2017年7月17日月曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(2)~

ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa.html
(キャラ絵小話~小田氏治さん編(1)~)







☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。


今回は「海老ケ島合戦」以降の、小田氏治さんの事績について追っていくことにしましょう! (^ω^)


(ご連絡!) 前回(第一回)中を大幅に書き換えました。 よろしかったら再度ご覧になってくださいませ。 m(__)m







結城・北条氏連合VS小田氏が戦った「海老ケ島の合戦」。 その合戦がひと段落したあと、小田氏治は重臣たちの奔走もあり、なんとか和議によって小田城に戻ることができたのだったが、その時の合戦で失った小田の領地は少なくなかった。


一方、「海老ケ島の合戦」で小田勢の統率がいかにも拙く、思ったほど強くなかったことに目を付けた近隣の土豪・多賀谷氏は、今が絶好のチャンスタイムだと考え、小田領の侵入・切り取りの検討をし始めた。


ひとたび弱いと目をつけられ、侮られたのなら、周囲から立て続けに攻め込まれてしまう・・・。 関東の地は、まさに戦国時代の真っただ中だといえた。






(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話を進めていく前に、ここでまず「多賀谷氏」ってナニ? とゆう方のために、それについてざっくりとご説明しよう。


☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・多賀谷氏とは、結城氏の家臣であり、「結城四天王」の一つに数えられ、その筆頭であることが知られている。 そしてその拠点は下総の国・下妻だ。


・・・要するに、小田氏は結城氏の家臣に攻められたのだった。








☆『鬼武者ソウル』より、小田氏治。


「ぬわんだってぇ~!」 Σ@@


多賀谷氏が小田領へ兵を挙げた報せは、ただちに氏治とその重臣たちに伝えられた。 多賀谷氏と言えば、結城氏の家臣の分際であり、小田家とは格が違う・・・。 格下と見なしていた多賀谷氏にこのたび小田領は攻め込まれた、そのこと自体が氏治にとっては侮辱であり、そうとう彼の癇に障ったことだろう。


氏治は怒り心頭で自らの武士団に招集令を出すと、多賀谷氏を撃退すべく進軍していったのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


それにしても、なぜ多賀谷氏は単独で小田領に攻め込んだのだろう? 多賀谷氏は仮にも結城氏に属していたのだから、他領へ軍事行動をする場合は主家と相談して、結城軍として事を進めるのがふつうである。 そもそも、結城家中には「新法度」で知られる結城家法度があるのだから、その軍務規定を守り従うべきであった。


しかし、このとき多賀谷氏の取った行動はまるで違った。




☆『鬼武者ソウル』より、多賀谷政広。


☝・・・主家・結城氏に次ぐ、ナンバー2の実力・・・。 このことが、多賀谷氏当主・政広が結城家法を無視し、独自の行動を取らせるに至ったものと思われる。 そもそも、多賀谷氏とは歴史的にいって、時に結城氏に従い、時には背くといった、時勢に応じて態度を変えることでも知られていた。


「結城家法度」がこの前年に成立したばかりだという事実も重要かもしれない。 一般的に言って、戦国時代の家法とは戦国大名が強力な指導力を発揮するために定めた決まり事だが、支配を受ける多賀谷氏にとってみれば、この法度を受け入れることは結城家に掌握され、完全に服従することと同じだった。


・・・結局、多賀谷の当主・政広は干渉を嫌い、また独立への野心を捨てることができなかったのだろう。 そしてこのとき、多賀谷氏は意外な勢力と協定を結んでいた。 ・・・それが常陸の国・太田を本拠にする佐竹氏だ。


多賀谷氏は佐竹氏から援軍の確約を得ると、すかさず小田領に攻め入ることを決行したのだった。 この時点で、多賀谷氏は結城家中から完全に離反したと言える。




☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・多賀谷氏に協力したのは佐竹当主・義昭である。 この人物は一般的な知名度はあまりないものの、「坂東太郎」とあだ名され有名になる鬼義重の父であり、義重が戦国大名として飛躍するための基礎を地道に築いた有能な当主だった。


このたび佐竹氏が多賀谷氏に協力したのは、単に共同して小田を攻め領地を増やすことが主目的ではない。 多賀谷氏を結城氏から離反させるということは、結城氏内部の切り崩しであり、ひいては結城氏と同盟関係にあった北条氏への牽制という、きわめて戦略的な意味が含まれていた。 多賀谷氏と佐竹氏、どちらが先に接触を持ったのかは定かではないが、まさに佐竹氏はこの戦いで反北条の狼煙を上げ、常総地方の覇権争いに本格的に参戦したと言っていい。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・このような各家、水面下の動きがあるなか、小田氏治は多賀谷=佐竹の連携を察知できないでいた。 佐竹氏による多賀谷氏への肩入れは、小田勢にとって想定外の出来事となり、このたびの戦いに重大な影響を及ぼすこととなる。







☆『グーグルアース』より


☝・・・かくして、多賀谷氏の小田領攻めは始まったのだった。 時は弘治3年(1557年)2月、寒さがまだ厳しいなかでの軍事行動だった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『グーグルマップ』より


☝・・・このときの多賀谷氏VS小田氏の戦いは、「黒子の戦い」と呼ばれている。


多賀谷領の黒子と小田領の海老ケ島が向かい合う、ちょうど中間地点には小貝川が流れており、これが下総と常陸とを分かつ国境(くにざかい)となっている。 この当時の河川、それも国境になるような一級河川クラスの川は人の手に負えず、小貝川はきわめて蛇行して流れ、大雨のたびにあふれ出し、周囲は人が定住するのに不向きな湿地となって広がっていた。 小貝川が暴れ川であることは、近年起こった「関東東北豪雨」でも小貝川は堤防が一部決壊し、氾濫したことで関東の人にとっては記憶に新しいことだ。


そんな小貝川を前にして、多賀谷勢は黒子村に本陣を置き、続いては小貝川の渡河地点に築陣、さらにはその兵を海老ケ島城に進め、一気呵成に攻め立てた。 小田勢の援軍が本格的に到着する前に海老ケ島城を落としまおうという思惑である。


しかし、海老ケ島の城主・平塚氏は堅く守り、よく粘った。 そのため小田勢の援軍は間に合い、海老ケ島城を中心として重厚な布陣を展開することができた。 ・・・なお、このとき指揮をとったのは小田家の重鎮・菅谷勝貞だと言われている。


一方の多賀谷勢も合戦の呼吸を知る者で、小田の援軍が来るのを察知すると、さっさと海老ケ島から退却、小貝川を渡って黒子の本陣に戻ってしまった。 こうして両軍は小貝川を挟んでにらみ合うこととなる。




☝・・・『信長の野望』シリーズより、菅谷勝貞。




その後、にらみ合っていた均衡をあえて小田軍は崩し、黒子に攻め込むことになる。 そのことでこの合戦は「黒子の戦い」と呼ばれるようになるのだけれども、守るだけで事足りた小田軍がなぜ敵地へ攻め入ったのかは明らかではない。


思うに、大将・小田氏治の向こう見ずな突進行動が再びここで出てしまったのではないだろうか?w







☆『戦国姫譚Murasama』より


☝・・・氏治参上~! 全軍突撃、夜露死苦っ!!







(参考)


☝・・・大きな川を軍が通過するとき、船橋をかけることが当時はあったようだ。 このとき使われた船は小田家の持ち物ではなく、川で暮らす漁民にいくばくかの金銭を支払って船は調達された。 真冬ということもあり、川を渡るときに軍装が濡れてしまうと、その軍の士気は著しく低下してしまう。 手配をした菅谷氏はなかなか細心であった。


こうして小田勢は小貝川を渡り、そのまま黒子に布陣した多賀谷勢に迫って、ついに両軍の雌雄を決する戦いは始まったのだった。 「格の違いを見せてやるぜぇ~!」 そんな氏治の気迫が兵に乗り移ったのか、多賀谷勢を押しまくる小田勢。 このとき小田勢はまさに勝利を掴んだ・・・かのように見えた。


ところがどっこい。 多賀谷氏と秘かに盟約を結んでいた、佐竹氏の援軍がここにきて到着してしまったのだ。 佐竹の援軍は背後を脅かす動きを見せ、小田勢に動揺が走る。 さらに悪いことに、船橋の持ち主である漁民たちは船といっしょに一目散に逃げてしまっていた。 これによって、小田勢は小貝川の流れに阻まれ戻るに戻れず、敵地・黒子にて完全に孤立してしまったのだった。


まさに、絶体絶命ーーー。







☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・ここで小田勢は血路を開くべく必死に戦ったものの、散々に敗れ、その軍は潰走してしまった。 このとき、小田家の股肱といえる頼もしい将兵が次々と戦死してしまった、と記録にはある。 ( ;∀;)


氏治は佐竹勢の執拗な追撃を受け、軍を立て直すことができずにそのまま敗走を続けた。 やがて佐竹勢は主城・小田城を包囲、小田城に入ることができなかった氏治は小田城に入ることを諦め、「海老ケ島合戦」同様、またもや土浦城へと落ちていったのだった・・・。 小田城がほどなく落城したのは言うまでもない。







☆『戦国姫譚Muramasa』より







( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)


やがて後ほど、氏治はなんとか重臣・菅谷氏の活躍により小田城を奪還することになるのだが、その時期は「黒子の戦い」の4か月後とも、あるいは2年後ともいわれ、定かではない。 おそらくこの時期、この地域一帯では大小さまざまな合戦が繰り広げられていたので、伝承・記録ともに混乱してしまったものと思われる。 当ブログでは、前後の出来事を検討したところ、約4か月後の弘治3年(1557年)度中の奪還が大きな矛盾がなさそうなので、そちらを支持したい。







☆『戦国姫譚Muramasa』より


「またまた復活! 菅谷っちは使える家老じゃあ!」 (^ω^)


と、ゆうことで、小田氏治は2度目となる〝「フェニクスの尾」の使用”を行い、多賀谷=佐竹連合から小田城を奪還し、華麗?に復活したのだった。







(^ω^)(^ω^)(^ω^)


最後に、「黒子の戦い」の後日談をして今回を締めたいと思います。







☆『土浦・石岡・つくばの歴史』佐久間好雄監修、郷土出版社 より


☝・・・「黒子の戦い」の次の年、多賀谷勢は今度は豊田に狙いを定め、兵を進めてきた。 その地域は小田方の豊田氏が領主をしており、単独で防衛するのはあまりに厳しいと小田家に救援を求めてきた。 氏治は敗戦が続き軍を動かすことが苦しかったが、小田家の統領としてなんとか兵を集めて応援を出した。 なお、その時の大将は菅谷政貞だったと言われている。


そして両軍は合戦に至ったのだったが、このとき菅谷氏は軍を巧みに指揮し、作戦で相手方を翻弄した。 また、小田方に沼尻又五郎という豪胆な武士が登場し、その勇敢な振る舞いと獅子奮迅の働きで、この2者の連携活躍によって多賀谷勢は撃退されたのだった。


小田軍、いまだ健在なり! ・・・とかく「連戦連敗」「戦国最弱」とのレッテルを張らがちな小田家だけれど、この戦いで勝利を得るなど、かならずしも負けばかりではなかったことを皆さんにご紹介しておく。w このときの一戦で得た勝利は、小田氏にとっては実に貴重な勝ち星だといえた。


のちに豊田氏は、「攻めが無理なら計略で♪」と、多賀谷氏が仕掛けた内紛誘発の計略によって滅ぼされてしまうのだが、それはもう少し先のお話・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。






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