ixaコラム:経験0からのIXA!
関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/06/ixa_20.html
(キャラ絵小話・浅野長政さん編)
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☝・・・兵種・穴太衆が新兵種として登場して以来、『戦国ixa』にて存在感を増してきている「器防キャラ」。
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☝・・・そのなかでも、「不死鳥」の小田氏治さんは兵数が多く、スキルの実力もなかなかの良キャラだと言えるでしょう。 わたしも、サブであった64鯖で幸運なことに小田さんを引くことができ、先日あった鯖の統合によってようやく合流、わが軍の防衛隊の一員となったのでした。
今回は、そんな小田氏治さんについて小話をしていこうじゃないか。
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☝・・・小田氏治さん・・・。 あなたがもし、コーエーテクモ社のゲーム・『信長の野望』シリーズを遊んだことがあったり、もしくは歴史ファンであるなら彼のことを少しは知っているかもしれない。 しかし、圧倒的多数の人にとっては、 「おだうじはる? だれ、その武将。・・・信長の一族?」 ・・・といった感じで、マイナーな武将であることは否めないだろう。
しかし、この人物は合戦でこれでもか!というほどの連戦連敗で、かえってその負けっぷりが悪目立ちとなり、注目を集めることとなる。 これは、競馬において、負け続けることでかえって注目を集め、人気化した競走馬・ハルウララと似たものがあるね。
妙な知名度を得た氏治さんは、そのうちに近年のネット社会の発展に伴って、「戦国最弱!」などとゆうキャッチーな肩書きも追加されて、戦国時代屈指のネタ武将としてさらにその名を知られていくことになったのです。
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☆『戦国姫譚 Muramasa』より、姫化した小田氏治
☝・・・そんな美味しいネタ武将を、昨今流行りの戦国時代をテーマにしたオンゲ各種が放置しておくはずもなく、小田氏治さんはキャラ化されてきました。 なかでも秀逸なのが、氏治さんに「何をやらせてもダメな子」の設定をした、『戦国姫譚Muramasa』だ。
こういった戦国武将の「姫化」に賛否両論があるとは思いますが、個人的にはゲームとしてはアリだと最近思うようになりました。 ゲームですからね。 w
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さて、
(左)長尾景虎/(中央)北条氏康/(右)佐竹義重
☝・・・さて、そんな小田氏治さんが相手にしてきた武将たち(代表)。 『戦国ixa』でも最高レアリティに位置づけられる大名たちと氏治さんは戦い続け、そして負け続けた。 しかし、幾度とない彼らの猛攻を受けても、氏治はなんとか討ち死にだけは免れ、たびたびの復活を遂げてきた。 そう、『ixa』での防御スキル・「不死鳥」とは、このことにちなんで名づけられている。
ここからは、そんな氏治さんの事績を追っていきたいと思う。
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☆『グーグルマップ』より
☝・・・関東に広がる地平線に、ぽっかりと浮かぶ島のように屹立する秀峰・筑波山。
今回のお題である小田氏治は、筑波山系にほど近い、常陸の国・小田で領主の嫡男として生まれた。 天文3年(1534年)の生まれとあるので、後に彼と戦う上杉謙信よりも4歳若く、北条氏康からすれば19歳若いことになる。また、佐竹義重からすれば13歳年上であるようだ。
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☝・・・小田家の家紋・「洲浜紋」。
さて、小田氏治さんの事績を追っていく前にまず、彼の実家・小田家のざっくりとした説明をするかな。
小田家は、古くから常陸の国・小田の地周辺を開発していた領主の家柄であったらしく、のちに、平安時代の終わりに源氏・・・とりわけ源頼朝に味方をし、活躍したことでその武家の地位が確立したという。 ちなみに小田家は鎌倉時代においては佐竹氏よりも優位な立場であったみたいだよ。
また、時代は下り、室町時代においても小田家は「関東八屋形」のうちの一つに数えられるなど、坂東武者の主(あるじ)である関東公方・足利家体制を支える有力な武門の家柄だった。
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☆『戦国姫譚 Muramasa』より、「政治と氏治~親娘鳳~」
☝・・・そんな氏治が家督を継いだのは天文17年(1548年)。 小田家中興の祖と称えられた父・政治(まさはる)がふいに亡くなった、若干14歳の時であった。
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☝・・・氏治が家を継いだ前後の、小田家の勢力範囲。 画像の出典元は『土浦・石岡・つくばの歴史』佐久間好雄監修、郷土出版社 とのことです。
この図を見てみると、小田家は小田周辺だけの勢力と思いきや、常陸の国の南西部にけっこう広範囲にわたって勢力を持っていますね!
このように、小田家は一般的にはマイナーなイメージが定着しているものの、常陸の国においては佐竹氏に負けるとも劣らない、同国南西部にかなりの勢力を持つ、一端の大名家だったんですね。 @@
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☆『信長の野望』シリーズより、菅谷勝貞
☝・・・・若き当主・氏治を補佐したのが、小田家中の重臣、菅谷(すげのや)氏と信太(しだ)氏の両家老だった。 特に菅谷勝貞・政貞親子は、裏切りが日常の戦国の世にあって主家を裏切ることなく、また見放すこともなく氏治を献身的に補佐していくこととなる。
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治
さて、氏治が若くして家督を継いだのち、しばらくは小田家に関わる大きな合戦は起こらず、比較的平穏な日々が過ぎていったみたいだ。 しかし、その平穏は敵にとっての充電期間であり、嵐の前の静けさであった。
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☆『グーグルアース』より
☝・・・氏治が小田の当主となって初めての合戦が、弘治元年(1555年)、あるいはその前後に起きた「海老ケ島(えびがしま)の合戦」である。(注:年数に関して諸説あり、はっきりとした定説は無いようです。) このとき氏治、21歳。 敵となったのは近隣の大名で、老練な領主として知られた結城政勝だった。
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☝・・・結城政勝は、当時小田家の家臣であった真壁氏を調略して寝返らせ、そのうえで北条氏の援軍を得ると、常陸の国・海老ケ島に攻め込んで来たのだ。
・・・このように書くと、いかにも結城氏が領土欲のために小田の勢力に攻め入ったような印象を受けますが、その背景には当時、関東において武家の最高権威であった古河公方・足利家の処置問題があり、そう単純な争いではなかった。
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☝・・・古河公方として知られている足利晴氏(左)と、関東制覇に突き進んでいた北条氏康(右)。
公方足利氏と北条氏は(建前上)君臣の関係であり、また婚姻を結ぶ間柄であるなど、両家はきわめて密接な関係を保っていた。
しかし、いろいろなことがあり、この頃には両家の仲は険悪なものとなってしまっていた。 これは簡単に言うと、公方足利家が北条氏を憎むようになり、反北条へとその立場を替えてしまったからだ。 なお、反北条とゆう立場を取ったのは、公方家を傀儡として扱おうとする北条氏の野望に気づいた、公方家当主である晴氏の意思であった。
「反北条の方針を取るのは、当主・晴氏の意思」。・・・それならば、当主をすげ替えて、別の当主・・・それも親北条の当主を奉じて操縦した方が北条にとって都合がいい。 政略に長けた北条氏康はそう考え、実に緻密で驚くべきプランを練り、実行に移していくのだが、それは後ほどのこととなる。
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☝・・・さて、当時の古河公方・足利家は古河に御座所があって、晴氏一家が暮らしていた。 晴氏には男子が四人おり、長男が「藤氏(ふじうじ)」、四男は「義氏(よしうじ)」といった。(注:それぞれ幼名があったようですが、ここでは元服後の名前で呼ぶことにします。)
ここで複雑なのが、長男「藤氏」から三男までの母が古河公方家・重臣の簗田氏の娘との間に生まれた男子であり、四男の「義氏」が北条氏の娘との間に生まれた男子ということで、彼らは異母兄弟であったことだ。 そして、公方晴氏が北条氏と険悪な仲となった状況下で、嫡男に選ばれたのが簗田氏の血を引く「藤氏」だった。
このことは、その当時の「筋目」・・・「長幼の順」、「母となる女性の身分の高さ」といった価値観と照らしてみても、そのことに特別な問題は無かったのだったが、一つだけ問題があった。
それは、公方晴氏が過去において、北条氏と「次の古河公方の座は四男・義氏に譲ること」と約束してしまっていたことであった。
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☝・・・「藤氏」は簗田晴助とは叔父甥の関係で、「義氏」は北条氏綱の外孫 &氏康とは叔父甥の関係である、といえば『ixa』を遊ぶ人には分かりやすいかもしれない。 そして、繰り返しになりますが、ここにおいて古河公方の次の当主は簗田氏を母に持つ「藤氏」が指名されたのだった。 要するにこれは、公方晴氏は次期当主の座について、北条氏との約束を反故にしたと言える。
このことは、北条氏にとってきわめて政治的な危機だといえた。 今までは関東武士の主(あるじ)である、公方足利家の権威を後ろ盾にすることで、北条氏はその武力・権力の正統性を発揮できたのだったが、それが、北条の血をひかない者が新しい公方当主となり、反北条の路線が続くとしたら・・・。
こういった北条氏にとっての政治上の都合があり、氏康は「公方足利家・当主のすげ替え」を立案・実行していくのだった。
☝・・・『信長の野望』シリーズより、藤氏(左)と、義氏(右)。
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北条氏康が考えた古河公方・すげ替えのファーストステップは、公方晴氏の第二夫人となり古河で共に暮らしていた、妹の芳春院と、その子・義氏の奪取だった。 簗田氏を母に持つ藤氏が公方家の次期当主に指名されて以来、芳春院・義氏母子の立場は古河公方家中において次第に弱くなっていたからである。 もしも謀略に巻き込まれば、彼らはあるいは幽閉され、ともすれば命も落としかねない。
しかし、正面から交渉を行い、芳春院・義氏母子を北条氏が保護しようとしても、公方家がそれを拒否するのは目に見えていた。 ・・・ならばいっそ、兵を挙げて取り囲み、威圧して差し出させる? ・・・いやいや、それでは彼らが傷害される恐れがあるし、何よりも公方家への反逆と捉えられてしまい、北条家の正当性は消え失せ、声望もまた失ってしまうだろう。
やがて氏康は謀臣たちと一通り思案すると、非常に婉曲な、計略的作戦を実行することとなる。
・・・それが、結城氏による小田攻めである・・・! 結城政勝からは、かねてより小田攻めの際の援軍要請を氏康は打診されており、それをこのタイミングで協力することで、古河公方家への目くらましとなり、芳春院と義氏が脱出しやすい環境を作りだそうとゆう計略なのであった。
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☆『千万の覇者』より、太田資正
☝・・・かくして、北条家から結城氏に対し、その精兵が援軍として送られた。 北条家直属の部隊は遠山氏・富永氏によって指揮され、その他に武蔵衆から助っ人として、智将との評判が高く、中年にさしかかり采配に磨きのかかった太田資正がその武士団を率いて参戦したのだった。
太田資正は終始北条氏と戦っていたとゆうイメージがありますが、この頃の資正は北条氏の与力として彼らに協力し、共に戦っていたのだ。
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☆『グーグルアース』より
☝・・・結城氏が主体となり、小田領を攻めたことで関東の大名諸家の耳目はそちらに集まった。 古河公方家の武士団も、近隣の合戦ということで不測の事態に備え、その将兵たちは国境近くの砦に詰めるなどし、結城=北条氏連合VS小田氏の合戦の動静を見守ったのだった。 公方足利氏と小田氏は当時友好な関係にあったから、要請があり次第、小田に加勢することも十分にあり得たのだ。
そんななか、芳春院・義氏母子の脱出は決行されたのだった。
それは一滴の血も流さない、見事な脱出劇といえた。 古河城にいた城兵があらかた出払い、重臣たちもそれぞれ戦支度や情報収集に奔走するなか、北条氏康の密使に合図をもらった芳春院・義氏母子は、しれっと古河城を抜け出したのだ・・・!
ほどなくして、妻の芳春院と義氏がいないことに気づいた公方晴氏は、急いで彼らの行方を探し、追わせたことだったろう。 しかし、芳春院と義氏母子は北条氏康が用意した小舟に乗り、夜の闇にまぎれ、古河城の近くを流れる渡良瀬川・利根川を快速で下っていったのだった。 芳春院ら母子が乗った小舟は、あっとゆう間に公方足利家の勢力下から脱したはずである。
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☝・・・脱線ですが、官公庁のサイトより、利根川の変遷について。 利根川は江戸時代に入ってから、治水事業が徐々に進められて図のようになっていった。 とゆうことで、戦国時代において利根川は、江戸湾に向けてその水は注がれていた。 芳春院ら母子を乗せた小舟は、古河から直通で江戸湾に向かってセイリングしていったはずだ。
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☆『グーグルアース』より
☝・・・こうして氏康の描いた絵のとおり、見事に事は進み、芳春院とその子の義氏は公方足利家の勢力下から脱し、当時北条氏の支城であった下総の国・葛西城にたどり着くことができた。 のちに義氏は葛西の地を御座所として館を築き、「葛西様」と尊称されて、北条氏の保護のもと、古河公方とは別の公方権威となっていく・・・。
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治
果たしてこの時、結城政勝は、北条氏康の計略の一環として小田攻めに動かされていたことに気づいていただろうか? ましてや、小田氏治は氏康の深謀に気づくことはなかったろう。
ただただ氏治は、このとき領内に攻め入った結城=北条連合軍を迎撃すべく、戦支度をしていたのだった。
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「先手必勝」。 ・・・まぁ、必ずしも常に先手が勝つとは限りませんが、先手を取ることは、後手を踏まされるよりもはるかにアドバンテージがあるのは『ixa』はもちろん、あらゆるゲームを遊ぶ多くの人が知っていることだ。 それが実際の合戦ともなると、先手を取る、取らないは戦いの明暗を分ける大切な要素だと言えるだろう。
しかし、氏治にとってアドバンテージの有る無しはあまり関係が無かったようだ。w 彼は軍を至急かき集め、海老ケ島城を救援すべく駆けつけたのだった。 このことについては、いっぱしの大名として領国防衛の義務を果たしているようで、氏治は勇気と度胸のある大将だと言える。
とはいえ、氏治のその勇気と度胸は、ともすれば機の熟すことを待たないせっかちさ、あるいは向こう見ずで無謀な突進行動となってあらわれた。 氏治の軍の動かし方を見た老練な結城政勝は、敵の大将が血気にはやっていることを見透かしていたのだ。
そして氏治は結城軍の陽動に引っかかり、誘引され、軍を敵地深くに入れすぎて、そこで待ち伏せにあって小田軍は潰走したのだった。 ><
氏治が率いた小田軍の主力が潰走することで、小田領内には軍事的な空白が生まれたようだ。 海老ケ島を抜いた結城軍は、勢いそのまま主城の小田城にまで肉薄、その勢いに圧倒された小田城はあっけなく落城してしまったのだ! Σ@@
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治
・・・小田城を奪われた氏治は、やむなく家老・菅谷氏の居城である土浦城へと落ちていったのだった。 orz
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☆『戦国ixa』より、北条氏康
こうして「海老ケ島合戦」が一段落したとき、戦略・政略ともに長けた北条氏康は、本当の狙いであった足利義氏をその手中に収め、「未来の玉(ぎょく)を握る」ことができたことから、ここで小田氏を追い詰めて仮に滅ぼしたとしても、筑波山と霞ヶ浦を隔てた背後に控える、北関東最大の勢力である佐竹氏とその領国がきわめて近接してしまうため、そのための様々な手立てを考えると、小田氏を叩くのは今回はこれくらいで終わりにしようと考えて小田氏と停戦の和議を結んだ。
こうして北条ー小田の和議が成ったのであるが、これで梯子を外されたのが結城氏だった。 一説に、この和議が成ったあとに小田勢は態勢を立て直し、その総力をもって占領された小田城ならびに海老ケ島城を結城氏から奪還したと言われている。
しかし、その説には疑問が残る。 とゆうのは、和議が成立した直後に、北条氏の盟友である結城氏に戦いを挑むことは、北条との和議を破ることとほぼ同じ意味になってしまうからだ。 いささか「狂犬」の性質の有る氏治だったが、そこまでの暴走はしないと・・・わたしは思っているので、w、おそらくは和議を結ぶうえでの条件として小田・海老ケ島の2城は小田氏へ返還されたと考えた方がいいのではないだろうか。
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☆『鬼武者Soul』より、結城政勝
☝・・・なお結城政勝は、北条氏康の裁定で奪い取った小田城・海老ケ島城を元に返還することとなり、内心憤懣やるかたない思いで一杯であったが、それでも小田領の北部の大部分は結城氏が奪い取ったままで、トータルとして結城家の収支はプラスであったと、なんとか気持ちを抑えたことだったろう。
そのことよりも、後日の情報収集で今回の「海老ケ島合戦」の北条の真の目的を知った結城政勝は、改めて「北条恐るべし!」と、その智謀を称賛して畏敬の念を抱いた。 とはいえその反面、容赦なく盟友を利用する北条のその狡猾さに、いっそうの警戒をしたのだった。
なお、政勝はこの一連の戦役で家中統制の重要さを改めて思い知り、家中を統制する分国法---通称「新法度」の制定に着手するようになるのだが、これはまた別のお話・・・。
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☆『千万の覇者』より、足利晴氏
☝・・・もう一方、古河公方家は「芳春院母子の脱出」の事件を受けて、ますます北条氏への憎悪の思いを強くし、対立姿勢を鮮明にしていった。 足利氏とは、京の都の本家である足利将軍家もそうだけれども、自分たちを奉じて傀儡にしようとする勢力とは関係がこじれ、戦うことが宿命になっているのが興味深いですね。
とはいえ、古河公方家は政治的な権威はあってもその領国は小さく、まともに北条氏と戦うことが無理なことは明白だった。 そのうえ、北条氏康が「葛西様」こと足利義氏を古河公方とは別の権威として奉ったことで、相対的に古河公方家の政治的影響力は低下しつつあった。
このように、足利晴氏・藤氏親子は北条氏によって圧迫され、逼塞していくことになる。 しかし、このことがかえって北条氏の対抗軸として担ぎあげられ、その散り際にカウンターともいえる仕返しを北条氏へ放ち、結果、関東の地はさらなる戦乱が巻きおこることになるのだが、これはまだ少し先のこととなる。
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と!ゆうことで、このような流れで小田氏治は「海老ケ島合戦」に負けたあと、ゲーム的に言えば「オートフェニクス?」的な感じで復活、w、小田城に帰還したのだった。
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治
「よく分かんないけど、フェニクスの尾、使用っ!」 (`・ω・´)
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小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、一回のブログではとてもまとまり切れそうにもないので、今回は一旦このあたりでお開き。
どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ
(つづく)
※この文章はブログ主の見解です。
『戦国ixa』
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ほか、
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