2017年8月4日金曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(4)~


ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa6364.html
キャラ絵小話!小田氏治さん編(3)







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☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。 今回は「結城晴朝、代替わりの合戦」以降の小田氏治さんの事績を追っていきましょう!









☝・・・永禄2年(1559年)9月、小田氏治は佐竹氏らと連合して代替わりしたばかりの結城氏を攻めたが、あべこべなことに自分たちの領地を奪われてしまったーーーこれが「結城晴朝、代替わりの合戦」での小田氏治さんです。


なお、このときに奪われた小田方の城は、信頼できる資料によれば「海老ケ島」と「北条」の2城だけで、この時に小田城が落とされたという説はどうやら信ぴょう性が薄いようだ。 なので、当ブログではこの時の戦いでは小田城は落ちなかったものとして話を進めていきたい。







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☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・と、ゆうことで、「結城晴朝、代替わりの合戦」で小田氏治はあべこべに「海老ケ島」、「北条」の2城を奪われてしまっていた。


その戦いがあったのは永禄2年(1559年)だったが、その翌年の永禄3年は関東地方にとって重大な出来事がいくつも起こった。




☝・・・その一つが「桶狭間の合戦」である。 その年の6月、小勢の織田信長が大軍である今川義元を急襲してその首を取ったという、破格の戦功をあげた戦いであった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、甲駿相三国同盟に関連して


☝・・・桶狭間の合戦は東海地方の出来事なので、関東の情勢に直接的な影響は無かったとも言える。 しかし、義元の死によって「甲・駿・相、三国同盟」が根本的に揺らぎだし、やがて関東に強い影響力を持っていた大名・北条氏康、そして武田信玄といった謀君たちの戦略を大幅修正させることになり、結果、桶狭間の合戦は関東に大きな影響を及ぼしたといえる。







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☝・・・そしてもう一つ、関東にとってもっとも重大な出来事とは、「長尾景虎の越山、関東出兵」であった。




☝・・・こちらは山内上杉憲政。 長尾景虎の関東出兵のいきさつを改めて語る必要はないかもしれませんが、関東出兵はこの人物のかねてからの要請によって行われた。


憲政は関東管領職に就き上野の国をその領国としていたが、北条氏によるたびたびの攻撃に圧迫され、やがて上野の国に居られなくなり、様々な紆余曲折を経て越後の国・長尾景虎の下へ逃れていた。


憲政は長尾家に関東管領家の名跡・家職を譲るかわりに、景虎に関東出兵をしてもらい北条氏を討伐、あわよくば旧領を回復したいという、ある種ダメ元のような思いがあった。 一方の長尾氏といえば、「義のためならば出兵も厭わない」と表向きは宣伝していたが、現実的なことをいえば、関東管領・上杉家の名跡を継ぐことで権威を手に入れ、それをもって反乱の多い本拠地・越後の国を鎮め治めたいといった政治的な思惑があった。 とゆうことで、この両者の思惑が一致したことで景虎の関東出兵は実現したのだのだった。









☝・・・『グーグルアース』より。 (☆長尾氏視点のため、南北を逆転して地図表示をしています。) 永禄3年(1560年)8月、安房の国・里見氏からの救援要請をうけたことをきっかけに、長尾景虎はおよそ8000超の将兵を率いて春日山を出発、関東へ向けて行軍を開始した。 景虎はこのとき関東管領を正式に就任していなかったが、関東管領の名代(あるいは事実上の関東管領)として初めての軍事行動だった。 景虎はやがて三国峠を越えて上野の国に侵入すると、沼田、厩橋(読み:まやばし)などといった北条氏の支城を次々と破竹の勢いで陥落させていく。




☝・・・やがて厩橋を上野の国の本拠地と定めた景虎は、そこで軍をゆるりと休ませる。 そして自分たちの味方になるように、関東の諸大名に向けて檄文を飛ばしたのだった。







☆『信長の野望』シリーズより、長尾景虎


☝・・・「関東の地は室町開府以来、関東の公方様とそれを補佐する管領によってその秩序は保たれてきた。 しかし今日、公方様や管領殿に楯突く不届き者がこの地にはのさばっており、公方様たちの心を煩わせていることこの上ないので、わたしは義のため、これを討伐することを宣言する!」


・・・下剋上のお手本ともいえる長尾為景の子がそれを言うか!? と、檄文を読んで噴飯した武将もなかにはいたかもしれないが、いたって景虎は大まじめだった。 ともあれこの檄文によって、北条氏により圧迫を受けていた武家の多くが喝采を上げ、長尾ー上杉の旗下に馳せ参ずることになる。 それは確かな、反北条の一大ムーブメントであった。







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☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治


☝・・・ここでようやく氏治さんご登場。w この頃、周囲の様々な合戦で負け続けて、なんとなく「何をやらせてもダメな子」の雰囲気を醸し出し始めていた小田氏治だったが、景虎からはハブられることもなく、その使者と書状は氏治の所にもきちんと到着した。


「こりゃあもう、参加するしか手は無いでしょー!」


軍事行動においてもやたらと突出したがる氏治である。関東の地を沸かすような、こういったある種お祭り騒ぎのような雰囲気にはめっぽう目がなかった。 と、ゆうことで氏治は重臣らと碌な打ち合わせもせずに長尾ー上杉方として反北条の戦陣に参加することを決断したのだった。 すなわち、長尾ー上杉旗下・小田軍の誕生である。 氏治26歳のときであった。







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☆『千万の覇者』より、長尾景虎


☝・・・年が明けた永禄4年(1561年)正月、上野の国・厩橋城で(名目上の)主家・上杉憲政と共にいた長尾景虎の下には、関東各地からぞくぞくと将兵が集ってきていた。 はっきりとした数字は諸説ありわからないが、この時点では主に上野・武蔵といった山内・扇ケ谷上杉の旧臣たちの支持を受け、景虎の軍は数万規模のものとなっていた。


軍勢が十分に集まったことで、景虎は諸将を数軍に振り分け、多方面にわたって軍事行動をすることができたようだ。










☝・・・『グーグルアース』より。 北条氏に抑圧されていた上野・北武蔵の国衆らの支持を受け、まず長尾景虎の矛先が向かったのは、北条氏と一体化していた関東公方・足利義氏だった。







☆『鬼武者ソウル』より、足利義氏(この人物は北条方)


☝・・・かつては下総の国・葛西を御座所にして「葛西様」と呼ばれた公方義氏だったが、このころは関宿へ御座所を移していたらしい。 義氏は北関東の諸将に向け、敵方に走らず自分に味方して欲しいと書状を書き送ったが、これはほとんど黙殺されてしまった。 やがて義氏は自分が孤立しているのを悟ると、軍神の化身とも称される景虎の大軍に怯え、情けないことに早々に館から逃亡してしまっていた。


足利義氏がその領国から逃亡したため、長尾ー上杉方はかつての関東公方の御座所・古河を易々と占拠した。 公方家の重臣・簗田氏が反北条の立場にあり、手引きをしたためとも思われる。 そして古河を手に入れた長尾ー上杉方は、足利藤氏(ふじうじ)兄弟を御座所に奉った。 長尾ー上杉方、反北条派からすれば、義氏は北条氏が擁立した非正統の傀儡公方であり、正統と大義名分は藤氏にあるという立場だった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、足利藤氏(この人物は長尾ー上杉方)


☝・・・足利藤氏と義氏のことは、このシリーズの第一回にて触れているので、それをお読みになった方なら古河公方家の複雑な事情について知っているはずだ。 ともあれ、長い間忍従を強いられていた藤氏は、ここで長尾ー上杉方に担がれることでようやく日の目を浴びることとなったのだった。







脱線ですが、戦国時代とは従来の権威が地に落ちて、下剋上ーーー実力がものを言う社会になったと今日では言われている。 しかし、(地域によって程度差はあるけれども、)実際には相変わらず権威が重んじられていたことがいくつかの資料では見て取れ、決して権威が無力になった訳でないことは多くの研究者も認めていることである。


関東・・・いや、東国と言った方が適当だろうか? その地域は戦国時代においてずいぶんと保守的であったようだ。 長尾景虎が反北条の将兵を集め、まず行ったのが伝統的権威の代表・関東公方家の故地、古河の解放であったとゆうことの持つ意味は大きいだろう。







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☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治


「勝ち馬にのりのりー! 旧領回復じゃあ! (^ω^)b」


☝・・・さて、われらが氏治さんですが、彼もこの時のムーブメントで軍勢を率いて参加したとはっきり記録に残っているので、どこかしらの場所で戦ったはずだと思われる。 しかし、このときの詳しい資料は見当たらず、氏治が具体的にどのような行動をしたのかはよく分からない。


とはいえ、長尾景虎の関東出兵のタイミングで小田氏は失われた旧領を回復したと言われているから、その線で考えるとおそらくは結城周辺で戦っていたのではないだろうか。 結城氏は北条氏の盟友とゆうことで、長尾ー上杉方に抵抗をしていたのだった。


圧倒的な軍勢の差から、結城氏はほどなくして長尾ー上杉方に降伏することになるが、氏治はこの時勢に便乗する形で領地を結城氏から取り戻すことに成功する。 その後氏治は武蔵の国に向かっていた長尾本隊に合流、景虎の指揮下に入ったのだった。




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☆『戦国サーガ』より、上杉謙信



☝・・・さて、古河を解放した長尾ー上杉方は、やがて利根川以北の北関東から北条に加担する勢力を掃討、その地盤を固めると、つづいては武蔵の国・松山に攻め入ることに決めた。 松山には北条方の総大将・氏康がそこにはいて、北条方全軍の指揮を取っていた。 われらが小田氏治さんも、この前後に景虎の下に合流したものと思われる。


☆『グーグルアース』より、武蔵国における北条方の主な支城


☝・・・この松山攻めの直前で、長尾ー上杉方の軍勢は、この時代・この地域としては前代未聞の数となっていた。 その人数は(一説に)11万余りとゆう大軍勢だ。 これは、関東公方とのゆかりの深い古河が解放され、そこへ反北条の公方・藤氏が奉じたてまつられたということで、保守的な東国の武士たちにポジティブな影響を与えたからだといえるだろう。 このとき上野・北武蔵に加え、関東中部以北の大名たちのほとんどが長尾ー上杉方の味方をし、その勢いは天をも突くかのごとくだった。


長尾景虎は大軍勢を率い、敵の総大将・北条氏康の居る松山に向け、決戦を挑むべくその歩みを進めていく。 勝つのは景虎か、それとも氏康か。 関東の地ではかつてない戦いが始まろうとしていた。







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小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)




※この文章はブログ主の見解です。




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2 件のコメント:

  1. こんばんは。昨今歴女やら刀剣ほにゃらら等で戦国時代や日本史が
    結構脚光を浴びていますが、学生時代選択で回避した私には初耳の
    人名の方が多いレベルです。ここまで掘り下げると大学で専攻でも
    しなきゃ無理って印象ですね。常識や価値観が違う時代で相応の
    名を遺した人の人生が下手な創作より興味深いのは考えてみれば
    当たり前のような気もしますがw

    一方ixaは城主Lvも上げていないのにご推挙頂いたさこの方は
    既に所持していたので於大の方(カワイイ)を購入してホクホクです^^;

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  2. またあるたます日までさん、こんにちは!


    おお、於大の方さんゲットですか!? おめですー。^^ キャラ絵もいいですし、何よりも条件を満たせば100%発動のスキルはいいですよねぇ。 わたしも入手したいのだけれど、今のところ高嶺の花なのです・・・! @@

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