び名が変わってしまうなど、自身の環境によっていろいろと変化があるので、あえて名字を表示しないという手法はやむを得ないかな。
・・・しっかし解りずらい・・・ @@;
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(ここから日本史の話題)
☝・・・そんななか、わたしが『戦国ixa』NEWリリースの姫を見ていって、とりわけ興味深いと思ったのが祥鳳さんだ。 ここからは個人的興味として、歴史上のこの女性について調べていきたい。
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「いくさぶる解説文」によれば、祥鳳さんは、
『土佐の出来人・長宗我部元親の生母だワン。
出身は美濃斎藤氏なんだワン。
斎藤氏が強くて壮健であったため、
元親も斎藤氏から奥さんを娶ったんだワン。』
・・・とあって、
☆『戦国ixa』より、長宗我部元親
☝・・・祥鳳さんとは長宗我部国親の妻で、同時に長宗我部元親の母だったのですね・・・!
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☆『戦国ixa』より、吉良親貞と香宗我部親泰
☝・・・そんな祥鳳こと祥鳳玄陽は、長宗我部元親の母であることは確かなこととされる一方で、長宗我部家次男・親貞、三男・親泰との母子関係は定かではないようだ。
祥鳳の長男・元親は「土佐の出来人」の通り名で知られ、戦国時代を代表する武将の一人に数えられている。 そんな人物を知るうえで、先ほどの二人が元親と同腹であったかどうかという事実は、割と重要なことだと思うのですが・・・とはいえ、中世の家系図などでは、父子・養子の関係は割と正確に記す一方で、母が誰であるのかといったことは記さないことが一般的だ。
なので、家系図に書かれた人物の母が誰なのかを知るためには、当時の様々な文書(もんじょ)を調べていって、その文面にある内容から推測するしかないという。
そのようなことで、長宗我部家は現存する文書があまり無いということもあって、祥鳳玄陽と親貞・親泰との母子関係の事実は残念ながら分からないというわけだ。
とはいえ、元親三兄弟の四国制覇の伝承を読むと、彼らの間で嫡庶の遠慮やわだかまりといったものはあまり感じられないことから、個人的には同腹だったように思いますが・・・どうなんでしょうね。
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☝・・・話を続けよう。 のちの長宗我部元親の母となる祥鳳玄陽ですが、その輿入れの時期はいつだったのだろう? ・・・と、いうのは、この女性に関する記録・伝承はまったくといってよいほど残って無いからだ。 知られているのは「美濃の斎藤氏出身」ということくらいで。
そこで参考となるのが、夫となる長宗我部国親の生年と、やがて生まれてくる長男・元親の生年だ。
☝・・・資料によると、まず、長宗我部国親の生年は永正元年(1504)とある。 とすれば、彼の適齢期・・・当時の武士の結婚は15歳を過ぎた辺りの頃なので、そうだとすれば1519年過ぎあたりが適齢期となるだろう。 この時期に祥鳳玄陽と結婚したのだろうか?
次いで、長男の元親誕生がいつなのかを調べてみよう。・・・そうすると、元親の生年は天文8年(1539)とある。 となると、国親35歳のときに元親が生まれたという事になり、戦乱の時代である当時としてはやや遅い時期にできた男子ということになる。
これは注目すべきことだ。 もし国親が15~20歳あたりで祥鳳と結婚していたならば、10数年ほど経ってようやく嫡男を授かったということになる。 これは少し遅すぎるだろう。 当時の武家の結婚において、おおよそ数年で夫婦に子供が授からない場合は、「家が絶える」などといって、夫人を離縁することもあったらしい。
とはいえ、長宗我部家の詳しい家系図によると元親には姉がおり(国親からすれば長女)、もし祥鳳がこの長女を生んだとしたならば、「子を産める」ということで、離縁されるといった深刻な事態を招かずに済んだのかもしれない。 なお、この元親の姉はのちに近隣の豪族・本山氏へ嫁に行ったことから、通称「本山夫人」としてその名を知られている。
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☆『戦国大戦』シリーズより、本山夫人
☝・・・しかし、いかんせん、「本山夫人」の母が祥鳳だとは確定していませんので・・・(当時は一夫一婦制ではない)、これ以上の詮索は不毛になるので、このあたりで撤退しますか。 orz
と、このように、国親ー祥鳳の結婚の時期については、有り体に言えばよくわからない。 とはいえ、やや遅めの結婚であったように思われますね。
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☆『戦国大戦』シリーズより、祥鳳
☝・・・やはり、記録がほどんど残っていない歴史上の人物・・・それも女性のことを調べることは一筋縄ではいかないようだ。 とはいえ、もう少しだけ長宗我部国親ー祥鳳夫婦のことを追ってみようかな。
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そもそも、先ほど祥鳳ー長宗我部国親の結婚の時期を探ってみたのは、 「どうして土佐の長宗我部氏が、遠く離れた美濃の斎藤氏から嫁をもらったのか?」 という疑問が いの一番にあったからだ。 そういった背景を考えるためには、なるべく正確な年月が分からないと手掛かりにならない。
そこで思い出すのが、長宗我部国親の特殊な生い立ちだ。
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☆『戦国大戦』シリーズより、長宗我部兼序
☝・・・土佐の長宗我部家といえは、土佐守護・細川氏の家臣を代々つづけている武士の家柄だ。 長宗我部国親の父は元秀といって、法名・兼序の名前で一般に知られている。 この兼序という人物は武勇に秀でた武将であったらしいものの、「出る杭は打たれる」の言葉があるように、周囲の豪族から危険視されて包囲網を敷かれ、やがて敵軍に城を囲まれて自刃した。 こうして長宗我部家はいちど、兼序の代で滅亡することとなる・・・。
ただし、そのとき嫡男の千雄丸(のちの国親)が難を逃れて近隣の大領主・土佐中村の一条氏のもとに逃げ込んでおり、運よく命拾いをしていた。 少年千雄丸は一条氏の庇護のもと、健やかに成長していくのですが・・・その時に千雄丸は印象的なエピソードを残している。
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少年・千雄丸が一条氏のもとで保護されていたとき、当主・房家から「あの楼閣より飛び降りてみよ、さすれば滅ぼされた家を再興してやろう!」 と、宴会の席で戯れにこう言われた。
どういったシチュエーションでそう言われたのかはハッキリとは分からないけれども、千雄丸からすれば悪い雰囲気のなかで言われたことは確実だ。 あるいは、房家の取り巻きが言い出しっぺとなり、悪意をもってそのような話の流れに持って行ったのかもしれない。
つまりは”没落した家の子あるある”の話で、宴会の座興として、意地の悪い笑いで場を盛り上げようとした意図だったのだろう。 なお、そこには京都の清水寺を模したような建物があって、その一角で宴は催されていたようだ。
ふと、ここで思う。 例えば現代で、「学校の3階から飛び降りろ」と言われたとしても、ほとんどの人はできないだろう。 わたしだってもちろんのこと、できやしない。 ところが千雄丸は違った。
そのとき彼は少年ながら毅然として 「ホントに本当ですか!?」 と一同に念を押し、確認を取った後、常人なら飛び降りられない高さの建物から、まさか本当に飛び降りた・・・!
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☆『戦国大戦』より、長宗我部国親
☝・・・そのときのエピソードを踏まえたキャラ絵がこちらだ。 良作ですね。 (^ω^)b
普通ならできないことを「やってみろ」という悪意の仕向けだったから、飛び降りた千雄丸はおそらくは無事では済まされなかったことだったろう。 千雄丸が飛び降りた直後の顛末はエピソードとして残っていないものの、おそらくは、けっこうな怪我をしたのではないだろうか。 打ち所が悪ければ・・・の可能性もあったが、その点、千雄丸は運が良かった。
こうして、この一件で千雄丸は「飛び降りキッズ」としてその勇気が近隣に知れ渡り、一度滅亡してちりぢりになった長宗我部家の遺臣たちの耳にもその噂は伝わって、彼らに希望を抱かせた。
その一方、千雄丸に戯れの約束をした一条房家といえば、「場の雰囲気で、めんどうな約束をしてしまったな・・・ここはひとつ、酒の席の戯れということで、反故にしてやるか」 ・・・とはせずに、律儀にも少年との約束を守ってやることにした。 なかなか、これはこれでたいした当主ですね!
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こうして、一条氏の支援のもと、少年千雄丸は見事お家を再興した。 また同時に、長宗我部家の主筋(武士階級の伝統的な上司の家柄)で、中央で政権の座についていた細川高国に烏帽子親になってもらい、さらには「国」の一字を貰い、千雄丸は国親と名乗って元服した。 これが永正15年(1518)のことだ。
☝・・・適当なキャラ絵が見当たらなかったので、ウィキペディアより、国親の烏帽子親となった細川高国の肖像。 そういえば、中世の「烏帽子親」とは、現代の演歌歌手の新人が、大御所演歌歌手で師匠のことを「オヤジ」と呼ぶ関係と似ているね。 どうでもいい話・・・。
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さあ、先ほど永正15年(1518)という年代が出てきましたね! 今回はお話は祥鳳ー国親の結婚が主題ですから、そのことを忘れずに話を進めていきたい。
土佐の長宗我部家が、なぜに美濃の斎藤氏という地理的に離れた家と縁戚関係を結んだのか? という問いの答えは、おそらく先ほどの烏帽子親・細川高国にあるのだろう。
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☆『戦国ixa』より、足利義晴
☝・・・細川高国という人物は、「応仁の乱」から一世代あとの時代において、管領細川氏の内紛で頭角を現した武将で、すったもんだの末に将軍・足利義晴を擁立して政権の座についたことで知られている。 そう、高国は傀儡の将軍を立てて、いっとき天下を取っていた人物だったのだ。
そんな政権を掌握していた細川高国でしたが、最大の盟友とも呼べる大内義興が彼の地元・山口へ帰還したことを機に、その勢力は陰りを見せ始める。 権力とは時代がいつであろうとも、パワー(この場合は武士の動員数)という裏打ちがあってのことだから。
加えて数年後、細川高国の嫡男・稙国が若くして亡くなると、いよいよその勢力は崩壊をし始める。 剛腕と変節で乱世の海を泳ぎ渡ってきた梟雄・高国であっても、自らの後継者の若死には堪えたのだろう。 そんなあたりに人間・高国の弱さ、人間らしさを感じる。
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☝・・・パワーバランスが傾き、それにともなって細川高国を追い詰めていったのが、彼と対立していた同族の細川晴元、そして三好元長の主従だ。 この二人は細川高国ー足利義晴政権に対抗し、足利義維(よしつな、義晴の異母兄弟)という足利一門の貴種を立てて、「堺幕府」という異なる権力基盤の立ち上げを始めていた。
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ライバルのあからさまな追い上げに対して、細川高国の対抗策は精彩を欠いていた。 彼の嫡男の死の影響が尾を引いていたのだろうか。 あるいは、やや”冗長な戦略”を取り続けていたように私には見受けられる。
その”冗長な戦略”とは、家臣筋の縁組を進めることによる多数派工作だ。 その一つの例として、土佐の土豪・長宗我部氏ー幕府奉公衆・美濃斎藤氏の縁組が挙げられる。 四国・土佐の国は阿波の国の裏手にあたり、細川高国のライバル、細川晴元ー三好元長の本拠地を地政上挟撃できるカタチとなっていた。
ようやくここで、お話は祥鳳ー長宗我部国親の結婚の流れにつながりましたね!
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☆『戦国大戦』シリーズより、長宗我部国親
☆『戦国大戦』シリーズより、祥鳳
☝・・・長宗我部氏と斎藤氏。 この時代の武家同士の婚姻とは、すべて政略結婚であったと言われている。 ましてや、遠距離にある武家同士が婚姻の関係を結んだのだから、そこに何かしらの意図があったことは明白だ。
となると、やはり長宗我部氏、奉公衆斎藤氏両家の主筋にあたる細川高国がその縁を取り持ったと考えるのが最も妥当な線だろう。 高国はいずれ、長宗我部家から有能な者を取り立てて、中央で活躍させるつもりだったに違いない。
しかし、そういった細川高国の縁組による多数派戦略は冗長な策であったようで、その成果を得ること無く、大永7年(1527)の桂川原の戦いの大敗、そして享禄4年(1531)の中嶋の戦いでの敗戦と連敗が続き、高国が形成していた政権は事実上崩壊した。 この事件は「大物崩れ」と呼ばれ、細川晴元ー三好元長政権の地歩を固めた重要な出来事として知られている。
「大物崩れ」の敗戦で落ち延びた細川高国は、のちに捕らえられて自害に追い込まれ、48歳でその波瀾の生涯に幕を下ろした。
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☝・・・こうして、細川高国という扇の要が外れた長宗我部ー斎藤氏の婚姻でしたが、意外にもその関係は以後も良好で、長く続き、次世代においても両家は婚姻を結ぶことになる。
もちろん、祥鳳玄陽という女性が長宗我部家のなかで存分な存在感を発揮して、両家の間を円滑に取り持ったことは確実だろう。 史料には残らなかったものの。
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思えば、縁とは、目には見えない不思議な糸だ。 細川高国という一世を風靡した梟雄の野心によって取り持たれたその縁は、彼が滅びた後もその糸は切れず、長宗我部家、斎藤家、石谷家、そして明智家へと結びつき、戦国最大のミステリー・「本能寺の変」へと繋がる。 そして、その糸はさらには「お福/春日局と徳川家のミステリー」へと連なっていく・・・。
歴史の織りなす綾、縁といったものを感じつつ、今回はこのあたりでお開きにしましょうか。
(*´ω`)
(つづく)
※この文章はブログ主の見解です。
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