2017年7月19日水曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(3)~

経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa6364_17.html
キャラ絵小話!~小田氏治さん編(2)~







☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。


今回は「黒子の戦い」後の、小田氏治さんの事績について追っていくことにしましょう!
(^ω^)









☝・・・永禄2年(1559年)8月、「海老ケ島の合戦」で小田勢と弓矢を交わした仇敵・結城政勝が57歳で亡くなった。 突然に倒れ亡くなったというので、脳卒中のような病気かなにかだと言われている。 政勝にはただ一人の男子で、嫡子の明政(あきまさ)がいたが、その嫡子は病弱であり、政勝が亡くなるのとほぼ同じ時期に流行り病に罹ってあっけなく亡くなってしまったなど、ことここに至って結城氏は正統な後継者を失い、その行く末は暗雲に覆われていったのだった。







そんな折り・・・。







「え? 憎っくき結城のジィさまがポックリ逝って、家督相続のゴタゴタが起こりそうだって!?」

(✧∀✧) キラーン!

小田氏治さんの目が光ったのだった。(たぶん。)


・・・こうして、小田氏治は「海老ケ島の合戦」の雪辱をそそぎ、結城氏に奪われた領地を取り返さんと軍事行動を開始したのだった。 このとき氏治、25歳。 結城政勝が亡くなってから約1か月後の出陣であったとゆうのだから、迅速とまでは言えなくとも、タイムリーな出陣だったといえるね。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、小田氏治


「先手必勝」。 ・・・これは、先の「海老ケ島合戦」において氏治が痛感した、合戦でアドバンテージを得るための必須行動だ。 その点、今回はこちらが戦を仕掛ける方であり、しかも相手の結城氏は当主が亡くなったばかりで、その体制は揺らいでいる。


そして、これまで単独行動をとっていた小田軍であったが、今回の合戦には味方がいた。 結城氏との間に確執を生じていた周辺の諸大名はこぞって小田氏と同じことを考え、 「あれ、お前も攻めるの?w」 的な、同時多発的・一斉攻撃現象となったのだった。


そのとき結城氏に攻め込んだのは、小田氏のほかに、多賀谷氏、佐竹氏、宇都宮氏などであった。 興味深いのは、これらの大名は小田氏を除いて、佐竹氏と同盟関係にあった勢力だということだ。 多賀谷氏は結城家中から離反して「佐竹組」に入ったばかりだし、宇都宮氏も佐竹氏の保護・後見を受ける形で先年「佐竹組」に入っていた。 となると、この共闘は偶然ではなく、佐竹氏の意向だった可能性が十分にある。







☆『グーグルアース』より


☝・・・結城氏、完全包囲まであと一手ーーー。


味方が優勢の時には、えてして士気は高くなるものである。 氏治をはじめ、小田方の将兵は勇んで結城領へと進撃していったのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、窮地に追いやられた結城氏であるが、


☆『千万の覇者』より



☝・・・結城氏の当主・政勝とその嫡子が相次いで亡くなったことで、その跡を急きょ継いだのが晴朝だった。 晴朝は結城氏の支族・小山氏をその出身としていたが、彼は先代・結城政勝の甥であり、また名君と称えられた先々代の当主・政朝の孫であるなど、晴朝は血の濃さとゆう点で結城家を相続することにとりたてて支障がなかったようだ。


晴朝の家督相続は家中のパワーバランス反映の結果だとも考えられなくもないが、このときはたいへんな非常時であり、比較的公正に、人物の優劣を見定めて晴朝は結城の当主に選ばれたと見ていいだろう。


と、ゆうことで、結城氏と敵対する勢力の思惑とは異なり、さしたる謀反・騒乱が起こることもなく結城氏の家督交代は行われたのだった。







☆『戦国サーガ』より、結城晴朝


「しかしいったい、どうすりゃええんじゃあ!」


優れた将器を見込まれて、ドタバタで家督を継いだ晴朝だったが、いきなり周囲四方のうち三方を敵に寄せられてはたまったものではなかった。 頼みの綱は盟友・北条氏からの鬼加勢だったが、北条氏も各方面で戦いを続けている最中であり、すぐさま結城へ駆けつけることは不可能だった。


「当面はそちらでなんとかせよ。・・・いずれ加勢を向かわせるから」 冷酷な通知が眩暈と共に返ってきたのだった。


晴朝は一通り絶望すると、やがて諦観の境地になり、いつしか先代、先々代のことをぼんやりと思い出していた。 それは、結城家中の夜話で必ずと言っていいほど題材になる、およそ100年前にあった「結城合戦」の話だ。


「結城家は、日の本中を敵に回しても義を守り、堂々と戦った。」 先代も、先々代も目を熱くして語っていたな。 晴朝はそう思いだすと、今回はその時の状況に少し似ているように思われる。 いや、結城合戦ほど絶望的ではないか・・・。 そう思えたら、不思議と勇気がわいてくるのだった。


晴朝はしばらく沈思黙考すると、重臣たちを呼び軍議を開き、その方針を告げる。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、結城晴朝


☝・・・晴朝が下した方針は籠城だった。 それも、結城家が持っている支城の一切を破却・放棄し、すべての軍兵・物資を結城本城に一点集中するとゆう籠城だった。(注:ただし、国衆である結城四天王の各家が持つ城は破却の対象には入っていなかったようだ。)


そうして敵を結城本城が引き付け、釘づけにしているところを結城四天王の各家が遊撃隊として出撃、時に応じては攻め、引き、を繰り返して敵を疲れさせ、そのうえで決戦を挑むという作戦だった。


こうして悲壮な覚悟で籠城の準備は進められていく。 晴朝のもとへ届く報せの多くは凶報だったが、中には朗報もあった。 それは、近隣の領主で近頃よしみを通じている、真壁氏がこのたび助太刀してくれるというものだった。





☝・・・『グーグルマップ』より、結城本城と四天王、&真壁氏のざっくりとした配置図。 (注:四天王のうち、多賀谷氏は先年寝返り、敵となっていた。)


そんななか、いよいよ敵兵が押し寄せてくる。 結城氏が各支城を破却・放棄したおかげで、反結城の各軍は結城本城へ易々と到着したのだった。 やはり、すべての支城を放棄するというのは悪手ではなかったのか。 結城の将兵たちが不安に思うのも無理はなかった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




☝・・・『グーグルマップ』で見る、結城城址。 戦国時代当時のものとは違うかもしれませんが、現代でもうっすらとその城域の輪郭は残されていますね。 結城城は中世の時分、沼や深田、そして堀で囲まれた難攻不落の城だったそうだ。


この結城城を、佐竹氏を筆頭とした反結城連合はぐるりと取り囲んだ。 一説に、この時の寄せ手(攻める側)は総勢7000騎だったという。 ちなみにこの時代の1騎とは、騎乗した武者に馬の口取り、槍持ち、旗持ち、荷物を担ぐ者(もしくは荷駄)などを合わせた単位であり、わかりやすいイメージとしては『花の慶次』の前田慶次に捨丸、岩兵衛の主従一行がそれに近いといえる。







そして来たる、いざ戦いのとき。


☆『戦国姫譚Muramasa』より


「ボッコボコにしてやんよ! 突撃~!!」


☝・・・戦いは多賀谷勢を先鋒として始まった。 小田勢は佐竹勢と共同で、北側の門を攻めたようだ。


しかし、深田に囲まれ、幾重にも防御線の張られた堅城・結城城である。 寄せ手は攻めあぐね、じわじわと死傷者の数は増えていく。 一説に、寄せ手の兵は初日で600名超の死者を出したのに対し、城兵は100余名ほどだったという。







ところで、永禄年間に入る少し前あたりから、「この地(関東)ではじめて鉄砲が使用された、云々」という記述が各文献でちらほらと散見できる。 それによると鉄砲は主に守備側で使われ、わずか数丁ほどのレベルであったものの、轟音とともに火を噴き、まともに命中すれば絶命に至ったことから、兵士たちは鉄砲を大いに恐れたという。 おそらく、この時の戦いでも鉄砲は登場し、寄せ手を追い返すのに使われたことだったろう。




ここで脱線ですが、「鉄砲なんてものは百姓に持たせりゃいいんだ!(閃いた♪)」的なことを先日の大河ドラマ・『おんな城主直虎』の劇中で言っていましたが、それはけっこうな間違いだと思います。 当時の鉄砲は最新兵器で、その取り扱いは最新兵器ゆえに機密扱いされており、たとえば鉄砲使用に不可欠な火薬の調合など、多くのことが秘密とされていた。


そのため、〝シロウトの大名”が鉄砲を導入・運用する場合は鉄砲の扱いに長けた「雑賀衆」を雇い入れるなど、いろいろと大変だったようだ。 雑賀衆が傭兵として各地に招かれ有名になったのは、鉄砲運用の機密性からそうなったと考えるのが妥当だろう。 なので、「鉄砲なんてものは百姓に持たせりゃいいんだ!(閃いた♪)」という概念は、近代に入って火薬の知識が秘密でなくなり、また高性能の銃が登場してからの話だといえ、ゆえに直虎の時代では間違いだと言えるだろう。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・脱線から戻り、結城城での攻防ーーー。 日に増して、結城攻めの寄せ手の損害は大きくなっていった。 結城の新当主・晴朝の策である「一点集中防衛」により、かなりの反撃力が結城城には備わっていたからだ。 もっとも、この「一点集中防衛」はおよそ100年前にあった結城合戦の防衛を参考としており、晴朝のオリジナルではない。


しかし、ここからが晴朝の策の真骨頂だった。 そう、各城に籠り、兵力を温存してきた結城四天王らの遊撃部隊が寄せ手の疲弊を見計らい、一斉に反撃に打って出てきたのだ。









☝・・・このときの結城・小田両軍の激突で、活躍し一躍名を上げたのが「鬼真壁」だった。 彼は乱戦になるとすかさず前線におどり出て、六角棒を振り回して暴れまわったのだ。


その六角棒の長さは3m半ほどで、樫の木でできたものに鉄張りをし、おまけに鋲をちりばめたとゆう鈍器で、鬼真壁はそれを手に取り、薙ぎ払い、突き、薙ぎ払い、突き・・・と繰り返して敵を押しまくった。 彼の手にかかった兵士は、おそらく「薙ぎ払う」で骨折し、「突き」で絶命させられたことだったろう。


「なんじゃあ、ありゃあ!」 Σ@@


前線が一人の武者によって崩されたのを見た氏治は、もはや冷静ではいられなかった。 よくも悪くも闘争心が強すぎたのだろう、氏治は自ら突っ込もうとして周囲に押しとどめられるなど、もはや小田勢全軍の指揮をまともに続けることは困難だった。 指揮系統が混乱するなか、徐々に崩壊の度を増していく小田軍。 せめて弓騎馬隊をすばやく動かし、鬼真壁を下がらせられたら・・・と、残念でならない。







☆『鬼武者ソウル』より、真壁氏幹


☝・・・ちなみに、このときの「鬼真壁」の大活躍はまさに豪傑・真壁氏幹らしいエピソードであり、長らくそうだと言われてきた。 しかし、近年の研究ではこのときの「鬼真壁」はどうやら氏幹の父・久幹(ひさもと)であるらしいことが分かってきており、とゆうことで、真壁氏は親子2代にわたって豪傑だったらしいのだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


こうして、真壁軍から痛打を受けた小田軍は、その後も結城勢である水谷・小山隊からも追撃を受けて完全に崩壊、佐竹氏らが結城城攻めを続けるなか、一足先に撤退する羽目となってしまった。 ( ;∀;)


☆『戦国姫譚Muramasa』より








やがて、佐竹・多賀谷・宇都宮氏の反結城連合は結城氏と和議停戦の約定を結び、この戦争は一段落することになる。 なお、この戦いで佐竹氏側がおおむね優勢だったことから、このとき結城氏は領地の多くを失った。


あべこべなことに、ここでも小田氏は城を落とされ、領地を奪われたことがいくつかの資料ではそう書かれている。





☝・・・『グーグルアース』より。 「海老ケ島」は佐竹方に取られ、「北条」は結城方に取られたという。 さらには、小田城までもがこの時取られたと記す資料もあるのだ。 もはや、わたしにはこの時の状況を想像することはできない。w 記録が混乱してしまっただけなのか、それとも本当にカオスな状況だったのか。


それにしても、連合して結城氏を追い詰めていたはずが、いったいぜんたい、どうしてこうなったぁ!w







☆『鬼武者ソウル』より、多賀谷政広。



☝・・・もうひとつ不可解なことは、この戦後に多賀谷氏は結城家中に再び戻り、主家の斡旋で結城四天王のひとつ・山川家と婚姻を結んでいたりする。 一戦交えたことで、結城氏の新当主・晴朝を頼もしく思えたのだろうか? 多賀谷政広は人質として長いこと結城城で過ごしており、ほぼ同年代でよく見知っていた結城晴朝と、新たに関係を一から作り直したいと政広は結城離反の考えを改めたのかもしれない。(それにしても気分屋すぎィ~! 許す方も大概にせいやw)







☆『グーグルアース』より



☝・・・多賀谷氏が結城家中に帰参することで、下妻→北条→小田と結城勢が攻め入って突破され、小田城は落ち、その混乱をついて佐竹勢が海老ケ島を占拠した・・・ということになるのだろうか。


ともあれ、


☆『戦国姫譚Muramasa』より


☝・・・ともあれ、小田氏治が戦うたびに小田家が弱体化していくことには違いなかったのだった。w







( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。







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