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キャラ絵小話! 小田氏治さん編(7)
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☆『千万の覇者』より、長尾景虎
永禄4年(1561年)の2月下旬のことーーー北条属・武蔵国の松山城を落とした長尾景虎は、その日のうちから次に指すべき一手を思案していた。
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☆『グーグルアース』より
松山城を奪った翌朝・払暁ーーー。 日の出前に目を覚ました長尾景虎の眼前には、北条氏が支配する南関東平野がどこまでも広がっていた。 2月の下旬ということで冷え込みもまだきつい。 白い息を吐きながら、立ち昇る朝日に染められて、地上も空もオレンジ色となった景色を景虎は目を細めて眺めていた。
広大な関東平野の要地には北条の支城がそれぞれ配置され、本領・小田原を守っている。 それはまさしく十重二十重とめぐらされた防御線であり、その重厚な守りの最奥に小田原城は鎮座しているように思えた。
「この先、どう北条と戦っていったらいいものかーーー。」
景虎は城内の小堂に入って護摩を焚き、毘沙門天に祈りを捧げながら瞑目、数珠をつまぐりながら黙考する。 祈りが終わり、景虎がおもむろに眼を開いたときには、すでに日は勢いよく昇りだしていた。 景虎は諸将を集め、その方針を告げる。
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「皆、直ちに北条氏康の追撃に移れ。 長駆、敵の本領・小田原に向かって電撃的に軍勢を進めるのだ!」 ーーーこれは実に驚嘆する作戦だと言えた。
「桶狭間の合戦」や「厳島の合戦」など、たとえ大軍であっても敵の勢力下に軍を進めた場合、本陣が敵の少数精鋭の奇襲にあい、総崩れになった戦いの例は数多い。 景虎の方針は超・攻撃的であると同時に、一気に敗北する危うさをはらんでいた。
景虎があえて危うい行軍の指示をしたのは、野戦を避ける姿勢を見せた北条軍に対する挑発といった意味があったのだろうか。 あるいは自らが大軍ということで、仮に奇襲を受けても動じないという、威厳と余裕のある姿勢を見せつけたかったのか。 戦国時代・最高の戦術家と称えられる景虎の心中はわたしには計り知りえないが、こういった「大胆不敵な、敵中行軍の用兵」が景虎の凄みと言えた。
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☆『鬼武者ソウル』より、小田氏治
「うわぁ・・・なんちゅうダイレクトアタックだ!? @@;」
景虎の方針を聞いた小田氏治の率直な感想であるが、それももっともである。 「越後の衆は、北条軍の堅さ、粘り強さを知らないのか・・・?」 関東の武将たちは一様に顔を見合わせ、「どよ・・・」 とどよめき、困惑の色を隠さなかったのだった。
そこをすかさず、
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☆『信長の野望』シリーズより、鬼小島弥太郎
「大殿の下知は、すなわち軍神の下知じゃあ! みな臆するなぁ!」
☝・・・すかさず、陣中に怒号が鳴り響く。 ざわついていた武将たちはハッと我に返り、口々に「応!」と叫んで答える。 彼らの発声はいつしか「エイ、エイ、応」の鬨の声となって気炎を上げていた。
そう、彼らは武士/武人である。 ひとたび戦場に出れば大将の下知に従い、命をいったん捨ててひたすらに戦うことが本分だ。 味方でさえ驚くこの作戦は、敵方にとってどれほどの衝撃となるだろう? ・・・そう思うと、この作戦は悪くない、そう思えてくるのだった。
こうして、長尾ー上杉軍旗下の諸将は景虎の苛烈な作戦に震撼しつつも、持てる最大の機動力で小田原に向けて進撃したのである。
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☝・・・この時の景虎たちが小田原へと向かった進撃ルートは、ある記録によっておおよそ分かってきている。 その記録とは、「制札/禁制」の文書である。
なお「制札/禁制」とは、軍の大将が自分の将兵に対して、「この地区では、一切の乱暴狼藉はしてはならない」と命令したお触れ書きのことだ。
戦国時代の農村や寺社の中には、他国の兵士による略奪・放火などといった不法行為を未然に防ぐため、あえて敵軍の大将に金銭を支払ってそれを免れようとした所もあったようだ。 村々や寺社が支払った保障金は決して安いものではなかっただろうが、大勢の死者を出したり、建物がまるごと灰燼に帰すよりはなんぼかマシだと、断腸の思いで損切りをしたのだろう。 戦国の世とは、非戦闘員にとってはどこまでも過酷な時代だったと、改めて感じてしまいます・・・。
と、いうことで、景虎が発給した制札の文書が断片的に残されているのものを、現代の研究者たちが丁寧にまとめてくれたおかげで、景虎たちの取った進撃ルートがおおよそ分かるようになった、ということなのだ。
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☝・・・入間からは八王子へと軍は進んでいく。 深い森は避け、自然地形に沿って行軍していったのだろう。 森といえば、当時の関東平野は開発の遅れた後進地域だったので、一部の低湿地を除けば広葉樹の雑木林がやたらと広がっていたはずだ。
今日でも関東の一部地域には平地林が残っており、そこでは戦国時代当時の鬱蒼と広がる森の雰囲気をわずかながら味わうことができる。 しかし、その平地林もここ10年内に始まったソーラー発電の開発によって急速に失われつつあり、より貴重な存在となってきている。
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☝・・・八王子に到着した景虎の軍は、「八王子筋」を抜けて相模の国へと侵入し、厚木方面へと向かったようだ。
なお、八王子は北条方の城である「八王子城」が有名であるが、景虎の軍はその城をどのように対処したのだろうか? ・・・そう思ってみたものの、北条氏の八王子城は、永禄年間のこの頃にはまだ築城されていなかったようだ。 ちなみに、八王子城は北条氏照によって天正年間に完成したといわれている。
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☝・・・先ほどの地図から「八王子筋」付近をアップしたもの。 画面の下が武蔵の国であり、中央の森林帯を挟んで画面上が相模の国となっている。
興味深いことに、今日の航空写真においても、森林帯にはハッキリといくつか「筋」が見て取れる。 景虎の通った「筋」がどこなのかは定かではないが、中世の交通史的には、八王子筋とは重要な街道であったようだ。
この八王子筋を景虎の軍が通過する時、武田信玄もヒヤリとしたはずだったろう。 それもそのはず、八王子筋は相模、武蔵、そして甲斐の国の3国へと通じていたからだ。 しかし、そんな信玄の心配をよそに、景虎が向かったのはあくまでも北条氏の本国・相模であった。
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☝・・・相模の国に侵入し、厚木周辺の平野へと到達した景虎軍は、そろそろ北条軍との決戦があると想定して疑わなかったろう。 なんせここは、敵の本拠地の、海と山に囲まれた、敵中深すぎる平野のど真ん中である・・・!
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治
「うー! 景虎様のお下知は、とんでもなくハードだぁ。」
いつ奇襲とともに総攻撃があってもおかしくないこの状況は、並みの神経の者である一般将兵にとっては、とても平常心ではいられなかっただろう。 しかし、この軍を率いる大将は軍神の化身とも言われた長尾景虎である。 それだけが全軍の心の支えだった。
景虎軍の将兵の多くが北条の精鋭部隊の影にガクブルとしていた中、しかし実際に起きたのは、北条方の地方指揮官が独断で派遣した小隊との遭遇戦/小競り合いばかりで、北条が誇る精鋭の大軍はいっこうに姿を現さなかった。
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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した上杉謙信
「まさか!?・・・相模の獅子がここまで臆するとは、見下げたものだな!」
相模平野で斥候を放ち、小田原城の様子の報告を受けた景虎は、武蔵松山城に続いて調子を外された格好となった。ーーーそう、小田原城では敵の襲来に備えて、籠城の準備を着々と行っていることが報告されたのだ。
「まともな一戦も交えず、防衛ラインをあっさりと放棄するとは拍子抜けだな。 ・・・かかるうえは、小田原へ堂々と向かうぞ! 氏康の心胆を寒からしめん!」
景虎の気炎の下知が下り、反北条連合軍の行軍が再開される。 彼らはおおむね相模川に沿って河口まで進み、そこから海岸伝いに小田原方面へと進撃していく。 このようにして景虎軍は、戦国時代稀に見る、長距離からの敵・本拠地ダイレクトアタックを敢行することになったのだった。
「氏康め! 首を洗って待っていろ!」
越後の龍の鋭い牙が、相模の獅子ののど元へと食らいつかんとする、まさにその直前のことであった。
(つづく)
※この文章はブログ主の見解です。
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