2018年11月10日土曜日

【日本史】孝謙・称徳天皇陵について!

日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2018/08/ixa_27.html
キャラ絵小話! 煕子さん編







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


産経新聞11月2日の記事、「悠久の天皇陵」という記事を読みました。 今回は、この話題を・・・。









☝・・・記事のタイトルは「巡拝 悠久の天皇陵(17)孝謙・称徳陵」。 さっそくその記事をみなさんにも見てもらいましょう。


・・・と思ってネットを探したのですが、なんてこったい、どこにも見当たりませんでした・・・ネットにアップされない記事だったのですね。 orz














「巡拝 悠久の天皇陵」というシリーズの要旨は、天皇陵の場所やそれにまつわるエピソードを紹介するといったもので、「巡拝」をタイトルに冠するあたりに産経新聞らしさが伺われます。 わたしはこの新聞を定期購読はしていませんが、たまたま読む機会があってこの記事が目に止まったというわけです。


記事の要点を引用すると、


・孝謙・称徳天皇陵
・陵名 高野陵(たかののみささぎ)
・規模 全長約127メートルの前方後円墳
・所在地 奈良市山稜町


『・・・不安定な情勢の中、神護景雲3年(769)に宇佐八幡宮神託事件が起こる。 ・・・やがて天皇は翌年、病気のため8月4日に崩御。 続日本紀によれば、ただちに山稜造営が始まり、17日に添下郡佐貴郷の高野山稜に埋葬された。 現陵は前方後円墳で5世紀後半の築造とみられている。 古い古墳を、陵として利用したのだろうか。 (客員論説員 渡部裕明氏)』







以上がこの記事の孝謙・称徳天皇陵の文章の抜粋ですが、多くの人はこの記事を読んで、


「ふーん、そうなのね」 (`・ω・´)


これ以上でも、以下でもない感想を持つかと思います。 しかし、栃木県を出身としていて、郷土史にも関心があるわたしとしては、注目すべき点があったのです。







それは、論説員の方が文章の終わりに投げかけた、ふんわりとした疑問である。


『現陵は前方後円墳で5世紀後半の築造とみられている。 古い古墳を、陵として利用したのだろうか。 (客員論説員 渡部裕明氏)』


その意図をわたし流にくみ取ると、


「『高野陵(たかののみささぎ)』は孝謙・称徳天皇の陵とされているが、実際は5世紀後半の時代であろう古墳であり、科学的な見地に立てば、これが称徳天皇の陵とは認めがたく、続日本紀の記述は信用できない」・・・とも受け取ることができるだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このようなことをブログで発言すると、もしかすると、陵を巡拝している人が怒ってクレームを入れてくるかもしれない。 でも、もう少し話を聞いて下さい。


わたしの出身は栃木県であると先ほど言いましたが、その栃木県には「孝謙・称徳天皇の陵がある」と、非公式に、在野でそう言われているのです。







☆グーグルマップより


☝・・・それが、栃木県石橋町にある、「孝謙天皇神社」だ。


とはいえ、とつぜん「栃木県に孝謙・称徳天皇の陵がある」と言われても、多くの人は俄かには信じられないことでしょう。 人によっては噴飯するかもしれません。 w


「何でもかんでもオラが地元に有名人を持ってくるなよ・・・」


「これだから、田舎は・・・w」


などと思う人が多数なのではないでしょうか^^; 実際、わたしもそのような意見を以前には持っていました。







しかし、さきほどの記事を読み、順を追ってみれば、孝謙・称徳天皇が下野の国に葬られたという伝承・ストーリーには、一定の信ぴょう性を感じます。


まず、なぜ奈良時代の天皇という高貴な身分の人物が、下野の国という草深い田舎に陵を作らなければならなかったのかというと、孝謙・称徳天皇とただならぬ関係であったといわれた、道鏡がその地にいたからだ。 道鏡は「宇佐八幡宮信託事件」によって失脚、のちに下野国(いまの栃木県)に左遷させられている。


なお、当時の下野の国は「日本三戒壇」のひとつ、下野薬師寺が所在する地方であった。 この時代、僧侶を志望する者は戒壇寺院で修業をし、度牒・・・その資格を得なければ認められない。 僧侶とは国家公認制の時代であったのだ。


(栃木県出身者としても意外ですが)、下野国は東日本を管轄する仏教の地方中心地だったらしく、そんな地方のセンターに道鏡は長官就任の名目で左遷させられたのです。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


「宇佐八幡宮神託事件」は、今もなお謎が多い事件だとされている。 ・・・わたしは、この事件は奈良・天平期における、重大な政変だったと思う。


「初代天皇といえば神武天皇」・・・こんにちの世間ではそういわれていますが、実際に「天皇」と初めて称したのは天武天皇であったし、宇佐八幡宮神託事件が起きた時点では、「称号としての天皇」の伝統は100年に満たなかった。 そのような背景のもと、孝謙・称徳天皇は「天皇の地位」を初めて非皇族者に譲ろうとしたワケだ。


その当時の我が国は、仏教勢力がにわかに権力を強めていた時期のようで、寺院勢力が中心となって道鏡を応援したのだろう。 それに対して、神社(神道系)と筆頭貴族・藤原氏は白壁王(のちの光仁天皇)を応援し、我が国を二分して暗闘が繰り広げられたのだ。


・・・その争いで武力が衝突したという記録は見当たらない。 しかし、粛清の嵐が吹き荒れたようで、多くの人物が流刑などに処され、都から追放されている。


そのようななか、やがて「孝謙・称徳天皇が死去」し、キーパーソンを失った道鏡側が敗北、白壁王側が勝利することとなる。 こうして、今日までにつづく我が国の皇統は守られたというワケだ。


歴史にもしもは存在しない、という格言がありますが、仮に道鏡側が勝利したならば、日本仏教の首席にあたる者が「法王 兼 天皇」となり、それは新たな伝統として、のちの日本の歴史に大きな影響を与えたハズである。 こう考えると、この事件は日本史のターニングポイント未遂だったと言えるだろう。


「法皇(太上法皇)」は平安時代の中期、宇多上皇がはじめて名乗ったと言われていますが、「治天の君」+「法(仏法)の世界にも君臨」というアイデアは、宇多上皇をさかのぼること100年以上昔の、道鏡事件をヒントにしているかもしれませんね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


道鏡への愛情が過ぎた女帝が判断を誤り、「宇佐八幡宮神託事件」という皇統に関わる一大事件を引き起こした。 その企ては社稷の臣らにより、「現天皇の幽閉」という非常事態の対応をもって阻止される。 しかし、難しいのは以後の処遇だ。 このまま都に居られては体制を覆される恐れが充分にあったが、かといって天皇を殺すということはさすがに憚られた。


結局、厳重な監視付きで遠方に流罪が妥当だろう、という案に落ち着き、孝謙・称徳天皇はすべての権力をはく奪され、無力ないち女性として、道鏡とともに東国の果て・みちのくの境である下野の国へと流された。


同時に、藤原氏は「天皇の病死」を発表し、白壁王の正当な即位を宣言。 それとともに先の天皇の陵を急ぎ造営(自作自演)し、盛大な葬儀を行ったと記録に書かせて国家の体裁を整えた。 また、道鏡は巨根であり、女帝はそれによって惑わされた暗君だとデマを流し、政変の正当性を暗に主張した。


勝者は敗者をおとしめ、敗者は口をつぐまされるーーーいつの時代も(こんにちでさえも)、これが事実ではなかろうか。 こうして、歴史書の作文が「事実」とすり替えられたーーー。


このようなことがあったかもしれませんね。







☆『戦国コレクション』より、姫化した道鏡








「高野陵(たかののみささぎ)」。 ふつうに考えて、既存の古墳に天皇が追葬されるということなど、ありえないことでしょう。 墳墓の主は、あくまでも元の埋葬者だからだ。 それがたとえ、皇統に重大な危機をもたらした女帝だとしても。


それゆえに、わたしは郷土の伝承にある、「孝謙・称徳天皇が晩年に下野の国に下向してきて、愛する道鏡とともに最期のひと時を共に過ごした」という説に信ぴょう性を感じてしまうのです。







わたしは基本的に戦国時代を最も好んでいますが、奈良時代もこれはこれで、藤原氏の仕掛けた謎のベールが分厚くミステリアスで、それゆえに興味深いと思ってしまいますね。
(*´ω`)


と、いうことで今回の日本史コラムはこのあたりでお開きデス!


(つづく)


※この文章は、ブログ主の見解です。




☆お知らせ☆
ブログランキングに参加しています。 クリックをして応援よろしくお願いします!
('◇')ゞ



日本史ランキング

0 件のコメント:

コメントを投稿