2020年2月1日土曜日

【日本史】ナイキ厚底靴と足半について!

時事/日本史コラム


☆サイト『痛いニュース』2019年12月の記事より


☝・・・「箱根駅伝」で話題になった「ナイキのピンク靴」。 靴の機能性からパフォーマンスが軒並み向上したことで、テレビの情報バラエティー番組などでも取り上げられていますね! 今回は、この話をー。






https://www.news-postseven.com/archives/20200127_1532356.html
☆サイト『NEWSポストセブン』
ナイキ厚底シューズの規制問題 日本陸連の見解は? より


☝・・・さて、この「ピンク靴」ですが、パフォーマンス向上のカギとして「半強制的につま先に重心が移動する」という機能があるようですね。 つまり、おおざっぱに言えばこの靴は「つま先走行」をさせるためのものと言えるようだ。


そして、わたしはこの「ピンク靴」の機能を知って、日本史の分野で思い出すことがある。 それは、「つま先を使って走ったり、歩いたりする履き物」が日本史で登場するからだ。




☆サイト『コトバンク』より


☝・・・それが「足半(あしなか)」と呼ばれる履き物だ。


なーんだ、草鞋(わらじ)じゃない! と思った方もいたかもしれませんが、この足半を履いたイラストをご覧になってください。




☆サイト『サライ』より、足半


☝・・・ちっさあ! w


これは何も、子供用の草履(ぞうり)を大人が無理やり履いてみた、といったイラストではない。


足半とは、このように、つま先だけにつっかけるミニ草履のことであって、普通の草履や草鞋とは似て非なるものなんです・・・!







この足半と呼ばれるミニ草履は、何も素材の節約のために小さくしているのではない。


実は、中世日本の走り方とは、かかとを着地させずに、つま先だけを使い、それで前傾姿勢となってヒョイヒョイと走っていたようなのだ。


この走り方は、少なくとも今日の一般的な走り方である、かかとを地面に着地させてからつま先で地面を蹴るといった走法とはまるで異なっていて、すなわち最近話題のナイキピンク靴の走法思想に近いものだと言えるだろう。







(・∀・)(・∀・)(・∀・)


☆ネット検索より、悪党


☝・・・先ほどの足半(あしなか)とは、中世日本・・・鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて勃興した、「悪党」などと呼ばれる身分の低い戦士階級が使い始め、やがてそれが徒歩(かち)の戦士たちの一般的な履物となって定着したのではないかと推定されている。


それというのは、平安以来の身分ある武士は「弓馬(きゅうば)の家の者」と言われるように、馬に騎乗して弓矢を放つという、いわゆる騎射を専らの戦法としていた。 すなわち「馬追い」「流鏑馬(やぶさめ)」といった武芸だ。 そして、そういった弓馬の武芸をたしなむ武士が履くのは沓(くつ)と呼ばれる履物であり、草履などの「スリッパ系」は基本的に履かなかった。


足が軽い者たち・・・すなわち徒歩の戦士たちが「足軽」と呼ばれたのも、足半という軽快な履物があったからこそだったのかもしれない。







(・∀・)(・∀・)(・∀・)


☆『戦国IXA』より、吉法師


☝・・・かの織田信長も、ミニ草履である足半(あしなか)を愛用していたことで知られている。


まず足半は、草鞋とは違ってつっかけるだけで即座に履けるため、せっかちな信長の性分にあっていた。 (草鞋は、かかとの部分を紐で結ばないといけない造りになっていて、即座に脱ぎ履きできなかった。) そして腰に下げていたひょうたんや火打ち袋と共に、足半もまた下げていたようだ。







☆『のぶニャがの野望』より

☝・・・それなので、信長と秀吉の若き頃のエピソード・・・「秀吉が草履を懐で温めた」という逸話も、正確には草履ではなく足半(あしなか)であった可能性が高そうだ。


でも、さすがに城内でも足半を履いていたのかどうか、そのあたりはタイムマシンで確認しないと真偽は分かりませんけれどもね!w







☆『戦魂~SENTAMA~』より、織田信長


☝・・・信長がいかに足半(あしなか)を愛用し、そして重んじていたことがわかるエピソードがほかにある。


それは朝倉氏との「刀根坂合戦」(天正元年:1573)の時のこと。 信長の家臣に兼松又四郎という武士がおり、彼は裸足のまま戦って敵の首級を取るという武功を挙げた。 それなので信長は論功行賞の席でこの武士を褒めたたえ、自らの足半を与えた、というものだ。


「は? 命がけの武功の見返りが足半? ナニソレ・・・」


こう思う人もいるかもしれないし、実際わたしが武功を挙げて褒美が足半だとしたら、その日のうちに逐電している。w


ただ、このエピソードが伝えていることは、それくらい信長は自らの足半をステータスアイテムとして扱っていたんだよ、ということと、それが美談として成り立つくらいに当時は武名/名声を誉れとしていた、ということだ。


「命は一代、名は末代」という格言があるけれども、兼松又四郎は現にこうして名を残しているし、案外悪くなかったのではないのかな、とも思ってしまうよ。 ・・・でも、やっぱり領地とか貰えた方がよかったんじゃないのかなぁ。w







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と! いうことで今回はこのあたりでお開き。


ナイキのピンク靴と足半(あしなか)は見た目がまるきり違うものの、どちらもつま先を使った走りをするということから話題を展開しました。


「昔の人は鍛え方が違う」という言葉があるけれども、足半ひとつで未舗装の悪路を東奔西走していた先人には、頭が下がるばかりだ。


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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