2019年6月15日土曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(9)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(8)




☝・・・キャラ絵小話・蘆名家&れんみつ姫編、今回は第9回目! ということで、今回も元気よく行ってみよう。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏と佐竹義重


☝・・・元亀2年(1571)の夏より始まった蘆名ー佐竹間の白河戦役は、相撲でいうと「がっぷり四つの組み合い」で、一進一退の取り組みが続いていた。







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☆『信長の野望』シリーズより、北条氏康


☝・・・そんなところ、東国全体の戦局はどうかというと、関東の雄・北条氏康が元亀2年(1571)の10月に亡くなっていた。


このたび亡くなった氏康であるが、数年間にわたって続いていた北条ー武田の戦いについて、かねてより忸怩たる思いを抱いていた。 というのは、この戦いは氏康私人の感情によりはじめられたものであって、公人としては得策でないことを十分に理解していたからだ。


つまり彼らの戦いとは、損得を抜きにした感情的なものから行われていたという事実だ。 そのためか、氏康は自らが亡くなった後は、北条ー武田間の同盟を復活させるようにといった遺言を残していた。


それを受けて、跡を継いだ北条氏政は、「越相同盟」を破棄して「甲相同盟」を復活させるなど、東国の戦国大名の同盟関係が「元の鞘に収まる」的な流れとなった。 まったく、せわしいことこの上ないが、個人の感情を表に現して軍事・政治を行うという事は、良くも悪くも、いっぱしの戦国大名らしい生き方だったと言えるだろう。 そんな一個の英雄・氏康の死であった。


このように、氏康の死によって東国では情勢の変化が起こっていた。 当然この出来事は、同じ関東在住の佐竹氏に多大な影響を及ぼすのである。







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話を南奥(読み:なんおう、いまの福島県地域)に戻そう。


蘆名ー佐竹の白河戦役は、蘆名方は①蘆名 ②白川結城 ③田村 の3氏を中核として、そのほかに下野の国・那須氏や仙道の武家諸氏が蘆名方の味方となっていた。 領土拡張主義の佐竹氏に共同して対抗するためだ。


しかし、天正年間あたりに入ったころには、那須氏が佐竹方へと寝返り、さらに田村氏も時には佐竹氏に協力する場面があるなど、蘆名の味方から中立へとその立場を変えていった模様だ。







☆『戦国プロヴィデンス』より、姫化した田村清顕


☝・・・先ほど名前が出た田村氏とは、陸奥の国・田村郡を本拠としていた中小の大名だ。 そんな同氏は、蘆名ー佐竹の白河戦役が行われていた元亀・天正年間あたりから、その活動が一段と活発となってゆく。


その活動の活発さは、やがて蘆名家からの自立・離反のための活動へと繋がり、やがて当主・清顕(きよあき)の娘が伊達氏に嫁ぐことになる・・・。 そう、それはのちの伊達政宗と愛姫(めごひめ)の婚儀へと、その流れは続いていくのだ。 







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このように、この戦い・・・蘆名ー佐竹の白河戦役は、がっぷり四つの互角であったところを、佐竹方が政略・謀略の力で徐々に優勢へと変わっていったようだ。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した蘆名盛氏


☝・・・そんななか、天正2年(1574)の一局面で、蘆名盛氏は佐竹義重の裏をかいて快勝し、その喜びを手紙にしたためたことは前回お話しした通りだ。


「・・・南郷在中に一戦を遂げ、500人余りを討ち取った。 このような武名を上げた結果に、この老体(盛氏のこと)は大変満足している。 特に、両日における揺さぶりの軍略はお見せしたいほどであった。 陽動ほど面白いことはない。 あいにく自分は本陣から出撃することなく、座敷から眺めるだけの戦いであって、そして勝ち戦であったが、この合戦はわたしの一生ものの勝利の出来事であった。 岩崎城(盛氏の隠居城)に早々と帰還できたことも願ってもないことである。・・・」


・・・その読み下し文をわたし流に現代語にしてみましたが、おおよそこのような意味になるだろうか? 得意満面の盛氏の書状であった。


しかし、盛氏が先ほどの書状をしたためた天正2年(1574)中に、蘆名方からすればとんでもない出来事が発生することになる。 それが、白川結城家の内部分裂・争乱だ。







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☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・どうも、この頃の白川結城氏の事跡は史料が散逸してしまったためか、分かっていないことがかなり多い。


蘆名ー佐竹の白河戦役が行われていた真っ最中の天正2年(1574)のころ、白川結城氏で内紛が発生したようで、白川結城家は ①小峰隆綱(のちに改名して義親。 蘆名盛氏の娘婿)と、 ②白川常広(別名義顕として知られる。 先代・白川晴綱の嫡子と思われる、ごく若い当主) の2派に分裂して争いがあったようなのだ。


「えぇ、このタイミングで内ゲバ!?」 と思うけれども、この事件はおそらく佐竹義重が関与している。 そもそも、白川結城家は永正年間・・・戦国時代初期のころからすでに分裂をしていて、それが50年以上たった当時も尾を引いていたみたいなのだ。 そこを義重が謀略として分断工作を仕掛けてきたのだろう。







☆『千万の覇者』より、和田昭為


☝・・・なお、このときの白川結城氏の内ゲバ事件に関連して知られているのが、和田昭為の返り忠」のエピソードで、佐竹氏のファンにはよく知られた逸話のようだ。


まず、和田昭為とは佐竹義重の家老を務めていた人物である。 その昭為は先だって、同僚からの讒言にあい、義重の怒りを買って佐竹家中から出奔するという事件を起こしていた。 昭為が出奔することになったそのいきさつを、4行でご説明しよう。


1.和田昭為は主君・義重の命を受けて奥羽方面の調略をいくつか担当していた
2.調略をした際、昭為は相手から進物を貰うという事があった
3.「そりゃあワイロだ!」と仲の悪い同僚・車斯忠に見つかってそのことを義重に讒言される
4.義重、激おこ。 昭為は国を出奔、その際に3人の子をはじめ、一族は誅殺された







☆『信長の野望』シリーズより、サイバー化した佐竹義重


☝・・・このようないきさつで和田昭為は佐竹義重の怒りを買い、かけがえのない子や家族・郎党たちを殺されて落ち延びるような出奔をした。 そんな彼はまず会津の蘆名盛氏の許を頼っている。 しかし、盛氏は昭為の仕官をにべもなく断った。 盛氏はこの人物に、何かきな臭いものを嗅ぎ取ったのだろう。


そんな「訳アリの出奔者」を受け入れてくれたのが、白川結城家の事実上の当主・隆綱(のちの義親)だった。 こうして昭為は隆綱の世話になっていたのだが、ほどなくして、先に触れた白川結城氏の内紛が発生するという事態に遭遇する。 おまけに、その騒動に乗じて佐竹氏の軍隊が白川領に攻め入った。 白川家中は三者入り乱れての大混乱である。


そんな白川家中が混乱するなか、昭為はおもむろに一通の手紙をしたためる。 その宛先は佐竹義久で、のちに当主・義重の右腕となり、南奥方面の大将として活躍することになる佐竹家中の大物だ。 ただし、このときの義久はまだ若輩であった。


昭為の手紙の文面には、佐竹家中に帰参したいという願いと共に、「手土産」としてある計略が添えられていた・・・。







☆『戦国サーガ』より、姫化した佐竹義久


☝・・・手紙を受け取った佐竹義久はこのことを主君・義重に伝え、了承されると、いくつかの打ち合わせの後にその策は実行された。


まず和田昭為は、自分の子供と一族を殺された恨みを晴らしたいと主人・小峰隆綱(のちの義親)に訴え、先鋒を買って出陣した。 そして佐竹勢を蹴散らすという活躍をして、隆綱の信頼を得ることに成功する。 ・・・だが、このときの昭為の活躍は、かねてからの打ち合わせによる出来レースであった。


こうして気を良くした主人・隆綱は自らも兵を率いて追撃に移る。 が、しかし。 逃げ散っていたはずの佐竹軍は集合・転進し、あっという間に白川勢を取り囲んだ。 混乱に陥る白川軍。 そのとき、昭為は隙を見て大将・隆綱に飛びかかり、組み伏せ、ついには彼を生け捕りにしたのである。







☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・こうして、蘆名盛氏の娘婿・小峰隆綱(のちの義親)は佐竹氏の虜囚と相成った。


和田昭為は隆綱を捕らえた手柄をもって、過去の行為は不問とされて、数年ぶりに佐竹家中に帰参することができた。 哀れなのは裏切られた隆綱である。 出奔した流浪の武将を温情で家臣にしたところ、とんでもない仕打ちを返されるとは・・・。


こうした一連の挿話が「和田昭為の返り忠」であり、昭為は佐竹家歴代の家臣のなかでも屈指の忠臣として、長く佐竹家中で美談として語られたという。







☆グーグル検索より


☝・・・えぇ、この話のどこが美談、いい話なの!? @@; と思ったのは私だけではないだろう。


しかし、佐竹氏的にはこれが破格の美談ということらしい。 少なくとも佐竹氏関連のいくつかの郷土本では、大まじめにそういった解釈がなされている。 なので、いろいろモヤモヤとするものはありますが、いちおう美談ということにしておこう。


以前このシリーズで、「女性と政略結婚」について触れた際に、現代と当時とでは価値観があまりにも違い過ぎて、それが原因で私たちはいらぬ感傷を受けてしまっている・・・ということを述べましたが、この「和田昭為の返り忠」も同様なのだろう。







☆『戦国サーガ』より、姫化した明智光秀



☝・・・「仏の嘘は方便、武士の嘘は武略」


「和田昭為の返り忠」の逸話を読んで、わたしが思い出したのがこのフレーズだ。 これは裏切りの代名詞とも言える明智光秀が残した有名な警句である。 このように、戦国時代にあっては裏切る/裏切られるということは身近なことであって、お互いさまだという、非常にドライで諦めに近い社会的な認識があった。


ただ、明智光秀は「主殺し」の非を責められて討伐されている一方で、和田昭為のケースは美談だと言われている。 わたしにはあまりピンときませんが、家族を殺されてもなお、元々の主人・佐竹義重のために奉公したことが「忠」であり、それが美談、美しいことだというのだろうか。


「和田昭為の返り忠が美談だ」というのはどうも、江戸時代の儒教的価値観で語られているような感じもしますし、戦国時代当時の評価はまた違ったものだったかもしれませんね。







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和田昭為の話はさておき、蘆名盛氏はというと・・・


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「なんだって!? 白川の婿どのが捕らえられ、白川は佐竹に降伏した・・・だと・・・?」


蘆名盛氏がそのことを知ったのは、すでに白川結城氏が佐竹氏の軍門に下った後であり、盛氏が手を施そうにも、すべては後の祭りであった。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・こうして、白川領は佐竹氏に併呑されることとなり、蘆名-佐竹の白河戦役は一つの節目を迎えた。 南奥における佐竹氏の支配域は、先だっての岩城領につづいて白川領で二つ目だ。 しかも、白川領は佐竹氏が軍略、政略、謀略を駆使して蘆名方から実力でもぎ取ったといった印象が強い。


このことによって、蘆名盛氏の威信は傷がつき、それは仙道の石川氏にも影響を及ぼして、彼らはほぼ佐竹氏の味方へと寝返ってしまった。 このように、元亀・天正の白河戦役は、蘆名方の完全な敗北に終わったのである。 盛氏が家督を継いで以来、初めて味わう大きな敗北であった。


盛氏 「むぅ・・・佐竹の若造と侮っていたが、小癪にも手ごわい相手だ・・・」







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☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・なお、この戦役で捕らえられた盛氏の娘婿・小峰隆綱(のちの義親)は太田に移送されたのち、意外なことに佐竹氏からは厚遇を受けて、やがて彼は篭絡されることになる。


すなわち、隆綱は他領で抑留中の身の上でありながら、佐竹義重の養女を新たな妻として迎え入れて、そのうえで諱(いみな)を義親と改めたのだ。 義親の「義」は義重の名からの一字拝領である。 こういった一連の行為は「蘆名方から佐竹方へと転向しましたよ」という強烈なメッセージであった。


なお、隆綱改め義親が、元々の妻であった盛氏娘とはその後どうなったのかは、手元の資料に見当たらずまったく分からない。 しばらくは重婚の状態だったと思われるが、どちらが正室の立場となったのか、最終的に離別したのかどうかなどといったことも不明だ。


さらに数年後、小峰義親は佐竹義重の次男・喝食丸(かつじきまる)を白川結城氏の養嗣子として受け入れることを了承し、そして自らは入道出家して不説斎(ふせつさい)と号した。 不説斎・・・不説とは、「何も言えませんし、言いたくもありません」といったところであろうか。 もし、「不説」の二文字に深い含蓄があったとしても、まず目に飛び込んでくるのは「何も言えねぇ・・・(超訳)」というメッセージだ。


この、あまりにも人をバカにしたような義親の斎号に、結果として、盛氏は自らの見る目が無かったことを痛感、深い後悔をした。 大切な娘を嫁がせた相手が、このような義をないがしろにするような人物であったということに・・・。







とはいえ、「盗人にも三分の理」というように、義親にも言い分はある。 そもそも彼は和田昭為の返り忠、裏切りによって生け捕られ、そこで大名の身分を失ったといういきさつがあったではないか。 おそらく、その時点で義親の心の芯は折れてしまったのだろう。 それ以来、彼は生ける屍、意思を持たない傀儡となり果てた。


いまは戦国時代のたけなわ、天正年間である。 たとえ蔑まれようとも、生き延びるためには離反も厭わない。 そもそも、中小の勢力はより強い勢力に従うほかは、滅亡しか道は無いではないか。 ・・・そのような武将たちが織りなす、戦国奥羽の一場面であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と!いうことで、長くなってきたので今回はこの辺りでお開き。 次回からは徐々に退潮を始める蘆名家の家運と、晩年の蘆名盛氏について追っていければ、と思っています。


次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年6月12日水曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(8)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_7.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(7)




☝・・・キャラ絵小話!蘆名家&れんみつ姫編、今回は8回目ということで、元亀年間からの蘆名家について追っていこう。







☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・元号が永禄から元亀へと改正された頃のこと。 会津の領主・蘆名盛氏は止々斎(ししさい)と号して隠居の身の上であったものの、仙道(いまの福島県中通り地域)の統治に追われていた。


それというのは、仙道には中小の大名がひしめき、彼らの間でこまごまとしたいざこざが絶えなかったためだ。 盛氏はその地域のドン、盟主として軍事・政治の介入を行っていた。


そんなところ、南方で戦雲が湧き立ち、やがてそれが南奥に向かってやってくることになる。







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☆『戦国大戦』シリーズより、佐竹義重


☝・・・その南方で湧き立った戦雲とは、常陸の国・太田の佐竹義重と彼が率いる北関東衆である。


このころの佐竹義重は、岩城氏の当主・親隆が「狂乱の病」であるとして彼を隔離・幽閉し、その妻・桂樹院を当主の代理人に立てていた。 親隆妻の桂樹院とは義重の妹のことである。 つまり、義重は自分の妹を通じて岩城家中の軍事・政治を思い通りに動かし、岩城家を自らの洞(うつろ)と仕立てていたのだ。


これにより、面積として佐竹本領に匹敵する広大な岩城領が、政略によって無駄な血を流すことなく義重の掌中に転がり込んできたのである。 そのうえ、岩城領は南奥経略における重要な意味を持っていた。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図








☆『グーグルアース』より


☝・・・それが、岩城領から仙道へと続く新たなる回廊/街道である。 かつて佐竹氏にとって、仙道に続く街道とは本拠地・太田から北に延びる谷地のみが唯一のものであったが、ここに岩城領を併呑したことによって、新たなルートがもう一つ選択肢として浮上したのだ。


佐竹氏はこの岩城ー仙道間の回廊周辺の国人・地侍といった武家の調略を推し進めた。 佐竹の味方として寝返るように、といった誘いだ。 その結果、佐竹氏に靡き、恭順の意を示す武家が次々と現れ出すことになる。


本来、その地は蘆名盛氏がドンとして睨みをきかせる勢力圏内である。 しかし、いまやそれが佐竹氏によってパワーバランスが崩され、ドミノが倒れるがごとく次々と連鎖をしはじめたのだった。


これ以上、佐竹氏の好き放題にさせてはいけない・・・。 佐竹氏の動向に気づいた蘆名盛氏は軍備を整えさせ、こうして蘆名・白川・田村の三氏を中核とした連合軍が編成されて、対佐竹氏との戦い・・・元亀・天正の白河戦役が勃発したのである。







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☆『戦国ixa』より、彦姫


彦姫「盛興さま、ご武運のあらんことを・・・どうか勝って無事にお帰りくださいませ 」







☆『グーグルアース』より



☝・・・こうして元亀2年(1571)の夏、蘆名・佐竹の両軍は南郷(白川領南部)で激突することになる。 このとき、蘆名の本陣は長沼に、対する佐竹の本陣は寺山に構えられて両軍はまず睨み合った。


主戦場となったのが白川領の赤館(いまの棚倉町)で、蘆名方にとっては絶対に抜かれてはならない南奥の最終防衛ラインであった。 石川氏といった岩城領に近い中小の大名たちは佐竹氏の調略に揺れ動いており、赤館を抜かれたら最後、彼らは軒並み佐竹方へと離反してしまう恐れがあったのだ。


そういった背景があり、地域の国衆の裏切りや岩城方面からの佐竹軍の急襲を警戒して、蘆名盛氏は係争地・赤館から一歩・・・いや、5・6歩退がった長沼城に本陣を構えたものだと思われる。 蘆名方は、岩城方面からの佐竹軍も警戒する必要が生じていたのだ。


もう何度目であろう? 佐竹氏の先代・義昭からすでに10年越しにこの地で戦いが続けられている。 佐竹氏のこの地に対する執着は、並々ならぬものがあった。







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【武家と鉱山について】


☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・佐竹氏が南奥地域に執着する理由の一つが、(きん)だといわれている。 八溝山系、阿武隈山系は豊富に金を産することで知られていた。


そんな佐竹氏は鉱山技術を持っていたことが知られている。 佐竹の領内には「金砂(かなさ)」と呼ばれる土地があり、古くから金の砂鉱(砂金)があったことが伺え、鉱山技術の礎となったハズだ。 時代は下り、のちの豊臣政権時代の佐竹領国は、日本全国で3番目(あるいは4番目とも)の金の産出を誇っている。 さらに、佐竹氏が秋田に移封された後も、この鉱山技術が藩政で大いに役に立ったという。


そもそも佐竹氏は源氏であり、その源氏が平安時代の頃からすでに鉱山技術に詳しいといったいきさつがあった(→源満仲の多田鉱山開発)。 そうでもないと、シロウトが思いつきで坑道を掘って鉱石を採掘し、選鉱・精錬するなど複数の工程を経たうえでようやく金銀を産出して、さらに経営を成り立たせるといったことはできないだろう。


そういえば、甲斐の武田氏も源氏であり、鉱山の技術に長じているが、これも先祖からの鉱山技術の賜物だと思われる。 また安芸の武田家も、その居城は佐東銀山(さとうかなやま)城と、これまた鉱山と関係が深かったことを示している。


源氏には、家の子・郎党といった家中に、そういった鉱山技術を伝承する人たちがいたのだろうか。 しかし、「日本の鉱山と武家の歴史」といったテーマはかなりマイナーな分野であり、その研究は途上の段階にある。 それなので、この話はこのあたりで撤退しよう。







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元亀2年(1571)に始まった蘆名ー佐竹の白河戦役は、数年にわたって繰り広げられることになる。 その戦いは、ある時は蘆名方が優勢であり、またある時は佐竹方が優勢であった。 また、時には仲裁により両軍が和睦するといった場面もあったが、すぐに反故となって戦いが継続されるなど、つまりは一進一退の互角の攻防がつづいていた。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・その戦いの局面の一つで、蘆名盛氏は「戦ほど面白いものはない」といったことを述懐したことがあったようだ。 それは盛氏が味方に宛てた手紙に自らの気持ちを素直に現したもので、それは天正2年(1574)の時だとされている。


しかし、この「戦ほど面白いものはない」というのは、わたしが資料を見た限りでは意訳がなされている。 「超訳」と言ってもいい。 もちろん、大まかな意味はその通りだと思うけれども、けっこうニュアンスが異なるように感じられるのだ。







【蘆名盛氏文書の「揺(うごき)」考】


蘆名家に関心のあるマニアな人のために、先ほどの盛氏書状について詳しく見てみよう。 ある書籍に、例の盛氏書状の原文と読み下しの文章が載っていたので、必要な部分を引用してみよう。


❝「五百余人打ち候、南郷在中一戦をとげ、かくの如きこと、老子本望申すことなく候」、「両日揺(うごき。動=はたらき、軍事行動の意か)の刷い(あつかい)ともお目にかけたきまでに候」、「揺ほど面白き物はこれなく候」、「座敷の前の軍(いくさ)申し勝ち申し候、一期の本望までに候」、「岩崎町前、早々入馬、念望に候」。❞


この読み下しの文が載っているのが、元福島大学名誉教授・東北学院大学教授の小林清治先生(故人)の書籍だ。 この中にある「揺ほど面白き物はこれなく候」という部分が、ゲームをはじめ方々で「戦ほど面白いものはない」と意訳されて流布されているといったワケなのだ。 そしてそもそも、小林先生が「揺」を「うごき=はたらき」、軍事行動と解釈していることに留意しよう。


しかし、先ほどの文章を通して読むと、「揺(うごき)のほかに「軍(いくさ)という語が登場していて、そしてそれらは区別されて使われているのだ。 と、なると、その二つの語は別の意味を持つということになる。


では、この盛氏の使う「揺、うごき、はたらき」とは、いったいどのような意味なのだろうか? そもそも、「揺」の漢字には「ゆらす、ゆさぶる」という意味がある。 それなので、ここは素直に、揺らす、揺動、陽動・・・「あえて敵にこちらの行動(陽)を見せることで敵のミスリードを誘い、本来の目的(陰)を遂げる」・・・こういったことを指しているのではないだろうか。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


盛氏 「わし・・・バトルマニアのキャラ付けされてしまっている?」


☝・・・仮にも、人物の解説で「戦ほど面白いものはない」という一言が付け加えられて紹介がされたなら、その人物はさも合戦が好きな人物のように見なされてしまうことだろう。 ともすれば、脳筋・・・「頭脳も筋肉」といった好戦的で猪武者のイメージを抱く人も出かねない。


それが、「揺さぶり、陽動ほど面白いものはない」と解釈すれば、その人物は計略に長けた、智謀の武将にがぜん見えてくるから面白い。


いずれにしても、このときの盛氏は十分な経験を積んだ熟練の武将として、若造の挑戦者・佐竹義重の裏をかいて勝利をしたことに、得意満面で書状をしたためていたことが伺えてなかなかに興味深い。 盛氏という人は智謀タイプの武将であり、そしてまた感情豊かな人だったようですね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


このように、蘆名と佐竹の戦い・・・白河戦役は長きにわたって一進一退の状況が続いていたが、意外なところから戦局が動き、この戦役は一つの節目を迎えることになる。 しかし、それはいったん回を区切って、次回のお話しとすることにしよう。


次回をおたのしみにー。
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年6月7日金曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(7)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(6)




☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は7回目ということで、全体的に少し外伝風の、脱線話を主にしていこうかな。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・永禄年間の終わりの頃。 会津の領主・蘆名盛氏は南奥(いまの福島県地域)の盟主として、その地域の統治に汲々としていた。 盛氏はすでに隠居をしており、本来なら表舞台に立つべきではなかったが、何やかんやとお鉢が回ってきて彼は仕事をさせられていたという訳だ。


盛氏 「隠居してからの方が忙しくなるとは・・・なんとも皮肉なものだな」


蘆名洞中(とうちゅう)では軍事行動が絶えなかったが、どれも小規模なものであり、そこに深刻さといったものは無かった。 このころ、奥羽の戦乱は小康状態にあったのである。


そんななか、また東国で戦局の変化が現れた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、武田信玄と北条氏康


☝・・・永禄11年(1568)12月のこと。 甲斐の武田軍が駿河の今川領に侵入、大規模な軍事作戦を展開した。 武田と今川、そして北条は相互同盟を結んでいる。 裏切りともいえるこの挙に北条氏康は激怒、今川を援けて武田とは絶縁するという決断を下した。 ・・・いわゆる「甲駿相三国同盟の解消」である。


このとき、氏康は武田と戦うにあたって、なんと長年の敵であった越後の上杉謙信に和睦・同盟を申し込んだのだ。







☆『信長の野望』シリーズより、上杉謙信


☝・・・この重大な申し出に、上杉謙信は逡巡する。 そして関東に配置していた腹心の武将たちに、このことを書状で相談した。 かくかくしかじか・・・。







☆『戦国ixa』より、太田資正と佐竹義重


太田三楽斎「えぇ、北条と和睦? 笑えない冗談はおやめください!」
佐竹義重 「ナイナイ・・・ 奴らは不倶戴天の敵っすよ。」
里見義尭 「謙信公の関東管領職と、北条方の公方との整合性はいかがするのです!?」


謙信 「・・・そうか、皆の気持ちはよく解った。 では、北条とは和睦する!」


太田・佐竹・里見 「ちょっと! ちょっとちょっとー!!(ざ・たっち風)」


☝・・・こうして、上杉謙信は周囲の反対を斟酌せず、北条の申し出に「承知」と伝えて、翌永禄12年(1569)の6月に「越相同盟」が締結されたのである。


ツッコミどころ満載の謙信の決定に、関東の反北条の武家衆は言葉を失った。 ここのところ、彼らは上杉の援軍があっても北条に押され気味であったというのに、まさかここで上杉が北条の同盟者になるとは、いやはや。 人生にあると言われるいくつかの坂・・・「まさか」としか言いようがない出来事であった。 とりわけ、義重の失望は大きかった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国やらいでか』より、姫化した上杉謙信


☝・・・「越相同盟」の締結に、とりわけ佐竹義重の失望は大きかった。


義重が初陣のときのことである。 当時の上杉謙信はまだ上杉家を継いでおらず、長尾景虎という名前の時代で、はじめて関東への軍事介入を開始していたころの話だ。 そのころの景虎は、義重の将器を見抜いて何かと目にかけ、名刀の「備前三郎宗国」を初陣祝いとして与えるほどであった。 その宗国の刀は、義重秘蔵の愛刀として今でも毎朝の手入れを欠かさない。 義重にとって謙信とは、少年時代の憧れそのものであった。


少年義重にとって、「軍神の化身」と讃えられた景虎の雄姿はあまりにも眩しく、その印象はすでに20代となった今でも鮮明に残りつづけている。 それゆえに、今回の「越相同盟」は裏切りだと彼は人一倍感じたという訳である。







☆『戦国プロヴィデンス』より、姫化した佐竹義重


☝・・・しかし、このときの軍事バランスは奇妙な均衡を保つもので、北条の矛先が武田に向かい、その精鋭が対武田の前線に送られている間は、佐竹は比較的安全だということが言えた。


佐竹義重は上杉謙信に裏切られたという感傷を受けつつも、武将・軍略家の本能としてこの事実に注目する。


義重 「大ピンチと思いきや、案外この状況はチャンスじゃね? ・・・北条を刺激せずに、周囲の中小の大名をプチプチ潰してしていくとするか!」


こうして、佐竹による「北条(おに)の居ぬ間の洗濯的、軍事作戦」が始まることとなる。 しかも、大車輪のように多方面にわたって、である。








(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、小田氏治


☝・・・佐竹義重がまず標的としたのが、常陸の国・南西部を支配していた小田家であった。 小田家とはここ十数年来、小田城をめぐって城を取ったり取り返されたりといったシーソーゲームが展開されている。







☆『戦国ixa』より、太田資正、梶原政景


☝・・・このシリーズは蘆名家が主役なので、この戦いの詳細は端折ろう。 ただ、このときの佐竹軍は太田資正・梶原政景の父子が華麗な活躍をしたことで知られている。


その時の佐竹側の作戦の骨子は、まず小田氏治を挑発し、その軍をおびき寄せて釘づけにしている間に、別動隊が迂回をして本城を落とすという、極めて単純な作戦である。 しかし、単純と思えるその作戦はクリティカルヒットをし、佐竹氏はまんまと小田城を手に入れることができたのだ。


このとき、氏治が率いた兵力は3000、その一方で太田父子の兵力はわずか600、小田城を落とした真壁氏はおよそ1000の兵だったと伝わっている。 義重の出番がほとんどないという、佐竹旗下の優秀な武将たちの活躍であった。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した小田氏治


☝・・・筑波山中の隘路で多勢による利を失った小田氏治は、太田資正によって痛打を受け、本城の陥落という悲報も加わって惨めな敗走とあい成った。 氏治は「不死鳥」の異名を持つしぶとい武将ではあるが、以降、小田城が小田氏のもとに還ることは無かった。


このように、「手這坂(てはいざか)の合戦」と呼ばれるこの戦いの結果として、佐竹氏は小田氏の本城・小田城をまんまと支配下に収め、筑波山を超えて勢力を拡大したのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


南方の小田氏との戦いにケリがつき、佐竹義重が次に目標と定めたのが東北の方角、南奥の岩城氏である。


なお、ここのお話では、佐竹氏は順々に敵を攻略しているように語っていますが、実際のところは多方面・同時期にわたって作戦は開始されている。 永禄年間は東国における戦国時代のたけなわで、いっぱしの大名であるのなら、戦場の多極化は当たり前のことであった。







☆『信長の野望』シリーズより、岩城親隆


☝・・・佐竹義重に狙われた岩城氏の当主は、親隆である。 彼もまた、生い立ちや周囲の大名との血縁関係といった事柄はかなり複雑だ。


まず、彼は伊達晴宗の長男で、生まれてすぐに岩城家に引き取られて養嗣子として育てられた。 岩城氏には男子がおらず、親隆の母が久保姫・・・岩城氏出身の娘ということで、その血が濃かったためだ。


そして、親隆が岩城の家を継いでからは佐竹義重の妹・桂樹院と結婚し、岩城氏は伊達、佐竹氏とは姻戚の関係にあった。 そんな親戚とも言える岩城氏を佐竹義重は狙っていったというワケである。







☆『戦国大戦』シリーズより、岡本禅哲


☝・・・とはいえ、佐竹氏による岩城氏併呑の策謀は、佐竹義重の先代・義昭のころからすでに始まっていた。 岡本禅哲船尾昭直といった、岩城家中の家老級といった武将たちが、すでに以前から調略を受けて佐竹家への家臣化が進んでいたのだ。


もちろん、こんなナメたことをされて戦国大名が黙っているワケがない。 佐竹、岩城の両家はとうぜん険悪な仲となり、いくつかの戦いがあったと言われているが、残念ながらその詳細は分からない。


そして決定的となったのが、永禄末年(1569)の現当主・岩城親隆の病弱と、先代・重隆の死去だ。 この事態を受けて親隆の妻・桂樹院(義重の妹)が岩城当主の権力を継承し、実家・佐竹氏の意向を受けて領地を治めるという事とあいなった。 このように、岩城家は佐竹氏の(うつろ)、衛星勢力となったのである。







【佐竹氏を取り巻く、不審な事象について】




☝・・・なお、興味深いのが岩城家の当主・親隆の病についてだ。 その症状がどのようなものだったのかというと、「狂乱の病」と記録に記され、花押を押す(サインを書く)こともできず、当主の務めが果たせなかったとされている。


彼は精神系の病であったのか、はたまた別の病であったのか。 真相は分からないものの、何やらおどろおどろしい印象を受けてしまう。







☆『戦国ixa』より、宇都宮広綱


☝・・・佐竹氏の衛星勢力として、宇都宮家もその一つとして知られている。 当主・広綱は幼少の頃に、佐竹氏の軍事援助を全面に受けて名字の地・宇都宮に復帰したといういきさつがあって、それ以来、佐竹の旗下となっていた。


そんな広綱は佐竹義重とほぼ同年代で、義重の妹・南呂院(通称せうしやう:少将)を妻としていた。 その広綱も、やがて病弱となって臥せってしまい、その妻が家臣団と合議で政務に当たっていたと言われている。 たとえば、上杉謙信は宇都宮家に書状を書くにあたって、その宛先を南呂院としているほどだ。


なお広綱は、数年前の長尾景虎の小田原攻めでは、その戦線に参加して後詰の一部隊を率いている。 そんな元気そうな彼が10年足らずのうちに病床についてしまうとは、運命とはなんとも残酷なものだ。


このように岩城家と宇都宮家、同時代に佐竹氏から嫁を貰ったという両家が、偶然にも同時期、その当主が病弱で実務がこなせずにその妻が実権を握るという事態が起きている。


・・・。 これってすごい偶然ですよねえ。 ・・・いやいや、これは何も佐竹氏が一服盛ったとか、そのようなことは証拠も伝承もないですし、毒によって病弱にされたといった疑惑は、わたし個人のゲスの勘繰りといったところだろう。







しかし、念押しをかねて、もう一例ご紹介しておこう。


☆『千万の覇者』より、正洞院


☝・・・正洞院(しょうとういん)は下野の国・那須氏の娘で、佐竹義重の嫡男・義宣の前室(最初の奥さん)となった女性だ。


佐竹氏が岩城氏を併呑した2年後の元亀2年(1571)ごろ、佐竹氏と那須氏が和睦をした際、彼らの婚約が内定したといわれている。 ただその当時、義宣も正洞院もまだ幼かったことから、10年以上の年月を経たのちに、改めてその婚儀は実現することになる。


そんな正洞院は、天正19年(1591)4月、24歳のときに自害して果てたとされている。 彼女の死について、佐竹氏の家譜・家伝といった資料は言葉少なであり、中には完全に彼女を居なかったものとして扱っているものまである。


なお、正洞院の亡くなった同年同月には「南方三十三館謀殺事件」が起きている。 これは佐竹氏によって仕組まれた陰惨な虐殺事件で、常陸の国・南方に割拠していた中小の領主たちが、太田城に招かれてみな一斉に騙し討ちで殺されたという事件だ。


もちろん、彼女・・・正洞院の死が実際はどのようなものであったのか、そしてこの虐殺事件と関連していたかと記す一次史料は見当たらない。 すべては憶測、傍証といった類のものである。







☆グーグル検索より、佐竹義重像


☝・・・佐竹義重という人は、軍事・政治ともに行動力があり、同時に勇猛さを兼ね備えた優れた武将であっただろう。 しかし、わたしはこの肖像を見ていると、その恐ろしさ・・・例えば、肖像を描かせるあたっても、甲冑・兜を脱がず、あまつさえ面皰も取らないといった、その恐ろしいまでの気負いがこちらにも伝わってきて、一分の隙もなく、そこからは威圧以外のなにものも感じられない。


常在戦場。 虐殺、投毒、謀略上等。 ・・・義重という人は虎狼のように猛々しく、また血塗られた武将であったろうと感じるのは私だけだろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


おおっと、話が重くなってしまったでしょうか。 このブログは、ゲームのキャラ絵を拝借しながらお話が展開されていくという、ライトな方向を目指しています。







今回は長々と佐竹氏のことを語ってしまいましたが、それも蘆名家が激動の時代にあって、いっときの小康状態を保っていたからだ。 「歴史好き」にとって、時代や戦局が動くさまを眺めるのはとても楽しいことなのです。


そして、こんかい焦点を当てた佐竹義重が、やがて岩城氏の方面を経由して、蘆名盛氏の勢力に侵入してくることとなる。 そう、かつて佐竹義昭が侵入してきたルートとは別方面から、蘆名VS佐竹の新たなる戦端が開かれるのだ。


しかし、今回の話が長くなってきているということもあり、そのつづきは次回にしていこう。







☆『戦国ixa』より、彦姫


彦姫 「まあ! 盛興さまったら、またお酒ばかり召し上がって・・・少しはちゃんとした食事を採ってくださいませ! まったく・・・」 [○・`Д´・○]


・・・佐竹氏の次なる標的が蘆名家であることを、当の蘆名家の人たちはまだ気づかずにいる。 嵐の前の静けさの中、それぞれの日常が送られていた。







次回に続きます。 お楽しみにー。
(*´ω`)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。


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2019年6月3日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(6)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_29.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(5)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は第6回目ということで、マイペースに話を続けていこう。







永禄年間の中頃から後半にかけてのこと。


蘆名盛氏と伊達晴宗との戦いは、二階堂領・須賀川を主戦場として数年間に及んだ。 そしてのち、その戦いは伊達家が蘆名家に娘を嫁がせることで和睦とし、同時に、二階堂家も蘆名家に人質を差し出すことで服従する、という結果をもたらした。


これはつまり、蘆名の力が伊達を上回っているという事実・・・奥羽一の大名とは蘆名家であるということを、その過程で証明した戦役だと言えるだろう。


もっとも、伊達氏からすれば、「ぜんぜん本気出していない!」などと言って、わたしの見解に猛反発してくるかもしれない。w 伊達氏は伊達氏で、蘆名氏との戦いのほかに、大崎・相馬氏といった「天文の大乱」に端を発した、不倶戴天の敵との戦いが続いていた。







☆官公庁のサイトより、南奥の勢力図


☝・・・蘆名が二階堂を制圧、ならびに伊達と和睦をするという結果を受けて、仙道(いまの福島県中通り地域)の諸武家は、軒並み蘆名に恭順することとなる。 おそらく、先の伊達との和睦では、仙道は蘆名の勢力下とする合意が交わされたのであろう。


本領の会津四郡に加え、仙道の諸家、そして越後の国・阿賀野川上流域。 いっぱしの戦国大名として恥ずかしくない、蘆名家の一大勢力圏がここに出現した。


とはいっても、蘆名の勢力は(うつろ)と呼ばれる、仲間意識で繋がった武家の連合体だ。 これは大きくは一つの勢力として見做せるものの、その内部にはさまざまな葛藤・軋轢があり、特に仙道地区の中小大名同士のいざこざに、蘆名盛氏は地域の盟主ということで武力介入・政治介入を行って、その統治に汲々とすることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛興と彦姫


☝・・・蘆名と伊達、両家の和平の象徴として彦姫が蘆名盛興のもとに嫁いだのがいつなのかは、記録が残っていないので分からない。 とはいえ、和睦が決められた永禄9年(1566)の年内か、あるいはその翌年のことだと推定されている。 盛興が22、彦姫が15ほどの年齢の時であった。


「合戦の結果、和睦の条件として娘を嫁がせる」・・・この事実は、娘を嫁がせる側の武家にとっては風下に置かれたことを意味していた。 この婚姻は、「蘆名>伊達」の図式を世間に示す、かっこうのセレモニーであったことだろう。


彦姫 「ふつつか者ですが、なにとぞよろしくお願いします」
盛氏妻「まぁまぁ、そんなに堅くならずに・・・私も伊達の女ですから」
盛氏 「うむ、これで両家は重縁、この絆を大切にしていきたいものだな」
盛興 「・・・グビグビ・・・(盛興は新妻を眺めつつ酒を呑んでいる)」


両家はつい先日まで戦いを続けていた仲である。 四者四様、にこやかな表情や温かな言葉とは裏腹に、それぞれ腹中で思うところはあったかもしれない。 けれども、この式はつつがなく無事に執り行われたのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


ここで脱線話を。


【戦国時代の武家の婚姻について】


☆『戦国IXA』より、彦姫


☝・・・戦国時代といった中近世の女性の結婚について、よく「まだ14、15かそこいらで政略結婚の道具にされるとは、当時の女性は可哀そう、不幸だ」などという文章を目にすることがある。 確かに、それは一つの解釈としてその通りだと思う。


しかし、当時の女性たちはそういった習わしを受け入れて、ごく普通のこととして嫁いでいったようだ。 それはまるで、現代の子供たちが成長すると進路を決めて、それぞれ不安があるなかでも進学していくように。







☆『のぶニャがの野望』より、せニャ


☝・・・生物として、ある異性を気に入るか否かという問題は、男女ともにお互いさまだ。


決められた結婚で苦労したのは、なにも女性ばかりではない。 松平元信(のちの徳川家康)瀬奈姫との結婚など、男性の側でも上位の権力者によって結婚が決められることは少なくなかった。 当然、下位者に拒否権は基本的に無い。


やはり結婚とは一つのきっかけであって、そこからの幸・不幸はそれぞれの事情に委ねられていた、といったほうがフェアであろう。







☆『のぶニャがの野望』より、新庄ニャン


☝・・・当時の武家の人たちは、強い身分意識があったと言われている。 家を興した先祖と長年にわたって守られてきた家門、そして自らに連なる血脈を、何よりの(ほまれ)としていたのだ。 男女を問わず、武家の人々の価値観とは、こういった言葉に尽きるだろう。 武家の結婚とは、誉れある自らの血統を再確認する儀式でもあった。


それなので、「当時の女性たちは政略の道具とされて不幸だ、可哀そう」というのは、現代人の価値観による感傷に過ぎないと、わたしはそう思っている。 なによりも、総じて女性とは、そういった逆境に負けずに今日まで命を繋いできた強さがあるじゃない、と。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話題を進めていこう。 彦姫が嫁いだと同時期に蘆名家に人質として差し出された、二階堂家の嫡男・次郎についてだ。


【二階堂家からの人質・次郎について】


☆『信長の野望』より、蘆名盛隆


☝・・・二階堂家の嫡男・次郎・・・のちに盛隆と名乗るこの少年は、ウィキペディアによると生年は永禄4年(1561)であり、その母は阿南姫(おなみひめ)だと記載されている。 その一方で、郷土本といった蘆名家についての書籍では、盛隆の生年は天文19・20年の辺りだとしているものもある。 その年月のずれは、なんと約10年。


次郎が蘆名家へ人質に出されたとき、ウィキペディアの記載に従えば、彼は4歳ほどの幼子ということになる。 その一方で、別説に従えば、14・5歳ほどのシャンとした少年になってしまうのだ。


中近世である戦国時代では、生年が不明の武将は少なくない。 しかし、生年の説に10年もの幅が出てしまうとは、いったいどういうことだろうか?









☝・・・ここで再度顔をのぞかせるのが、次郎の父・二階堂盛義の前室、蘆名盛氏の妹だ。 仮に次郎(盛隆)の生年が天文年間だとしたら、彼の母親は盛氏妹である可能性が高くなる。 片や、永禄4年の生まれであるのなら、母は阿南姫だと考えるのが妥当だろう。


・・・そう、通説で次郎の母は阿南姫とされているものの、実際には決定的な史料は見当たらず、「次郎の母は不明だ」というのが正確な言葉の使い方だ。


いろいろ端折って要約をすると、伝承や前後関係を勘案すれば、次郎の生年は永禄年間で母は阿南姫であるとする説に軍配が上がる。 その一方で、のちに蘆名家を継いだという事実を重視すれば、次郎の母は盛氏妹だと考えることも捨てがたい。 「血は水よりも濃い」という鉄板の価値観があるためだ。







☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・二階堂から差し出された人質・次郎(のちの蘆名盛隆)・・・。 地方史のマイナーな人物だとはいえ、彼はのちに蘆名家を継ぐ人物でもある。 そんな人物の生年が判明していないことが、わたしはやや奇異なことだと感じてしまう。


もう、もはやいっそ「盛隆は二人いた」などと言ってしまいたいところですが、w、それではトンデモ説もいいところなので、蘆名家の歴史を語ってきた諸先輩たちは首をかしげながら、その解釈に悩んできたわけだ。


彼にはすり替え・替え玉といった、何か謀略めいた秘密があったのだろうか。 それとも単純に伝承・記録が失われてしまって混乱しているだけなのか。 当ブログでは次郎の生年は永禄4年説に傾きつつも、謎は謎として断定的な解釈は行わないでおきたい。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、こんどは他家に目を向けてみよう。


☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した佐竹義重


☝・・・常陸の国・太田の佐竹家である。


蘆名盛隆と彦姫の結婚が行われ、二階堂の次郎が人質として会津に送られたその当時、佐竹氏の事実上の当主・佐竹義昭は1年ほど前にすでに死去していて、その跡を嫡男の義重が継いでいた。 義昭の享年は35、その若すぎる死は過労が原因ではないかと言われている。


さて、そんな佐竹義昭という人物は強引な性格であったらしく、その領内の政治もその性格が色濃く反映されたものとなっていた。 義昭の強引な政治は、佐竹洞中に反動のエネルギーとして蓄積される。 そして彼の死が引き金となって、この頃の佐竹領内では反乱が噴出していた。


跡を継いだ義重は反乱の鎮定といった、父の負の遺産の清算といったことからその活動をスタートさせていたのだ。 のちに「坂東太郎」、「鬼義重」の異名を馳せる北関東の英雄の、静かなる活動開始の時刻であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「ほぉ、佐竹は内乱か・・・それなら我らは、足元の仙道を固めるとするか」


永禄の二階堂戦役が終わり、仙道から伊達の影響力が去って以来、蘆名盛氏はその地を強固な地盤とするべく、たびたび軍事行動を行っている。 その傍らには嫡男・盛興を同行させて、合戦の始まりから終わりにかけての大将の役割、振る舞い方、心構えなどを直々に伝授していったのである。


対石川氏、ならびに二本松氏。 いずれも中小の大名である。 蘆名家は、彼らを滅ぼすために戦うのではない。 戦って、勝って言う事を聞かせるために戦うのである。 これが戦国日本では特異と言われる「奥州的秩序」であった。


のこりの永禄年間、つづく元亀年間は、こういった活動を盛氏は取り組んでいったのである。 思えば、この頃が蘆名家の最も隆盛した時期であっただろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで今回はこの辺りでお開き。 次回は天正年間、戦国日本の折り返し地点ともいうべき時代の蘆名家を語っていければ、と思っています。 次回をお楽しみに。
(´・ω・`)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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