2017年11月11日土曜日

戦国ixa(63+64鯖):極・於大の方さんを落札する!~キャラ絵小話・於大の方さん編~



ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/10/ixa6364_16.html
キャラ絵小話! 里見義弘さん編









☝・・・そういえば、しばらく前に「於大の方」さんが仲間に加わりました!
(^ω^)


今回はこの話を・・・。









☝・・・わたしは於大の方さんをカード取引所で手に入れたのですが、その時の落札額は
28万5000銅銭でした。 このカードがリリースされてまだ間もない時点でしたから、若干高めだったかもしれません。 でもまぁいいってことよ!










☝・・・ほくほく (^ω^)


このように、於大の方さんが加わったことで、「相手武将数が20以上だと必ずスキル発動部隊」の面子が揃ったのです。







と、いうことで、さっそくその実力のほどを確かめてみましょう! 検分の場は、「第一回天下統一戦」における敵盟主城攻めです。






☝・・・出ましたっ。 攻撃力110万~。 なお、赤☆で強調しているのがわたしの持ちキャラとなっています。


このように、「相手武将数が20以上だと必ずスキル発動部隊」は、単純に固有スキルをレベル10に上げさえすれば、攻撃力100万ほどの戦力となりました。


100万という攻撃力については、鯖の進み具合によってはいささか物足りなく感じることもあるかもしれません。 ですが、微課金勢のわたしからすれば、単純に固有スキルをレベル10に上げさえすればインスタントにこの攻撃力を獲得できるので、これは大アリだと思いますねー。







先ほどの使い方以外にも、




☝・・・「相手武将数が20以上・・・部隊」は、時折り、強襲要員としても活躍の場が見込まれます。 そう、敵さんが5部隊以上の合流で襲ってきた場合に対する、手堅いカウンターです。




☝・・・この面子だと、部隊コストが11.5と、なんとか強襲部隊の通常コスト上限:12をクリアすることができるのです。 強襲部隊の攻撃力は+25%と高くなっているハズで、この部隊の基本攻撃力は約34万と表示されています。


それでは、強襲部隊、発射~! ぽちっとな!
(・ω・)ノ









☝・・・うーん残念、この時は敗北ー。 (-_-)


とはいえ、被害兵数的にはこちらが勝っていますし、消費名声4からの獲得戦功:約1500pは、けっこういい感じです。


不思議なのは、この時に出た攻撃力が約250万と、通常の攻撃力よりも大幅にアップしていたこと。 いったいどうゆう計算式の結果、この数字が出たのかしら・・・。 よくわからんなぁー。 @@;




☝・・・てな感じで、於大の方さんカードは、ややピーキーなスキル持ちであるものの、使い所をわきまえればなかなか役に立つカードだと思いましたね! 購入できて良かったぁ。
(^ω^)







(^ω^)(^ω^)(^ω^)




☝・・・「御母の神意」・於大の方さんのキャラ絵をアップで。 ちなみに絵師は小森ニコさんと、『戦国ixa』においてレアリティ・極を中心にたくさんのキャラ絵を描かれている方だ。


ここからは個人的興味として、於大の方さんの伝記について追ってみることにしましょう。







☆『千万の覇者』より


☝・・・於大の方は言わずと知れた、松平元康・・・のちの天下人となる、徳川家康の母として知られている。







☆『グーグルアース』より


☝・・・そんな於大の方が生まれたのは、尾張の国の緒川城というところで、知多半島の有力な領主(国衆/土豪)であった水野氏の娘として生まれた。 より詳しく言うと、於大の方は水野家の統領・忠政と於富の方(おとみのかた)という女性の間に生まれた子だった。 なお、於大の方の生年は享禄元年(1528年)とあるので、今川義元よりも9歳若く、織田信長よりも6歳年上ということになる。







於大の方が生まれた頃、水野家は知多半島に強固な地盤を築き独自の勢力となっていたが、そんな水野氏と同盟を結んでいたのが三河の国・岡崎の松平氏だった。




☝・・・家康の祖父の松平清康と、父の広忠。 水野家は、清康・広忠と、松平家の嫡流2代にわたって嫁を送り出すなど、重縁な関係だった。


なかでも異色なのが、家康の祖父・清康に嫁いだ於富の方である。 於富の方は於大の方の母であるが、彼女は於大を生んだあと、水野忠政から離縁されて清康の下に再度嫁ぎ直したと言われている。 Σ@@ !?


そのいきさつはこうだ。 その当時、水野家と松平家との間で戦があり、勝った松平清康が水野家に講和の条件として付きつけたのが、美人として名高い於富の方を嫁として差し出す、ということだった。


家康の祖父・清康は、若くして三河の国をまとめ上げたほど傑出した人物だったと言われている。 でも、人妻を不自然なかたちで奪うようなこの行為はどうなんだろう。 少なくとも、現代感覚からすればちょっとアレですよね。 5年前なら「ワイルドだろぉ?」などと言って笑いを取れたかもしれないけれども、w、いまとなってはもはや賞味期限切れだ。









☝・・・たとえ傑出した能力があったとしても、エキセントリックな行動をする人物はトラブルが頻発しがちであり、おおむね短命だ。 松平清康は天文4年(1535年)にひょんな騒動をきっかけに家臣の手にかかって斬りつけられ、25歳の若さで横死してしまった・・・。


清康を盟主としていた三河の国では、リーダーを突然に失って大混乱。 松平家総領の座を巡って一族の間で争いが巻き起こり、完全な学級崩壊・・・ならぬ、家中崩壊となってしまった。 これが世にいう「森山崩れ」である。


以降、主体性を失った三河の地は西の織田信秀と東の今川義元の影響を受け、彼らの代理戦争の場へと荒れすさんでいく・・・。 (-_-)







☆『千万の覇者』より、松平広忠


☝・・・さて、「森山崩れ」があったとき、松平清康の遺児・広忠は10歳だったと伝わっている。 彼は少数の腹心と共に、つてを辿って三河国内外の居場所を転々とするなど、苦労の日々を過ごしたようだ。


やがて時は流れ5年後の天文9年(1540年)、松平広忠は今川義元の後援を受けて岡崎に領主として復帰した。 これは松平家・嫡流再興の快挙であったものの、実際のところは今川義元による三河国・間接支配のための傀儡として利用されたという側面が大きい。









☝・・・今川家の頭脳・太原雪斎と当主の今川義元。 非業の死を遂げた英雄・松平清康の遺児・広忠の後ろ盾となることで、まんまと西三河に今川家の影響力をより強化することに成功する。 その抜け目ない政略はさすがとしか言いようがない。










☝・・・さて、今川家の後ろ盾で岡崎に復帰した松平広忠は一人前の当主となるべく、ほどなくして正室を迎えることとなった。 そして白羽の矢が立ったのが、松平家と同じく今川家の影響下にあった国衆・水野家の娘、於大である。


やがて広忠は於大を正室に迎え入れた。 それは天文10年(1541)の時で、於大が13歳の時だと言われている。


13歳とは、なんちゅう幼な妻じゃあ! @@; と、ある種呆れたような印象を受けてしまうけれども、中世の武家社会においては、元服と同時に結婚が行われることはごく普通のことのようだ。


身分の高い女性の最大の仕事は、子供を産むこと・・・。 なので、早くに結婚させて仕事させなきゃ! と、当時はそう認識されていたのだろうか? とはいえ、女性の早すぎる結婚・妊娠はリスクが大きく、たとえば武田信玄の最初の妻はそれが原因で亡くなってしまったなど、健康的な問題もあった。







☆『天下統一クロニクル』より、於大の方



☝・・・しかし、そんな心配をよそに、於大は結婚1年後、めでたくも無事に男児を出産する。 のちの天下人・徳川家康の誕生だ。 なお於大は、男児を産むという大任を果たしたことと、母になれた嬉しさを、地元の寺に仏像・薬師如来像を奉納することで表現している。







しかし、運命とは残酷なもので、問題の無かった松平広忠ー於大の結婚生活に、突如破局が訪れる。




☝・・・天文14年(1544)のこと、於大の実家の水野家が、今川家を離反して織田家に属してしまったのだ。 今川と織田は何度も合戦を繰り返すなど、険悪な関係にある。 すなわち、今川家に属する松平家にとってみれば、於大は敵方の人間になってしまったのだ。







☆『戦国大戦』シリーズより、松平広忠


☝・・・この時の於大の夫・松平広忠の心境はどのようなものだったのだろう。 その驚きは心中察して余りあるものがあるけれど、彼の取った選択は於大の離縁という、バリバリのお家第一主義だった。


もちろん、今川家から内通の嫌疑を受ければ酷薄な今川家のこと、当主広忠をはじめ何人もの死者を出す事態になりかねない。 それを妻一人を離縁することで回避できれば、それに越したことは無い・・・そう考えたうえでの選択とも解釈できるだろう。 とはいえ、たいした葛藤のエピソードも残さずにあっさりと於大を離縁しているのだから、松平広忠という人物はあまり愛情深い人ではなかったと私は思う。







一方の、離縁を言い渡された於大である。





☝・・・このキャラ絵の於大の方さんは旅装をしていることから、恐らくはこの前後の、離縁にまつわるエピソードを意識して描かれたものだろう。


そう思って絵を見直してみれば、この於大の方さんは不本意な離婚・不遇な境遇を嘆くでもなく、また呪うでもなく、むしろ淡々とその運命を受け入れ、毅然とした表情で歩みを進める同時代の女性の強さ・逞しさが、ある種神々しくも昇華して表現されているように思える。


と、いうことで、絵師・小森ニコさんの描かれたこのキャラ絵は傑作ですねー!
(^ω^)b








☝・・・話を夫・松平広忠に戻そう。 妻・於大の離縁以降、広忠の運気は下降線の一途で、今川家に出すはずだった人質・嫡男の竹千代を戸田康光に裏切られて真逆の織田家に売り飛ばされたりなどとケチが続き、挙句はシッポを振って完全服従していたはずの今川家によって暗殺されてしまった(推定)。


松平広忠という人物は、仮にも後の天下人・徳川家康の父であるのだから、それ相応の優秀なDNAを持っていたことだったろう。 しかし、いかんせん今川の傘下を余儀なくされ、真の実力を発揮することができずにこの世を去ったのは残念なことだ。 彼の享年は24と、父・清康よりも1年早い早世だった。







☆『のぶにゃがの野望』より、於大ニャン



☝・・・さて、政治情勢の都合で実家に戻された於大はというと、3年間は水野領の刈谷で過ごしたのち、再婚の縁談があって知多半島は阿久比(あぐい)の領主・久松俊勝の下に嫁いで行ったようだ。


☆『グーグルマップ』より


☝・・・於大の生まれた緒川にほど近い、南西の方角に久松家の阿久比は位置している。 久松家は水野家よりもはるかに規模の小さい国衆であったようだが、今度の結婚生活は安定したみたいで、於大は久松俊勝との間に3男3女を儲けている。 う~ん、女性って強いなぁ! @@







☆『千万の覇者』より、徳川家康


☝・・・悪いものを出し尽くした運命は、やがて良い方向へと反転する。 於大の第一子・竹千代は健やかに成長して元康と名乗り、やがて桶狭間の戦いという好機を得て今川家から独立したのだ。


松平元康と織田信長は「清州同盟」を結び、これによって於大と元康の間には政治的に何の差し障りも無くなった。 伝承では、この時から元康は於大を母として迎えた、と言われている。 しかし、その母は久松の家に嫁いで別の家庭を持った後であるし、この時点での元康の身分は水野家と同格の小大名と、特別に飛びぬけた身分でもないことから、これは創作されたエピソードのように感じる。







☆『戦国大戦』シリーズより、於大の方



☝・・・松平元康の独立以降、於大の方のエピソードはぐっと少なくなっていく。 しかしそれもやむを得ないだろう。 於大の方はほぼ無名の、記録にほとんど残ることのない弱小国衆の奥方であったのだから。









☝・・・しかし、しばらくのちに、ふたたび於大の方の周辺で大激震が起こる。 天正3年(1576年)、於大の兄(腹違いの兄)である水野家当主・信元が織田信長によって誅殺、水野の家は滅ぼされたのだ。 なお、水野信元を実際に手を下したのは信長→家康の命を受けた、「毒饅頭」の平岩親吉と言われている。







☆『千万の覇者』より


☝・・・信長の過酷な誅殺命令はなお続く。 天正7年(1579年)、今度は家康の嫡男・信康とその母・築山殿(瀬名姫)が信長のデスノートにその名を書かれ、その意向を受けた家康は、泣く泣く彼らを家臣に命じて斬らせたのだ! (-_-)







☆『千万の覇者』より、織田信長


☝・・・これら一連の陰惨な事件は、信長の意向により家康が手を下していったもの、と通説ではそうなっている。


それらの事件の特徴は、


①誅殺された人物は武田と内通したと言われ、
②信長の命令によって、家康サイドが手を汚したということ。
③水野家領の知多半島と松平信康の岡崎領は接しており、ほぼ同じ地域であること。
④発生した時期が1576年に1579年と、近い時期であること。


などということから、水野家の誅殺と家康の嫡男・信康の誅殺は関連があるように感じます。 そもそも、先年の「長篠の戦い」において、織田・徳川連合は武田家の歴戦の猛将・精鋭を劇的に打ち破っており、もはや武田が脅威で無くなってからの内通嫌疑で、20万石級の大名である水野氏や信康を誅殺するのはいささか強引が過ぎるでしょう。 もしかすると、水野信元と松平信康は武田とは関係のない謀反の連携でもしていたのだろうか?







☆『戦魂~SENTAMA~』より、於大の方



☝・・・於大の方は不思議なことに、自分の実家、あるいは夫(久松氏)が深く関わりを持つ家が断絶するような事件があったにもかかわらず、この前後のエピソードはすっぽりと抜け落ちてしまっている。 単純に政治力が無く見守っていただけなのかもしれないけれども、おそらくは、後世で何らかの資料操作が行われたのは濃厚だ。 しかし、この疑惑には証拠もなく、一般人の私にはこれ以上手も足も出ないので、この辺りで撤収したい。


政治的な都合・・・いわゆる「大人の事情」のために命を奪われた、兄・信元や家康正室の瀬名姫、そして孫・信康の末路を、於大はどのような思いで見ていたのだろう。 とりわけ、瀬名姫に対する感情は複雑だったはずだ。 於大の最初の夫・松平広忠でさえ、妻の命までは取らなかったというのに・・・。









☝・・・心の痛みがあったとしても、日々の暮らしは続き、月日は積み重なっていく。 時はいつしか慶長7年(1602年)になっていた。


この頃には、於大の方の長男・家康はいつの間にか日本一の武家の統領となっていた。 かつては政治力の無かった於大の方も、最晩年のこの頃は年の功か、秀吉の正室・高台院(ねね)と会見したり、時の天皇に拝謁したりするなど、立派な夫人外交を行っている。


しかし、同年の8月、この時代にしては高齢のためか、於大の方は京都の伏見城で息を引き取ったのだった。 享年74。







☆官公庁系のサイトより、「於大祭り」


☝・・・最後に、於大の方は平成の今日では生まれた土地にちなんで、愛知県東浦の「緒川城址」にて祭りが行われているようだ。


思えば、於大の方とは、戦国の世の幕を引いた英雄で大政治家である徳川家康の、ただ一人の母である。 少なくとも織豊期~江戸初期においては、於大は寧々(秀吉の正室)や大政所(秀吉の母)に並ぶ「国母」のような存在であっただろうから、今以上、もっともっと知名度が上がって欲しいと思いましたねー!


と、いうことで、於大の方さんに思いを馳せながら、今回はこのあたりでお開きデス!
('◇')ゞ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。





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