2018年1月19日金曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話! 小田氏治さん編(12)


ixaコラム:経験0からのIXA!





関連する前回
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キャラ絵小話! 小田氏治さん編(11)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、長尾景虎


☝・・・永禄4年(1561年)、閏3月のこと。 長尾軍を中核とした、反北条連合軍による小田原城の攻撃は、同城の堅固さと自軍の兵站の行き詰まりのために膠着状況に陥ってしまっていた。


そんななか、長尾景虎はこの日も早朝からごく少数の供廻りで隊を組み、いつものように視察を行っていた。 この日は小田原城・北方面の台地からの敵情視察である。


☆『グーグルマップ』より







☆『ヘクサウォーズ』より、姫化した上杉謙信


小田原城の西ーーー箱根の山の後ろには霊峰・富士が裾野を広げて座している。 越後出身の景虎にとってその山は、はるばる遠征をしてきたという象徴となって目に映ったが、あいにくこの時は山にかかる雲によって姿を隠してしまっていた。


景虎 「富士は見えぬか。 それはそうと、風が大分ぬるくなってきたな・・・」


北条との決戦を期して厳冬に始まったこの作戦だったが、この日はほのかに生ぬるい風が吹き、季節は着実に春へと移ろいつつあった。







ところで、この時の「月」は「閏(うるう)3月」だと伝わっている。 「閏3月」とは、わたしのような現代を生きる人間からすればあまりピンと来ない。 なんでも、「中世の閏月」とは、太陰暦(月の満ち欠けを中心とした暦)の法則では1年365日を上手く割り切れないことから、その帳尻合わせのため不定期に設定されていたようだ。 と、いうことで、永禄4年は3月→閏3月→4月、と月が変わっていくことになる。







☆『グーグルマップ』より


☆『千万の覇者』より、今川氏真


☝・・・放っている乱破/忍者の報せによると、今川軍数千がすでに戦支度を整え、北条を援けるべく駿府を出発したのだという。


景虎は思う。 今川の援軍など物の数には入らず、恐れるに足りない。 それよりも、その援軍が呼び水となって決戦が行われたとしたら、こちらにとってそれは思う壺で、むしろ好都合だ。


しかし、北条の一連の戦い方を見るに、彼らは要害を盾に立て籠もるばかりで、正々堂々とした野戦が行われる可能性は低いだろう。 我が軍が疲弊しきってから、彼らは一斉攻撃をしてくるのではないだろうか? それをどう防ぎ、相手に痛打を与えることができるものか・・・。


景虎は馬上で思案しながら、足柄平野(小田原平野)の地形を丹念に確認して回ったのだった。


このように、景虎は小田原城の包囲戦の継続を志向していたものの、一方で、越後軍の中枢では景虎の意思とは別に、小田原城からの撤退の議論が進められていた・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、柿崎景家と斎藤朝信



☝・・・長尾ー上杉軍の苦境を目の当たりにし、景虎の腹心ともいえる二人の将が、ここで揃って注進をするべく、景虎本陣・陣幕の中に入ってくる。


柿崎景家
「殿、これ以上の小田原城包囲は、わが軍に利はありません! 兵どもの兵糧が無い状況をどのようにお考えか!? ・・・とにかく撤退しましょう!」

斎藤朝信
「武田が北信濃を荒らしているという報せも気がかりです。 ここは一度厩橋へ引き、そこで改めて方針を定めては・・・。」


あくまで直情的な物言いの柿崎景家と、それを中和するかのような斎藤朝信の声。 二人はどちらも越後の猛将でありながらも、その性格は好対照だといえた。


景虎
「両人の意見はもっともだ。 しかし、一月足らずでここを退けば、すなわちわが軍の敗北ということになる。 どうにかならないものか・・・。」 景虎の顔が曇る。






☆『千万の覇者』より、宇佐美定満


☝・・・そんなところを、景虎の陣幕にさらにもう一人の人物が入ってくる。 越後軍最高の知恵者と讃えられている、軍師の宇佐美定満だ。


「ご安心ください。 城攻めで勝てないところを、政略で勝ってみせましょう!」

「!?」






☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した宇佐美定満


☝・・・宇佐美定満が提案した策とは、以下のものだった。


長尾景虎は、上杉憲政から上杉の名字とその家職・関東管領職を譲り受ける旨を打診され、そのことについてはすでに受諾・合意していたが、それは個人間の合意であり、正式なものではなかった。 それを今まさに正式に受諾し、天下に向かって公表、関東管領職の就任を宣言せよというのだ。


宇佐美定満
「就任式は慣例に従い、鎌倉の鶴岡八幡宮で大々的に行うのがいいでしょう。 この遠征において殿が関東管領に就任したならば、それが立派な成果となります。 そのうえでいったん兵を引いたとしても、殿の名誉は傷つきますまい。」


景虎
「なるほど! 定満、よくぞ言ってくれた。 ・・・氏康めにも、このことを書状で知らせてやろう。 わたしの関東管領職就任に不服があれば、軍を率いて寄せて来い、存分に相手をする! とな! ・・・フフフ、奴め、打って出てくるだろうか。」


曇りがちだった景虎の目が一転、生き生きと輝いていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




☝・・・現在の鎌倉・鶴岡八幡宮。


宇佐美の策は採用され、長尾景虎の関東管領職・就任式は鶴岡八幡宮で挙行された。 この時から長尾家は山内上杉家の系図を引き継ぎ、上杉の名字を名乗るようになる。 景虎はまた、上杉家の”通字”である「政」の一字を受け継ぎ、名を景虎から政虎へと改名した。 彼はやがて輝虎、謙信と更に名前を変えていきますが、当ブログでは便宜上、ここからは有名な謙信の名を使用/あるいは併記していきたい。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治

「長尾景虎様改め、上杉政虎(謙信)様かぁ~! @@」


☝・・・八幡宮の神前で上杉謙信の関東管領職・就任式は取り行われた。 小田氏治をはじめ、この戦役に参戦した関東の諸将らもずらりと整列して参加、厳かにセレモニーは続いていく。


それでは、ここでセレモニーに参加した、主な関東武将たちをキャラ絵で表示していこう。









☝・・・長尾景虎(謙信)に上杉の系図とその家職・関東管領職を譲り渡した上杉憲政。 この人物は『ixa』のスキル名・「虚軍号令」が示すとおり、軍事的才能は皆無であったが、上杉家の名字・家職譲り渡しという離れ技を発案・実現させたことが最大の功績だといえる。


なお、この名跡の譲り渡しに際して、本来なら山内上杉家の血を引く者が謙信の養子となることが望ましかったが、憲政の子供らは北条との戦乱のため、いずれも命を失っていた。


本来ならあり得ない、鎌倉時代以来の名門・上杉家の名跡を譲り渡したのは、北条氏憎しの一心からであったのだろうか。









☝・・・武蔵の国・岩付の太田資正。 いくつかの資料を見ていると、謙信の小田原合戦においては、太田資正が最も好戦的な関東武将であったようだ。 その戦いぶりが認められ、これからの謙信の関東経営で資正は、重要なポジションを任されることとなる。








☝・・・上野の国より、「上州の黄斑(意味:虎)」とあだ名された猛将の長野業正と、その子の業盛。 彼らの旧主は上杉憲政ということで、上野における北条の勢力を押し返すために参戦していた。


また、彼らが支配する地域は隣国の大名・武田信玄が触手を伸ばしつつある状況であり、そういった侵攻に抗戦して独立を維持し続けるためにも、謙信を中心とした安全保障同盟に参加する必要があったと言える。


しかし、「上州の黄斑」とあだ名された名指揮官の業正も寄る年波には勝てず、この年の11月には惜しまれつつ死去することとなる。









☝・・・同じく上野の国より、横瀬成繁と、その妻で女傑として有名な妙印尼輝子。 なお、輝子は謙信の関東管領就任式に参加はしていません。


このとき、横瀬/由良家などをはじめとした、関東中部以北の小大名たちはこぞって反北条軍に参加したと言われている。 彼らは独立の気風が強く、時には従い、時には背くなど、上杉謙信ら越後勢はこれらを束ねて統率することに大変苦労することとなる。









☝・・・上総・安房の国より、大名の里見親子とその重臣・正木兄弟。


一説には、里見親子が水軍を率い、正木兄弟が陸軍を率いるなど、彼らは2軍団に分かれてこの戦役に参加していたようだ。 また、小田原城の包囲は不参加だったと伝わっている。 なお、里見親子が景虎の関東管領就任式に出席したという明確な資料は無く、代理人による参加だったかもしれないとも言われていて、通説は確立されていない。


長尾景虎の越山・関東出兵の要請を成功させた外交家の正木時茂だったが、このセレモニーの直後、5月に突然死去することになる。 彼がいなくなることで、取り次ぎ役を失った安房・上総勢は、やがて越後勢と齟齬をきたすようになっていくのだが、それはしばらく後のお話・・・。










☝・・・北関東より、佐竹氏と宇都宮氏。 名前が記録として正式に残っているのは佐竹義重の父・義昭ですが、『ixa』シリーズでキャラ絵が無いことと、orz、初陣を済ませた年齢であろうことから義重を掲示しました。


また宇都宮氏は、このころ佐竹氏の保護を受けていたので、ほぼその旗下としての参加だったように思われる。 広綱は病弱だったとも伝えられているが、彼はこの頃はまだ10代と若く病状もそれほど悪くなかったのだろう。 広綱のお嫁さんは義重の妹であり、彼らはほぼ同年代の義理の兄弟だった。









☝・・・『公方奏者』の簗田晴助。 事務屋的なイメージがある簗田氏ですが、この度の戦役では関東公方・足利藤氏の代理人として、”一般武将”よりは重要なポジションに位置していた。


・・・と、キャラ絵で目ぼしいものは大方これくらいであとは端折りますが、このように、この日の鶴岡八幡宮には関東の戦国時代を代表するような武将たちが一同に集っていたのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


この日の鶴岡八幡宮におけるセレモニーに参加していたのは、なにも武士たちばかりではない。 鎧を着こんだ集団の中に、公家の装束を纏った者が幾人か並んでいた。







☆『千万の覇者』より、近衛前久


☝・・・それが公家の近衛前久(このえ さきひさ)である。(このキャラ絵では戦闘チックな出で立ちですが・・・w)


前久は公家の世界において、最高の家格とされる近衛家の当主だった。 彼は戦国時代の気風に感化され、公家の当主としては異例なほどアクティブで武闘派だったと伝わっている。 彼がわざわざ関東の戦乱に首を突っ込んだのは、謙信の友人として公家の立場を活用し、京都方面の外交担当をするためにやって来たのだった。







☆『千万の覇者』より、絶姫


☝・・・関連で脱線ですが、こちらは近衛前久の妹の絶姫(たえひめ)。 関東出兵の前年、長尾景虎(謙信)は上洛して京の都に滞在しており、この時に景虎と近衛家は昵懇の仲となったのだった。


その際、景虎に嫁に貰ってくれるようにと話が上がったのがこの姫である。 景虎は自らの信仰のため、嫁を貰うことは丁重に断ったのだったが、絶姫は景虎を慕うあまり兄・前久に同行してはるばる越後までやってきたのだという。







☆『戦国炎舞』より、絶姫







さらに伝説の中には、絶姫は景虎の関東出兵(小田原戦役)のときに秘かに男装して従軍し、景虎の側に仕えたというものまである。


男装をした絶姫に景虎は心を動かされたが、w、やはり女性と付き合うということを絶対のNGとしていた景虎である、やがて絶姫は関東の戦場から越後へ帰されたと言われている。 彼女は悲しみのあまり、およそ1年後に亡くなってしまった・・・。 ( ;∀;)






☆『戦国炎舞』より、男装の絶姫






公家とは朝廷に仕えるお貴族様のことであるけれど、戦国時代の公家とは、持っている領地(荘園)のほとんどを武士・土豪に横領されたという歴史的な流れがあり、収入が激減してしまっていた。


高位の公家である近衛家もそれなりの品位を保つため、その生活は決して楽ではなかったようだ。 彼ら公家はそれぞれ昵懇の戦国大名を作り、そのコネクションを活用することで生きるすべを模索していた。 絶姫と景虎の悲恋話、そして近衛前久のキャラクターは、戦国時代における公家と武家の関係を象徴するエピソードのように思う。




(・ω・)(・ω・)(・ω・)


せっかくなので、戦国時代の武家と公家の関係について、もう少し脱線話を続けるかな。


先ほどは摂関家の一つの近衛家の話でしたが、この時期、近衛家以外でも積極的に戦国大名と関わった公家があります。 それが清華家の一つである三条家(転法輪三条家)だ。







☆『戦国サーガ』より、三条夫人(武田信玄の継室で正室)


☝・・・清華家(摂関家に次ぐ、高位の公家)の転法輪三条家は、細川晴元、武田信玄、本願寺顕如といった有力な大名、もしくは寺院勢力と婚姻を結んでいる。


先ほども触れたように、戦国時代の公家とは、持っている領地のほとんどを奪われてしまっていて、経済的な力はほとんど失ってしまっていた。 そして公家であるので、軍事的な力は経済力以上に持ちあわせていない。 それなのになぜ、細川、武田、本願寺などといった有力な大名は望んで非力な公家との婚姻を結んだのだろうか?







☆『戦魂~SENTAMA~』より、如春尼(本願寺顕如の正室)


☝・・・結論を言うと、公家は公家なりの力を持っていたということだろう。 言わばそれは、「武家が立ち入れない、朝廷における政治力」だとか、「日本古来からの伝統や、文化といった領域で発揮される力」と言えるのではないだろうか。


戦国時代の武家は、武力を有して地域を支配する権力者となっていたが、単なる武力による支配は暴力だと言えた。 つまりは、権力の正統性に関わる話だ。 その「武家の正統性の脆弱さ」を補強する役割を担ったのが、朝廷に仕える公家であった。


公家は武力を持たないことから、「麻呂」や「お歯黒」、「和歌」に「蹴鞠」と、こんにちでは柔弱なイメージで語られていることが多い。 しかし彼らは武家の正統性の手助けをする者として、地味だが彼らなりにキチンとした活動を行っていた。


武家と公家の関係は、それはまるで、陽と陰が互いに抱き合う巴紋のようだ。









(・ω・)(・ω・)(・ω・)


脱線から戻ります。


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した小田氏治

「フフー! 大軍勢の一員というのも、案外悪くないね!」


☝・・・鎌倉の地では北条方の襲撃に警戒しつつも、上杉謙信の関東管領就任を祝って宴が開かれていた。 季節は桜が咲き始めた頃である、そこで久しぶりに文化的な食事をし、歓談する武将たち。


この章の主人公・小田氏治にとっては、この戦役で功名を上げるような活躍はついにできなかったが、一流の戦国武将たちと交流を交わしたことはこの上ない、貴重な体験だと言えた。


「なんてゆうかね、時代がガチャリと変わった音がした気がするね!」 ・・・氏治の素直な感想である。


そう、関東における北条一強の時代は、上杉謙信の関東管領職就任をもって終止符が打たれたのだ。 北条軍は上杉軍とまともに戦うこともできず、臆病が過ぎるほど城に籠り続ける有様である。 関東の地は「義の人・上杉謙信」と彼が率いる「越後の義兵」の武威によっていずれ鎮まり、新たな秩序の下、平和を取り戻すであろう。


やがて謙信は足利将軍・義輝を援けるために上洛の作戦を開始、関東の諸将もそれに従い転戦を続ける。 謙信率いる東国連合は努力と苦難の末に京の都にたどり着いて、苦境の将軍を救出。 幕府はそれから再興され、新たな幕府の本拠地は東国・・・古河か厩橋、もしくは春日山で開かれる。 そして戦功を立てた諸将は幕府の要職に就き、煌びやかに天下の政(まつりごと)を取り仕切るのだ!


・・・そんな美しい夢想がいっとき、彼ら関東と越後諸将との間で共有されたのだった。 しかし彼らはやがて思い知ることとなる、夢想はあくまでも夢想でしかないことに。


とはいえ、今は春風に翻る「毘」の旗の下、咲きほころぶ桜にも似た勢いの、上杉ー東国連合軍なのであった。




(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。







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