2017年8月29日火曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(5)~


ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/08/ixa6364.html
キャラ絵小話!小田氏治さん編(4)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Murasama』より、小田氏治








(☆前回のあらすじ)



☝・・・『グーグルアース』より。(※長尾氏視点のため、南北を逆転して地図表示をしています)


永禄4年(1561年)2月、古利根川を境界線にして、長尾ー上杉方と北条の両陣営は対峙した。 長尾景虎は決戦を挑むべく、11万というかつてない大軍勢を率いて、北条氏康の本陣がある松山に向けて進撃していったのだった。 我らが小田氏治さんも長尾景虎の指揮下に入り、推定数千の兵を率い、その大軍勢の一翼を担っていたのだった。







そんな状況のなか、こちらはもう一方の大将・北条氏康である。





☝・・・怒涛の如く攻勢をかけてくる長尾ー上杉方に対して、北条氏康は後手を踏まざるを得なかった。 と、ゆうのはつい直近で、北条方から離反した下野の国・佐野氏の唐沢山城を懲罰・攻撃するために氏康は次男・氏照に軍勢を託して向かわせたのだったが、これが結果的には中途半端な作戦となり、さんざんに打ち破られてしまったからだ。 この時の長尾軍は韋駄天を彷彿とさせる機動力と、軍神・毘沙門天のごとくの強さを発揮したと伝わっている。


また、唐沢山城攻略の失敗に加え、北条軍を苦しめたのは「永禄の飢饉」である。 関東地方はこのころ飢饉に見舞われており、そのため北条方は充分な軍勢を手配できなかったともいわれている。 しかし、どの程度の飢饉だったのかは詳細な記録が残っておらず、よく分からないのが現状だ。







☆『戦国炎舞』より、北条氏康

「やむを得ない、撤退するぞ!」

☝・・・ともかく、北条方は前哨戦ともいえる加勢先で大敗したことと、飢饉による兵糧不足のために身動きがとれず、手詰まりの状況に陥ってしまっていた。 そんな厳しい状況下で、北条の総大将・氏康が全軍に出した指令は分かっている。 それは堅守防衛・・・すなわち、全支城の籠城だった。


このように北条氏康は全軍の方針を決定すると、松山を捨てて本拠地・小田原へと引き払った。 このことは、「戦場においては常に先陣で刀を振るい、敵に後ろを見せたことがなく、向こう傷ばかり」という猛将の氏康にとっては、なんともプライドを傷つける苦渋の撤退であった。 しかし、個人のプライドよりも全軍を優先し、臆病者の汚名をかぶってでも一時退却という手堅い判断を下したのは、さすが関東の覇者たらんとする氏康の器量だといえるね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国やらいでか』より、長尾景虎

「ここにきて決戦を避けるかっ!?」

☝・・・北条軍が決戦を避け小田原に撤退したことで、野戦で決戦をしようと意気込んでいた長尾景虎は調子を外されたかっこうとなった。 しかし景虎はすぐさま気を取り直し、松山城攻めに取り掛かる。 総大将・北条氏康が去った松山城は、気炎を上げる長尾ー上杉方の包囲攻撃を受け、あっけなく落城した。







☆『グーグルアース』より


☝・・・松山城を奪った翌朝・払暁ーーー。 日の出前に目を覚ました長尾景虎の眼前には、北条氏が支配する南関東平野がどこまでも広がっていた。 3月の上旬ということで冷え込みもまだきつい。 白い息を吐きながら、立ち昇る朝日に染められて、地上も空もオレンジ色となった景色を景虎は目を細めて眺めていた。


南関東の要地には北条方の支城がそれぞれ配置され、本領・小田原を守っている。 それはまさしく十重二十重とめぐらされた防御線であり、その重厚な守りの最奥に小田原城は鎮座しているように思えた。


「この先、どう北条と戦っていったらいいものかーーー。」


景虎は護摩を焚き、毘沙門天に祈りを捧げながら瞑目、数珠をつまぐりながら黙考する。 祈りが終わり、景虎がおもむろに眼を開いたときには、すでに日は勢いよく昇りだしていた。 景虎は諸将を集め、その方針を告げる。


「皆、直ちに北条氏康の追撃に移れ。 長駆、小田原に向けて電撃的に軍勢を進めるのだ!」 ーーーこれは実に驚嘆する作戦だと言えた。


「桶狭間の合戦」や「厳島の合戦」など、たとえ大軍であっても敵の勢力下に軍を進めた場合、本陣が敵の少数精鋭の奇襲にあい、総崩れになった戦いの例は数多い。 景虎の方針は超・攻撃的であると同時に、一気に敗北する危うさをはらんでいた。


景虎があえて危うい行軍の指示をしたのは、守りに徹する姿勢を見せた、北条軍に対する挑発といった意味があったのだろうか。 あるいは自らが大軍ということで、仮に奇襲を受けても動じないという、威厳と余裕のある姿勢を見せつけたかったのか。 戦国時代・最高の戦術家と称えられる景虎の心中はわたしには計り知りえないが、こういった「大胆不敵な、敵中行軍の用兵」が景虎の凄みと言えた。


こうして、長尾ー上杉軍旗下の諸将は景虎の苛烈な作戦に震撼しつつ、持てる最大の機動力で小田原に向けて進軍した。 この行軍には多くの隙があったと思われるが、北条軍はそれを誘いと見なして堅守に徹したため、けっきょく両軍は野戦での決戦に至ることはなかった。







☆『グーグルマップ』より、現在の小田原周辺


☝・・・小田原城ーーー。 日本各地に難攻不落と銘打った城は数多くあるけれども、戦国時代において小田原城ほどその名の知られた堅城は他にはなく、その代表であると言えるでしょう。


戦国期の小田原城は町一つをぐるりと土塁で囲って守った「総構え」の城で、非常に広い城域を持った城だということが伝わっている。 そして「総構えの土塁」というのは、ただ土を盛って塀を建てていただけではなく、「矢倉」や「格子堀」といった、寄せ手にとって非常にやっかいな防御施設がいくつも組み合わされて展開されていた。


掲示した画像のほぼ中央に小田原城の本丸があり、その前後を中小の河川が挟んで流れているのが分かるでしょうか? 「総構え」の土塁は、その二つの河川の間の地域を囲って小田原城を守っていたという。







☆『戦国サーガ』より、長尾景虎

「懸かり乱れ龍の旗、立てい! 攻撃態勢に移れ!」

☝・・・11万余という大軍勢を率いた長尾景虎は、諸将を振り分けて小田原城を包囲させ、攻撃の下知を下した。 それを受けて、あちこちで兵たちの戦いが始まっていく。 鳴り響く太鼓に半鐘、上がる鬨の声。


景虎は必勝の思いでこの攻城戦に臨んだはずだ。 しかしこの戦いは逆に小田原城の堅牢さを世に知らしめる結果となっていく。


圧倒的に有利な状況下で小田原城を攻めた長尾ー上杉軍であったが、その城攻めが始まるや否や、厭戦気分がその軍には漂い始めていたのだ。







(イメージ)


「おい・・・ちょっと小耳に挟んだんだけどよ、長尾の殿様は戦いに勝っても褒美を与えるってことをしないんだって?」

「ええ!? そんなはずがないだろう?」

「いや、越後の衆らがボヤいていたよ。 本領の安堵状は出してくれるらしいが・・・」

「マジかい!? そんなら本腰入れて戦う必要あんめえ! 死に損、傷負い損などまっぴらごめんだぜ!」

「ここだけの話よ、雪国の連中は人使いが荒くてかなわねえな!」

「まったくだよ! 松山から小田原まで、休みなくイッキに戦いながら進んでいくだなんて、正気の沙汰じゃねえよな・・・。 本気で戦うのは越後の衆らがすればいいんだ」

「んだんだ!」

「兵糧の配分も少ないしなぁ。 オイ、このあと近くの村へ乱捕り(略奪)に行くつもりなんだけどよ、お前もいっしょに来ないか?」

「ああ、ぜひ一緒にさせてくれ・・・と言いたいところだけどよ、ここ周辺の村の連中はほどんど、あの城(小田原城)の中に家財ともども逃げ込んだっていう話じゃねえか。 無駄足だよ」

「なんだって!? ・・・ますますやってらんねえな!」

「なぁ、おれたち、ひょっとしてとんでもねえ殿様に味方しちまってるんじゃ・・・」


☝・・・関東兵たちの間に、実際どのような会話があったのかは定かではないが、要するに、こんな感じで厭戦気分は広がっていったようだ。









☝・・・実は先ほどの兵たちの会話、北条氏康が忍者の風魔党に命じた「流言飛語の計略」がその発端であったが、これにはかなりの部分で真実が含まれていて、景虎にとっては〝痛いところを突かれた”結果になった。


こうして、「義の人」と呼ばれ戦術の天才と言われた長尾景虎も、他郷の下々の兵までその人心を掌握することはできず、兵のボヤキはやがて将の身分の者たちの不満となって渦巻いていくのだった。







☆『戦国やらいでか』より、姫化した北条氏康

「〝義の人”の長尾景虎が、実はドケチだったってゆうのが傑作だわな!w」

☝・・・さすがは関東の覇者たらんとする北条氏康である。 ただ無為無策に撤退・籠城をしていたのではなく、計略を仕掛け、長尾ー上杉軍の結束を乱し、戦意を削ぐことに意を注いでいたのだった。


その他にも氏康は、外交交渉による援軍要請を水面下で行うなど、大軍勢である長尾ー上杉軍に勝つための布石を一打づつ、着実に打ち重ねていく。










☝・・・この時の北条氏の大ピンチにうまく機能したのが「甲駿相、三国同盟」である。 北条氏は持てる外交力のすべてを絞り出して、盟友である今川、武田氏と交渉を行い、後詰(援軍)と側面支援となる軍事行動の約束を取り付けたのだった。


まず今川氏であるけれども、今川家はつい先年、「桶狭間の戦い」で当主・今川義元が討たれる大敗北を喫し、家中が大揺れしているとゆうさなかであったものの、キチンと援軍を組織して後詰の部隊を派遣した。 今川氏真という人物は、意外とこんにち世間で思われているほどのバカ殿ではなかったようだね。


もう一方の武田氏であるが、機略に富んだ武田信玄は、このとき「心得た!」と言わんばかりに信濃の国・川中島方面へ出兵し、手薄になっていた長尾氏の属城を攻め落とす。 さらには国衆の調略や新たな砦(のちの海津城となる)の建設など、長尾氏が嫌うあらゆることを北信濃で行い、横やりを入れたのだった。


これら武田の一連の嫌がらせは的確で、これによって長尾景虎は心底はらわたを煮え返したらしく、このことはやがて訪れる同年8月の、「川中島、ガチの戦い」へと繋がっていくが、これはまた別のお話・・・。


ともあれ、このとき自ら大軍の矢面に立たず、北条氏にも恩を売って有利に戦略を進める信玄は、さすがは戦国時代最高ランクの謀将といったところだろう。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した北条氏康


☝・・・外交によって武田が動き、北信濃の長尾の勢力に揺さぶりをかけることができた時点で北条氏康は確かに感じただろう、「これで流れが変わった」と。 北信濃へ揺さぶりをかけるということは、長尾氏の本拠地・上越地方の春日山城が揺れることとほぼ同じ意味を持っていた。


とはいえ、小田原城の目の前に陣取る長尾景虎には、いまのところ動揺するそぶりはまるで見せていない。 小田原城の合戦は、ここにきてある種チキンレースの様相を呈し始めてきた。


北条氏の小田原城が落ちるのが先か、それとも北信濃の状況悪化に我慢ができなくなった長尾氏が撤退するのが先か。 北条氏 VS 長尾ー上杉方の戦いの行方は、いまだ決せず揺らいでいたのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


そんな、両雄にわかに緊迫した状況において・・・


☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治

「う~ん。 いまいち戦いが盛り上がってこないけど、それも仕方ないね! @@;」


☝・・・蛇足気味ですが、ここでようやく小田氏治さんのご登場w


このとき、氏治も小田原城の攻城戦に参加し、どこかしらの場所で戦っていたものと思われる。 しかし、これといったエピソードといったものも残っていないことから、長尾ー上杉軍に蔓延していた厭戦気分のあおりを受け、本腰を入れず、惰性で戦っていたのでしょう。


「疲れたから、家に帰って寝たい・・・」 (-_-)


疲労すると、とたんにテンションダウンする氏治であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)




※この文章はブログ主の見解です。






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