2019年6月3日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(6)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa_29.html
キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編(5)









☝・・・蘆名家とれんみつ姫について! 今回は第6回目ということで、マイペースに話を続けていこう。







永禄年間の中頃から後半にかけてのこと。


蘆名盛氏と伊達晴宗との戦いは、二階堂領・須賀川を主戦場として数年間に及んだ。 そしてのち、その戦いは伊達家が蘆名家に娘を嫁がせることで和睦とし、同時に、二階堂家も蘆名家に人質を差し出すことで服従する、という結果をもたらした。


これはつまり、蘆名の力が伊達を上回っているという事実・・・奥羽一の大名とは蘆名家であるということを、その過程で証明した戦役だと言えるだろう。


もっとも、伊達氏からすれば、「ぜんぜん本気出していない!」などと言って、わたしの見解に猛反発してくるかもしれない。w 伊達氏は伊達氏で、蘆名氏との戦いのほかに、大崎・相馬氏といった「天文の大乱」に端を発した、不倶戴天の敵との戦いが続いていた。







☆官公庁のサイトより、南奥の勢力図


☝・・・蘆名が二階堂を制圧、ならびに伊達と和睦をするという結果を受けて、仙道(いまの福島県中通り地域)の諸武家は、軒並み蘆名に恭順することとなる。 おそらく、先の伊達との和睦では、仙道は蘆名の勢力下とする合意が交わされたのであろう。


本領の会津四郡に加え、仙道の諸家、そして越後の国・阿賀野川上流域。 いっぱしの戦国大名として恥ずかしくない、蘆名家の一大勢力圏がここに出現した。


とはいっても、蘆名の勢力は(うつろ)と呼ばれる、仲間意識で繋がった武家の連合体だ。 これは大きくは一つの勢力として見做せるものの、その内部にはさまざまな葛藤・軋轢があり、特に仙道地区の中小大名同士のいざこざに、蘆名盛氏は地域の盟主ということで武力介入・政治介入を行って、その統治に汲々とすることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛興と彦姫


☝・・・蘆名と伊達、両家の和平の象徴として彦姫が蘆名盛興のもとに嫁いだのがいつなのかは、記録が残っていないので分からない。 とはいえ、和睦が決められた永禄9年(1566)の年内か、あるいはその翌年のことだと推定されている。 盛興が22、彦姫が15ほどの年齢の時であった。


「合戦の結果、和睦の条件として娘を嫁がせる」・・・この事実は、娘を嫁がせる側の武家にとっては風下に置かれたことを意味していた。 この婚姻は、「蘆名>伊達」の図式を世間に示す、かっこうのセレモニーであったことだろう。


彦姫 「ふつつか者ですが、なにとぞよろしくお願いします」
盛氏妻「まぁまぁ、そんなに堅くならずに・・・私も伊達の女ですから」
盛氏 「うむ、これで両家は重縁、この絆を大切にしていきたいものだな」
盛興 「・・・グビグビ・・・(盛興は新妻を眺めつつ酒を呑んでいる)」


両家はつい先日まで戦いを続けていた仲である。 四者四様、にこやかな表情や温かな言葉とは裏腹に、それぞれ腹中で思うところはあったかもしれない。 けれども、この式はつつがなく無事に執り行われたのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


ここで脱線話を。


【戦国時代の武家の婚姻について】


☆『戦国IXA』より、彦姫


☝・・・戦国時代といった中近世の女性の結婚について、よく「まだ14、15かそこいらで政略結婚の道具にされるとは、当時の女性は可哀そう、不幸だ」などという文章を目にすることがある。 確かに、それは一つの解釈としてその通りだと思う。


しかし、当時の女性たちはそういった習わしを受け入れて、ごく普通のこととして嫁いでいったようだ。 それはまるで、現代の子供たちが成長すると進路を決めて、それぞれ不安があるなかでも進学していくように。







☆『のぶニャがの野望』より、せニャ


☝・・・生物として、ある異性を気に入るか否かという問題は、男女ともにお互いさまだ。


決められた結婚で苦労したのは、なにも女性ばかりではない。 松平元信(のちの徳川家康)瀬奈姫との結婚など、男性の側でも上位の権力者によって結婚が決められることは少なくなかった。 当然、下位者に拒否権は基本的に無い。


やはり結婚とは一つのきっかけであって、そこからの幸・不幸はそれぞれの事情に委ねられていた、といったほうがフェアであろう。







☆『のぶニャがの野望』より、新庄ニャン


☝・・・当時の武家の人たちは、強い身分意識があったと言われている。 家を興した先祖と長年にわたって守られてきた家門、そして自らに連なる血脈を、何よりの(ほまれ)としていたのだ。 男女を問わず、武家の人々の価値観とは、こういった言葉に尽きるだろう。 武家の結婚とは、誉れある自らの血統を再確認する儀式でもあった。


それなので、「当時の女性たちは政略の道具とされて不幸だ、可哀そう」というのは、現代人の価値観による感傷に過ぎないと、わたしはそう思っている。 なによりも、総じて女性とは、そういった逆境に負けずに今日まで命を繋いできた強さがあるじゃない、と。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話題を進めていこう。 彦姫が嫁いだと同時期に蘆名家に人質として差し出された、二階堂家の嫡男・次郎についてだ。


【二階堂家からの人質・次郎について】


☆『信長の野望』より、蘆名盛隆


☝・・・二階堂家の嫡男・次郎・・・のちに盛隆と名乗るこの少年は、ウィキペディアによると生年は永禄4年(1561)であり、その母は阿南姫(おなみひめ)だと記載されている。 その一方で、郷土本といった蘆名家についての書籍では、盛隆の生年は天文19・20年の辺りだとしているものもある。 その年月のずれは、なんと約10年。


次郎が蘆名家へ人質に出されたとき、ウィキペディアの記載に従えば、彼は4歳ほどの幼子ということになる。 その一方で、別説に従えば、14・5歳ほどのシャンとした少年になってしまうのだ。


中近世である戦国時代では、生年が不明の武将は少なくない。 しかし、生年の説に10年もの幅が出てしまうとは、いったいどういうことだろうか?









☝・・・ここで再度顔をのぞかせるのが、次郎の父・二階堂盛義の前室、蘆名盛氏の妹だ。 仮に次郎(盛隆)の生年が天文年間だとしたら、彼の母親は盛氏妹である可能性が高くなる。 片や、永禄4年の生まれであるのなら、母は阿南姫だと考えるのが妥当だろう。


・・・そう、通説で次郎の母は阿南姫とされているものの、実際には決定的な史料は見当たらず、「次郎の母は不明だ」というのが正確な言葉の使い方だ。


いろいろ端折って要約をすると、伝承や前後関係を勘案すれば、次郎の生年は永禄年間で母は阿南姫であるとする説に軍配が上がる。 その一方で、のちに蘆名家を継いだという事実を重視すれば、次郎の母は盛氏妹だと考えることも捨てがたい。 「血は水よりも濃い」という鉄板の価値観があるためだ。







☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・二階堂から差し出された人質・次郎(のちの蘆名盛隆)・・・。 地方史のマイナーな人物だとはいえ、彼はのちに蘆名家を継ぐ人物でもある。 そんな人物の生年が判明していないことが、わたしはやや奇異なことだと感じてしまう。


もう、もはやいっそ「盛隆は二人いた」などと言ってしまいたいところですが、w、それではトンデモ説もいいところなので、蘆名家の歴史を語ってきた諸先輩たちは首をかしげながら、その解釈に悩んできたわけだ。


彼にはすり替え・替え玉といった、何か謀略めいた秘密があったのだろうか。 それとも単純に伝承・記録が失われてしまって混乱しているだけなのか。 当ブログでは次郎の生年は永禄4年説に傾きつつも、謎は謎として断定的な解釈は行わないでおきたい。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、こんどは他家に目を向けてみよう。


☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化した佐竹義重


☝・・・常陸の国・太田の佐竹家である。


蘆名盛隆と彦姫の結婚が行われ、二階堂の次郎が人質として会津に送られたその当時、佐竹氏の事実上の当主・佐竹義昭は1年ほど前にすでに死去していて、その跡を嫡男の義重が継いでいた。 義昭の享年は35、その若すぎる死は過労が原因ではないかと言われている。


さて、そんな佐竹義昭という人物は強引な性格であったらしく、その領内の政治もその性格が色濃く反映されたものとなっていた。 義昭の強引な政治は、佐竹洞中に反動のエネルギーとして蓄積される。 そして彼の死が引き金となって、この頃の佐竹領内では反乱が噴出していた。


跡を継いだ義重は反乱の鎮定といった、父の負の遺産の清算といったことからその活動をスタートさせていたのだ。 のちに「坂東太郎」、「鬼義重」の異名を馳せる北関東の英雄の、静かなる活動開始の時刻であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「ほぉ、佐竹は内乱か・・・それなら我らは、足元の仙道を固めるとするか」


永禄の二階堂戦役が終わり、仙道から伊達の影響力が去って以来、蘆名盛氏はその地を強固な地盤とするべく、たびたび軍事行動を行っている。 その傍らには嫡男・盛興を同行させて、合戦の始まりから終わりにかけての大将の役割、振る舞い方、心構えなどを直々に伝授していったのである。


対石川氏、ならびに二本松氏。 いずれも中小の大名である。 蘆名家は、彼らを滅ぼすために戦うのではない。 戦って、勝って言う事を聞かせるために戦うのである。 これが戦国日本では特異と言われる「奥州的秩序」であった。


のこりの永禄年間、つづく元亀年間は、こういった活動を盛氏は取り組んでいったのである。 思えば、この頃が蘆名家の最も隆盛した時期であっただろうか。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで今回はこの辺りでお開き。 次回は天正年間、戦国日本の折り返し地点ともいうべき時代の蘆名家を語っていければ、と思っています。 次回をお楽しみに。
(´・ω・`)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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