2019年6月15日土曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(9)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/06/ixa_12.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(8)




☝・・・キャラ絵小話・蘆名家&れんみつ姫編、今回は第9回目! ということで、今回も元気よく行ってみよう。







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏と佐竹義重


☝・・・元亀2年(1571)の夏より始まった蘆名ー佐竹間の白河戦役は、相撲でいうと「がっぷり四つの組み合い」で、一進一退の取り組みが続いていた。







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☆『信長の野望』シリーズより、北条氏康


☝・・・そんなところ、東国全体の戦局はどうかというと、関東の雄・北条氏康が元亀2年(1571)の10月に亡くなっていた。


このたび亡くなった氏康であるが、数年間にわたって続いていた北条ー武田の戦いについて、かねてより忸怩たる思いを抱いていた。 というのは、この戦いは氏康私人の感情によりはじめられたものであって、公人としては得策でないことを十分に理解していたからだ。


つまり彼らの戦いとは、損得を抜きにした感情的なものから行われていたという事実だ。 そのためか、氏康は自らが亡くなった後は、北条ー武田間の同盟を復活させるようにといった遺言を残していた。


それを受けて、跡を継いだ北条氏政は、「越相同盟」を破棄して「甲相同盟」を復活させるなど、東国の戦国大名の同盟関係が「元の鞘に収まる」的な流れとなった。 まったく、せわしいことこの上ないが、個人の感情を表に現して軍事・政治を行うという事は、良くも悪くも、いっぱしの戦国大名らしい生き方だったと言えるだろう。 そんな一個の英雄・氏康の死であった。


このように、氏康の死によって東国では情勢の変化が起こっていた。 当然この出来事は、同じ関東在住の佐竹氏に多大な影響を及ぼすのである。







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話を南奥(読み:なんおう、いまの福島県地域)に戻そう。


蘆名ー佐竹の白河戦役は、蘆名方は①蘆名 ②白川結城 ③田村 の3氏を中核として、そのほかに下野の国・那須氏や仙道の武家諸氏が蘆名方の味方となっていた。 領土拡張主義の佐竹氏に共同して対抗するためだ。


しかし、天正年間あたりに入ったころには、那須氏が佐竹方へと寝返り、さらに田村氏も時には佐竹氏に協力する場面があるなど、蘆名の味方から中立へとその立場を変えていった模様だ。







☆『戦国プロヴィデンス』より、姫化した田村清顕


☝・・・先ほど名前が出た田村氏とは、陸奥の国・田村郡を本拠としていた中小の大名だ。 そんな同氏は、蘆名ー佐竹の白河戦役が行われていた元亀・天正年間あたりから、その活動が一段と活発となってゆく。


その活動の活発さは、やがて蘆名家からの自立・離反のための活動へと繋がり、やがて当主・清顕(きよあき)の娘が伊達氏に嫁ぐことになる・・・。 そう、それはのちの伊達政宗と愛姫(めごひめ)の婚儀へと、その流れは続いていくのだ。 







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このように、この戦い・・・蘆名ー佐竹の白河戦役は、がっぷり四つの互角であったところを、佐竹方が政略・謀略の力で徐々に優勢へと変わっていったようだ。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した蘆名盛氏


☝・・・そんななか、天正2年(1574)の一局面で、蘆名盛氏は佐竹義重の裏をかいて快勝し、その喜びを手紙にしたためたことは前回お話しした通りだ。


「・・・南郷在中に一戦を遂げ、500人余りを討ち取った。 このような武名を上げた結果に、この老体(盛氏のこと)は大変満足している。 特に、両日における揺さぶりの軍略はお見せしたいほどであった。 陽動ほど面白いことはない。 あいにく自分は本陣から出撃することなく、座敷から眺めるだけの戦いであって、そして勝ち戦であったが、この合戦はわたしの一生ものの勝利の出来事であった。 岩崎城(盛氏の隠居城)に早々と帰還できたことも願ってもないことである。・・・」


・・・その読み下し文をわたし流に現代語にしてみましたが、おおよそこのような意味になるだろうか? 得意満面の盛氏の書状であった。


しかし、盛氏が先ほどの書状をしたためた天正2年(1574)中に、蘆名方からすればとんでもない出来事が発生することになる。 それが、白川結城家の内部分裂・争乱だ。







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☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・どうも、この頃の白川結城氏の事跡は史料が散逸してしまったためか、分かっていないことがかなり多い。


蘆名ー佐竹の白河戦役が行われていた真っ最中の天正2年(1574)のころ、白川結城氏で内紛が発生したようで、白川結城家は ①小峰隆綱(のちに改名して義親。 蘆名盛氏の娘婿)と、 ②白川常広(別名義顕として知られる。 先代・白川晴綱の嫡子と思われる、ごく若い当主) の2派に分裂して争いがあったようなのだ。


「えぇ、このタイミングで内ゲバ!?」 と思うけれども、この事件はおそらく佐竹義重が関与している。 そもそも、白川結城家は永正年間・・・戦国時代初期のころからすでに分裂をしていて、それが50年以上たった当時も尾を引いていたみたいなのだ。 そこを義重が謀略として分断工作を仕掛けてきたのだろう。







☆『千万の覇者』より、和田昭為


☝・・・なお、このときの白川結城氏の内ゲバ事件に関連して知られているのが、和田昭為の返り忠」のエピソードで、佐竹氏のファンにはよく知られた逸話のようだ。


まず、和田昭為とは佐竹義重の家老を務めていた人物である。 その昭為は先だって、同僚からの讒言にあい、義重の怒りを買って佐竹家中から出奔するという事件を起こしていた。 昭為が出奔することになったそのいきさつを、4行でご説明しよう。


1.和田昭為は主君・義重の命を受けて奥羽方面の調略をいくつか担当していた
2.調略をした際、昭為は相手から進物を貰うという事があった
3.「そりゃあワイロだ!」と仲の悪い同僚・車斯忠に見つかってそのことを義重に讒言される
4.義重、激おこ。 昭為は国を出奔、その際に3人の子をはじめ、一族は誅殺された







☆『信長の野望』シリーズより、サイバー化した佐竹義重


☝・・・このようないきさつで和田昭為は佐竹義重の怒りを買い、かけがえのない子や家族・郎党たちを殺されて落ち延びるような出奔をした。 そんな彼はまず会津の蘆名盛氏の許を頼っている。 しかし、盛氏は昭為の仕官をにべもなく断った。 盛氏はこの人物に、何かきな臭いものを嗅ぎ取ったのだろう。


そんな「訳アリの出奔者」を受け入れてくれたのが、白川結城家の事実上の当主・隆綱(のちの義親)だった。 こうして昭為は隆綱の世話になっていたのだが、ほどなくして、先に触れた白川結城氏の内紛が発生するという事態に遭遇する。 おまけに、その騒動に乗じて佐竹氏の軍隊が白川領に攻め入った。 白川家中は三者入り乱れての大混乱である。


そんな白川家中が混乱するなか、昭為はおもむろに一通の手紙をしたためる。 その宛先は佐竹義久で、のちに当主・義重の右腕となり、南奥方面の大将として活躍することになる佐竹家中の大物だ。 ただし、このときの義久はまだ若輩であった。


昭為の手紙の文面には、佐竹家中に帰参したいという願いと共に、「手土産」としてある計略が添えられていた・・・。







☆『戦国サーガ』より、姫化した佐竹義久


☝・・・手紙を受け取った佐竹義久はこのことを主君・義重に伝え、了承されると、いくつかの打ち合わせの後にその策は実行された。


まず和田昭為は、自分の子供と一族を殺された恨みを晴らしたいと主人・小峰隆綱(のちの義親)に訴え、先鋒を買って出陣した。 そして佐竹勢を蹴散らすという活躍をして、隆綱の信頼を得ることに成功する。 ・・・だが、このときの昭為の活躍は、かねてからの打ち合わせによる出来レースであった。


こうして気を良くした主人・隆綱は自らも兵を率いて追撃に移る。 が、しかし。 逃げ散っていたはずの佐竹軍は集合・転進し、あっという間に白川勢を取り囲んだ。 混乱に陥る白川軍。 そのとき、昭為は隙を見て大将・隆綱に飛びかかり、組み伏せ、ついには彼を生け捕りにしたのである。







☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・こうして、蘆名盛氏の娘婿・小峰隆綱(のちの義親)は佐竹氏の虜囚と相成った。


和田昭為は隆綱を捕らえた手柄をもって、過去の行為は不問とされて、数年ぶりに佐竹家中に帰参することができた。 哀れなのは裏切られた隆綱である。 出奔した流浪の武将を温情で家臣にしたところ、とんでもない仕打ちを返されるとは・・・。


こうした一連の挿話が「和田昭為の返り忠」であり、昭為は佐竹家歴代の家臣のなかでも屈指の忠臣として、長く佐竹家中で美談として語られたという。







☆グーグル検索より


☝・・・えぇ、この話のどこが美談、いい話なの!? @@; と思ったのは私だけではないだろう。


しかし、佐竹氏的にはこれが破格の美談ということらしい。 少なくとも佐竹氏関連のいくつかの郷土本では、大まじめにそういった解釈がなされている。 なので、いろいろモヤモヤとするものはありますが、いちおう美談ということにしておこう。


以前このシリーズで、「女性と政略結婚」について触れた際に、現代と当時とでは価値観があまりにも違い過ぎて、それが原因で私たちはいらぬ感傷を受けてしまっている・・・ということを述べましたが、この「和田昭為の返り忠」も同様なのだろう。







☆『戦国サーガ』より、姫化した明智光秀



☝・・・「仏の嘘は方便、武士の嘘は武略」


「和田昭為の返り忠」の逸話を読んで、わたしが思い出したのがこのフレーズだ。 これは裏切りの代名詞とも言える明智光秀が残した有名な警句である。 このように、戦国時代にあっては裏切る/裏切られるということは身近なことであって、お互いさまだという、非常にドライで諦めに近い社会的な認識があった。


ただ、明智光秀は「主殺し」の非を責められて討伐されている一方で、和田昭為のケースは美談だと言われている。 わたしにはあまりピンときませんが、家族を殺されてもなお、元々の主人・佐竹義重のために奉公したことが「忠」であり、それが美談、美しいことだというのだろうか。


「和田昭為の返り忠が美談だ」というのはどうも、江戸時代の儒教的価値観で語られているような感じもしますし、戦国時代当時の評価はまた違ったものだったかもしれませんね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


和田昭為の話はさておき、蘆名盛氏はというと・・・


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「なんだって!? 白川の婿どのが捕らえられ、白川は佐竹に降伏した・・・だと・・・?」


蘆名盛氏がそのことを知ったのは、すでに白川結城氏が佐竹氏の軍門に下った後であり、盛氏が手を施そうにも、すべては後の祭りであった。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・こうして、白川領は佐竹氏に併呑されることとなり、蘆名-佐竹の白河戦役は一つの節目を迎えた。 南奥における佐竹氏の支配域は、先だっての岩城領につづいて白川領で二つ目だ。 しかも、白川領は佐竹氏が軍略、政略、謀略を駆使して蘆名方から実力でもぎ取ったといった印象が強い。


このことによって、蘆名盛氏の威信は傷がつき、それは仙道の石川氏にも影響を及ぼして、彼らはほぼ佐竹氏の味方へと寝返ってしまった。 このように、元亀・天正の白河戦役は、蘆名方の完全な敗北に終わったのである。 盛氏が家督を継いで以来、初めて味わう大きな敗北であった。


盛氏 「むぅ・・・佐竹の若造と侮っていたが、小癪にも手ごわい相手だ・・・」







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☆『信長の野望』シリーズより、小峰義親


☝・・・なお、この戦役で捕らえられた盛氏の娘婿・小峰隆綱(のちの義親)は太田に移送されたのち、意外なことに佐竹氏からは厚遇を受けて、やがて彼は篭絡されることになる。


すなわち、隆綱は他領で抑留中の身の上でありながら、佐竹義重の養女を新たな妻として迎え入れて、そのうえで諱(いみな)を義親と改めたのだ。 義親の「義」は義重の名からの一字拝領である。 こういった一連の行為は「蘆名方から佐竹方へと転向しましたよ」という強烈なメッセージであった。


なお、隆綱改め義親が、元々の妻であった盛氏娘とはその後どうなったのかは、手元の資料に見当たらずまったく分からない。 しばらくは重婚の状態だったと思われるが、どちらが正室の立場となったのか、最終的に離別したのかどうかなどといったことも不明だ。


さらに数年後、小峰義親は佐竹義重の次男・喝食丸(かつじきまる)を白川結城氏の養嗣子として受け入れることを了承し、そして自らは入道出家して不説斎(ふせつさい)と号した。 不説斎・・・不説とは、「何も言えませんし、言いたくもありません」といったところであろうか。 もし、「不説」の二文字に深い含蓄があったとしても、まず目に飛び込んでくるのは「何も言えねぇ・・・(超訳)」というメッセージだ。


この、あまりにも人をバカにしたような義親の斎号に、結果として、盛氏は自らの見る目が無かったことを痛感、深い後悔をした。 大切な娘を嫁がせた相手が、このような義をないがしろにするような人物であったということに・・・。







とはいえ、「盗人にも三分の理」というように、義親にも言い分はある。 そもそも彼は和田昭為の返り忠、裏切りによって生け捕られ、そこで大名の身分を失ったといういきさつがあったではないか。 おそらく、その時点で義親の心の芯は折れてしまったのだろう。 それ以来、彼は生ける屍、意思を持たない傀儡となり果てた。


いまは戦国時代のたけなわ、天正年間である。 たとえ蔑まれようとも、生き延びるためには離反も厭わない。 そもそも、中小の勢力はより強い勢力に従うほかは、滅亡しか道は無いではないか。 ・・・そのような武将たちが織りなす、戦国奥羽の一場面であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と!いうことで、長くなってきたので今回はこの辺りでお開き。 次回からは徐々に退潮を始める蘆名家の家運と、晩年の蘆名盛氏について追っていければ、と思っています。


次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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