2019年6月30日日曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(13)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(12)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら





☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、第13回目となります。 今回は、蘆名家の当主未亡人・彦姫の新たな婿として、二階堂家の人質・次郎が指名されたところからスタートしよう。







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☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・天正2年(1574)、あるいはその翌年のこと。 会津の隠居・蘆名盛氏は、嫡男・盛興の死を受けて苦心の末、蘆名家長久の策を定めた。 その骨子が、


・蘆名の嫡統は盛興の忘れ形見・れんみつとし、彼女が成長したのちに女子相続させる。
・当主未亡人・彦姫は盛氏の養女となり、家中では盛氏に次ぐ地位とする。
・彦姫には婿を迎え、その者に「陣代」、当主の務めを代行させる。


☝・・・この3点である。 これは盛氏が蘆名家の中枢、重臣のみに打ち明けた方針であった。


なお、これは通説とは異なる見解が含まれているのでご批判を受けるかもしれない。 ただ、その根っことなるのは、(女系とはいえ)自らの直系、孫が可愛かった」という、盛氏の人としてあまりにも自然な感情があったのではないかという推測に基づいている。 今後はこの仮説に従ってお話を進めていきたい。







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【れんみつ姫出生の謎】~蘆名家マニアックス~




☝・・・れんみつ姫の出生には謎が多い。 なお、謎と言ってもそれはミステリーという意味ではなく、ミッシングといった部類だ。


まず、れんみつ姫の両親はだれか? というそもそもの前提が確定していない。 彼女の父については蘆名盛興で、やがて二階堂次郎(のちの蘆名盛隆)の養女になったという説が有力だ。 また、異説もあるにはあるようだ。


そんなところ、中学教諭で郷土史家の林哲先生が昭和50年代に書かれた書籍によると、そこにはれんみつ姫の享年が載っており、逆算をするとれんみつ姫の生年は天正4年(1576)となり、父が盛興であるという説が微妙になってしまう。 そう、盛興は天正2年、あるいはその翌年に亡くなったとされているからだ。


ただ、れんみつ姫が天正4年(1576)に生まれたのが真実だとして、盛興の死去が天正3年中、そして亡くなる直前のタイミングで彦姫が子種を宿したとすれば、ギリギリセーフで仮説の整合性が取れる。 こういったことも、失われた物語としてあったかもしれませんね。 (ただし、「数え年」ならアウトになってしまいます)


また、れんみつ姫の母についても、「その母は誰々だ」とハッキリ明言した史料が見当たらないことから、これも彦姫だと断言することはできない。 盛興が彦姫と結婚したのは20歳を過ぎて数年が経った頃で、その時に盛興には側女・妾といった女性がいた可能性があり、そういった女性がれんみつを生んだかもしれないからだ。


と、このように疑いだしたらキリが無いのですが、れんみつ姫の両親が盛興ー彦姫であることを積極的に否定する資料もまた見当たらないことから、ここは穏当に通説に従うことにしよう。







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さて、お話しは元に戻り・・・。


☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


二階堂盛義 「ひょえー! ワシの嫡男が、蘆名の御台様の後釜の婿になる、だとぅ・・・!?」


蘆名当主の未亡人・彦姫の新たな婿に二階堂家の嫡男・人質の次郎が指名されたという事実は、晴天の霹靂、それも巨雷が落ちたかのように会津盆地に轟き、瞬く間に周辺へとその風聞は広まっていった。 


このことは傍目には、蘆名家の嫡統が二階堂家に移ったと見えることから、蘆名盛氏の長久の計画を知らぬ人々はこの決定に、「とうとう盛氏公は耄碌なさったか、嫡庶の順、血の濃い薄いも分からなくなってしまったとは・・・」などと悪しざまな噂をした。


その悪しざまな噂は批判の風聞となって、蘆名の家中・洞中、そして周囲の大名の今後の動向に影を落とすことになるのである・・・。







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☆『戦国サーガ』より、姫化した二階堂盛隆


☝・・・次郎と称する二階堂家の男子が、蘆名家に人質として預けられたのは永禄9年(1566)、蘆名と伊達との戦いーーー須賀川戦役終結以来のことである。 そんな次郎には生年の説が二つあり、それぞれの説によれば10年ほど年齢の幅が出てしまうことは以前にお伝えした通りだ。


そしてこのブログでは、いろいろな観点から次郎の生年は永禄4年、そしてその母は二階堂盛義の後室・阿南姫(おなみひめ)という仮説のもとにお話を進めている。 仮説ばかりで申し訳ありませんが、蘆名家ならびに東北の小大名の歴史とは、仮説を立てずしてそのお話をすることは不可能だ。 そうでもないと、断片的な事実の羅列に終始してしまうだろう。







☆『信長の野望』シリーズより、蘆名盛隆


☝・・・そんなこんなで、二階堂の次郎は、幼少の頃から蘆名家の黒川城で人質として過ごしていた。 人質に出されていたということは、人質になるだけの価値があるということで、彼はまぎれもなく二階堂家の嫡男であった。


そして、成長するにしたがって彼は「剛毅な武将の片鱗」を周囲に見せていったと言われている。 蘆名家は方々から人質を取っていたハズなので、その大勢いた人質の中からどのようにして次郎が注目されるようになったのかは、これも「失われた物語」で今となっては定かではない。 しかし、何かしら注目されるような出来事があり、そこから蘆名盛氏の目に留まるようになったのだろう。







☆『戦国サーガ』より、姫化した蘆名盛隆


☝・・・目に留まる、といえば、次郎(のちの蘆名盛隆)は美少年であったと方々の伝承でそういわれている。 その祖母が「東北無双の美人」と讃えられた久保姫であったから、その血が濃くこの少年に表れたのかもしれない。


(なお、蘆名盛隆のゲームのキャラ絵をいろいろと見てみましたが、姫化したキャラ絵ばかりで、どうも美少年のキャラ絵というのは見当たりませんでした。 需要が少ないのかしら・・・w)


それはさておき。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


盛氏 「次郎よ。 そなたには余人に代えがたい剛毅さが備わっておる。 その剛毅さ、武勇を見込んでの婿の指名だ」


このように、二階堂の次郎は蘆名家の未亡人・彦姫の婿として、蘆名盛氏の鶴の一声できまったのである。


盛氏 「そなたの諱(いみな)を考えてきたぞ。 盛隆、である」
次郎 「もりたか、ですかーーー確かそれは・・・?」







【盛隆の諱(いみな)考】


さて、どうして次郎は盛隆の名に引っかかったのだろうか。


確証はありませんが、どうも「もりたか」とは、蘆名盛氏の祖父で、戦国時代の初期に活躍をし、戦国大名としての蘆名家の基盤を整えたとされる「13代・盛高」の名にあやかったと思われるのだ。







☆『千万の覇者』より、伊達政宗


☝・・・「先祖の名前にあやかる」ということは、武家社会では時おり見られる事例だ。 その中で最も有名なのが「伊達の政宗」だろう。


戦国時代、伊達氏は代々足利将軍の偏諱を賜っており、両家の結びつきは強かった。 伊達家当主の諱は直近で「稙宗」「晴宗」「輝宗」と続いており、足利将軍家が盤石であったなら政宗は「昭宗」とでも名乗ったのだろうか。 しかし、当の足利将軍家が没落してしまったために、父である輝宗は期待も込めて偉大な先祖・8世政宗の名にちなんでその諱を決めたという訳だ。







盛氏 「そう、「もりたか」とはわたしの祖父の名だ。 さすがに同じ字は憚られたが、その名を背負って、これからの蘆名家を引っ張っていってくれ」

次郎 「盛隆ーーー勿体なく存じます!」


蘆名家の「盛隆/盛高/もりたか」も、偶然に読みが同じとなったのではなく、明らかに意識をしてその諱を決めたのだろう。 こういったことからも、蘆名盛氏が盛隆に対して並々ならぬ期待をしていたことが伺える。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


☝・・・こうして、蘆名盛興が亡くなってから1年ほど経ったのちに二階堂の次郎は元服、「平四郎(へいしろう)・盛隆」を名乗る。 また、ほぼ同時期に彦姫との婚儀が執り行われ、彼は婿として蘆名の家に入った。


このとき盛隆は15歳、彦姫は20代前半だと思われる。 複雑な事情のもとに成り立った、姉さん女房な夫婦だった。


彦姫  「次郎様・・・不思議な成り行きですが、どうか宜しくお願いします」
盛隆  「御台様。 母も驚いておりました・・・えー、今後名前は何とお呼びすればw」
れんみつ「ダー! (赤子のれんみつは笑っているようだ)」
盛氏  「うむうむ、亡き盛興に代わり、立派に務めを果たしてくれよ・・・」







このように、天正4年(1576)の頃、蘆名家は二階堂家の嫡子・盛隆を婿として迎え入れた。 盛隆は元服後間もない、初々しい若武者である。


盛隆は、蘆名家の婿に入ることで周囲の強敵と戦う宿命を背負った。 いや、背負わされた。 蘆名盛氏に将来の大器を見込まれたとはいえ、経験の乏しい10代半ばの若者に蘆名の家を守ることができるのだろうか?


戦国の世は「待った」をかけても優しく応じてはくれない。 悲しいかな、このとき、頼りにするべき会津の大磐石・盛氏の命の蝋燭は、残りわずかとなっていたのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と!いうことで、今回はこの辺りでお開き。 次回は盛隆の統率する、新生蘆名家について追っていきましょう。


をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年6月24日月曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(12)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム

関連する前回
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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(11)

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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、第12回です。 前回では中間のおさらいが済んだところで、今回は蘆名家の現当主・盛興が亡くなってからの蘆名家について追ってみよう。







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☆『千万の覇者』より、蘆名盛氏


☝・・・天正2年(1574)、あるいはその翌年のこと。 会津の隠居・蘆名盛氏は深い懊悩の中にいた。


その悩みとは他でもない、蘆名の嫡流男系が途絶えてしまったことの落胆と、今後の蘆名家の展望についてだ。


盛氏 「蘆名の家を継ぐ者が必要だ。 だが・・・」







蘆名の家を継ぐ者。 そうはいっても、なかなかそう簡単に決められるものではなかった。 それというのは、盛氏に子は二人しかおらず、そのうちの男子・盛興が亡くなってしまったことはすでにお伝えしたとおりだ。


盛氏のもう一人の子・・・娘はというと、すでに白川結城家に嫁いで他家の人間となってしまっている。 そのうえ、その夫である小峰義親は佐竹の虜囚となり、その軍門に下るなど、その時点で蘆名の名跡を継ぐのに不適当であった。







盛氏 「と、なると、一門の中から選ぶのか・・・」


盛氏の次なる考えは、蘆名の宗家に近い一族の中から後継者を選ぶということである。 ・・・だが、残念ながら蘆名家にはそのような適格者はいなかった。 そもそも、蘆名家ではここ数代、生まれてくる男子の数そのものが少なかったのだ。


なお、盛氏には腹違いで庶流の兄が一人いたが、その兄は数年前に謀反を起こして粛清されたといういきさつがある。 そういった経緯からも、兄の系統に家を継がせることは不適当だと思われた。







盛氏 「うーむ、では連枝衆はどうであろうか・・・」


連枝衆とは金上、針生、猪苗代といった会津蘆名家中の重臣たちの家である。 彼らは遠祖を蘆名の宗家と同じくする、ともに平氏の血を引くまぎれもない同族だ。 ただ、戦国時代に入ってからは、彼ら連枝衆は蘆名家中の臣下であると位置付けられており、その中から嫡流を継がせるということは、家中の秩序を保ち続ける上で好ましいことではなかった。


盛氏 「なんと、蘆名の家を継ぐ者がろくに見当たらないとは・・・」


ここで盛氏の思案は暗礁に乗り上げてしまった。 しかしそれも仕方がないことであろう。 蘆名宗家を継ぐにあたって血の濃い薄いという問題よりも、「戦国の世を乗り切るための、棟梁としてふさわしい器を持つ者が見当たらない」という次元の違う問題があったからだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




彦姫 「おお、よしよし・・・」
子供 「ほぎゃあ、ほぎゃあ」


☝・・・蘆名盛氏が家督の相続について思案をしているところに、ふと、遠くから赤子の声が聞こえてくる。 元気な、女の赤ちゃんの泣き声だ。


盛氏は母子に近づき、赤子を抱え上げてはその顔をまじまじと眺めてみる。 「れんみつ」と名付けられたその赤子は、祖父に抱きかかえられてニコニコと笑っていた。


盛氏 「・・・そうか、そうだな。 この子にすべてを託すとするか」







盛氏の描いた絵はこうだ。 亡き嫡男・盛興の忘れ形見、今は生まれて間もないれんみつ姫を成長させて婿を取ったのち、生まれてきた男子を蘆名の跡取りとしよう。 それでいいではないか。


盛氏 「彦姫よ、わしは決めたぞ。 蘆名の嫡統はこの子に継がせると」
彦姫 「お義父さま・・・」







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【女子相続について】


戦国時代を含む、中世の時代は男性中心の社会であったと言われている。 そして中世では男子が原則として家を継ぐという決まりがあった。 ・・・しかし、それはあくまでも原則であって、必ずしも100%そうであるとは限らない。 その例外と言えるのが「女子相続」だ。







☆『信長の野望』シリーズより、井伊直虎


☝・・・NHK大河ドラマ『女城主 直虎』で有名になった井伊直虎や、九州の立花道雪の娘・誾千代、同じく九州の島津家・亀寿姫など、戦国時代には家督を事実上相続した女性が複数いたことが知られている。


その特徴は、大名当主に家督を継ぐ直系の男子がいない場合、女子(娘)に家督を継がせて、その婿(夫)に当主の務めを代行させるという点にあった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、立花誾千代


☝・・・「は? 立花家・道雪の跡を継いだのは宗茂で、島津義久の跡を継いだのは忠恒だろう?」 ・・・と、私もはじめそう思っていましたが、まじめな歴史研究によれば、どうもそういった例は「女子相続」といって、先ほどの例では宗茂・忠恒は単なる婿さん・当主の代理人という位置づけであって、奥さんよりも身分は低かったようなのだ。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、島津亀寿


☝・・・このように、「嫡流」という考え方も、家を継ぐ男子がいないといったやむを得ない状況においては、「女子相続」という家の継ぎ方をさせて、戦国の武家は「箱である家」と、その「中味となる血」を守ってきたのだ。


「女子相続」とは、やむを得ない処置であり、戦国時代の当時はたまに見られる相続方法であったものの、江戸時代から浸透する「儒教的価値観」によってやがてそれは「あってはならないこと」と見做され(→儒教の考え方は、徹底して男尊女卑だと言われている)、やがて江戸幕府の政策として「武家の女子相続」は全面的に禁止されることになる。


そういった背景により、かつて行われていた武家の女子相続の事実は伏せられ、無かったこととして隠蔽されて、今日のわたしたちの歴史観に影響を及ぼしているのである。


戦国時代の女子相続については、レアケースならではの考察の難しさも相まって、未だ解っていないことも多い。 これからの研究の発展を見守っていきたいですね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、蘆名止々斎


☝・・・蘆名の現当主・盛興の死からほどなくして、隠居・盛氏は家中の重臣一同を集め、蘆名家長久の計画を披露した。


盛氏 「まず第一に、蘆名家の嫡統は盛興の子・れんみつ姫である。 ならびに、その母・彦姫をこのたびわたしの養女として改めて迎え入れ、れんみつの保護者として家中での地位を保証しよう。 つづいて・・・。」


盛氏 「彦姫には婿を取らすことにする。 その婿が蘆名当主の当面の代行者として、軍事・政治の表向きのことを任せよう。 その者は・・・、」


盛氏 「・・・二階堂の次郎が宜しかろう!」


座に居合わせた一同は固唾を飲んでこれを聞き、そして一斉にどよめいた。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛隆


☝・・・こうして、彦姫の婿として指名されたのが、二階堂家から蘆名家に人質として預けられていた少年であったのだ。 まさかの奇手、あっけにとられる意外な一手とはまさにこのことか。


この時点で、次郎と呼ばれるこの少年は元服前の童形であり、いまだその諱(いみな)を持っていない。


のちに盛隆と名乗るその少年についての詳しいあれやこれといったことは、次回のお話にすることにしよう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで今回はこの辺りでお開き。 次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


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2019年6月23日日曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(11)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(10)

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☝・・・シリーズ第一回はこちら





☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編の11回目です。


前回ついに登場したれんみつ姫。 このシリーズの今までのお話は、彼女が出生するまでのいきさつとその時代背景、大名同士で繰り広げられた戦いと因縁、勢力関係を説明するための長い前フリでした。


わたしがその長い前フリの中で言いたかったポイントは4つあって、







☆『戦国ixa』より、蘆名盛氏


☝・・・一つ目が、れんみつ姫の祖父、蘆名家中興の祖である盛氏の人物像と、蘆名家の軌跡。







☆『信長の野望』シリーズより、伊達晴宗


☝・・・二つ目が、奥羽において蘆名家を上回る権威を持つ、伊達氏の存在感。








☆『千万の覇者』より、佐竹義重


☝・・・三つめが、北関東の雄、常陸の国・太田の佐竹氏による奥州進出。







☆『信長の野望』シリーズより、二階堂盛義


☝・・・そして最後の4つ目が、二階堂氏や白川結城氏など、主役を張れないながらもどれ一つとして欠かすことのできない名脇役的、奥州の各地方で割拠している中小の大名たち。


こういった4者が、







☆グーグル検索より、伊達氏の血縁関係について


☝・・・伊達氏を中心に、地域の大名たちがそれぞれ血縁関係、養子関係を結びあって、さながら密教の曼荼羅図のような、複雑で難解な相関関係を作り上げていたことの、その一端を皆さんと共有したかったのだ。







歴史というものは、教科書のまとめや大学の入試問題の模範解答のように、200字程度で纏めてスマートな解説をすべきだという考え方が世の中にある。 その一方で、わたしはそれに対して「どこか違う・・・」と感じてしまうタイプなので、蘆名家の歴史についても、いろいろな逸話や関連話、脱線話を繰り返しながらつらつらと書き綴ってきたというわけだ。


わたしの思いはさておき、中間のまとめとなりますが、今までのポイントが先ほどの4点ということなのです。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、れんみつ


☝・・・このシリーズのお話しはれんみつ姫の出生によって、「起承転結」の承から転へと入って行くことになる。


しかし、そのれんみつ姫はというと、いまだ乳飲み子の年齢で、まだまだキャラ絵のように成長するには、もうしばらくの時を待たなければならない。 それまでの間も、世の中の状況は刻々と変わっていくわけで、そういったお話を今までのようにマイペースで続けていこう。


皆さんにおかれましては、どうかこの続きもご一緒していただけたら幸いです。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と、いうことで、今回はお話が進まなくて恐縮ですが、いったんシメとさせて頂きます。


次回につづくー!
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


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2019年6月19日水曜日

【戦国ixa】意味は無くともイッキ引き!(令和元年6月度)(ワールド4+5)

ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/04/ixa_25.html
「花びら集め」イベント、開催される!







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


どうも、おはこんにちこんばんは! 最近は蘆名家の歴史記事ばかり書いているブログ主です。
(^ω^)


わたし的に、最近どうもオンゲ界の物欲が滅却してきているようで、夢がいっぱい詰まっているハズの「天戦チケット」「天上チケット」もろくに引かずに、放置されたままそれなりに貯まってきていることにふと気が付いたのです。









☝・・・むむー。 各種チケ、けっこう貯まってきていますね。 貯めに貯めてからのイッキ引きをするのがマイフォームですけれど、これ以上は少し貯めすぎといえるでしょう。









☝・・・なので、ちょうどその日は「IXA占い」の数値が「5・5・4」という調子の良さげな日でもあったことから、気まぐれでチケットを引いてみることにしました。


ご予算は5枚!


エアプレイヤーと言われないためにも!


「IXA占いで運のいい日はくじ運もいいかな?」検証も兼ねて!


「天戦」5枚引いチャイナ!
(`・ω・´)つ ポチ


一枚目ー!









☝・・・安定のちえ!







二枚目ー!









☝・・・ん!? 光ったぁー。









☝・・・おや、NEW! これは・・・@@


「隼人演武」の円信院殿さん! 「鉄砲商人」のスキルに攻撃が付いたヤツですね。 コスト2なので少し使いづらいという評判な一枚ですw


てゆうか、このカード、どのように使ったらいいのかな?w まさか自分に「鉄砲商人」系のカードが手に入るとは思っていなかったから、いま軽くパニック状態になっています @@;







円信院殿さんのことは一旦おいておいて、次、行きましょう。


3枚目!









☝・・・ちえー! 鉄板のちえ!







4枚目ッ!









☝・・・またちえ・・・。 ちえちゃん、もう黄色い声援はいらないから、ね・・・。







今回のご予算、最後の5枚目ッ!









☝・・・(`・ω・´)・・・。


も、もうお腹一杯です・・・









☝・・・(`・ω・´)・・・。


ま、今回の天戦5枚引き、結果はちえ4、シクレ極1で「ちえ率80%」でしたけど、シクレ極が出てくれたことはありがたかったかな?


うーん。 やや敗北感はありますが、そういうことにしておきましょう・・・


結論:IXA占いが良いからと言っても、くじ運とは関係なしッ!


(つづく)




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2019年6月18日火曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(10)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(9)

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☝・・・シリーズ第一回はこちら




☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は10回目ということで、蘆名ー佐竹の白河戦役が終わってからの蘆名家について語っていこう。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・元亀年間から始まった白河戦役の終盤、蘆名方は佐竹方の攻勢に押されていた。 やがて白川結城家の事実上の当主・隆綱(のちの義親)が捕縛されることで同家は降伏、係争地の白川領が佐竹領となることでこの戦役は蘆名方の敗北に終わった。


その結果、石川氏や田村氏が佐竹氏に靡くなど、仙道南部における佐竹氏の影響力がいっそう大きくなることになる。 しかも、佐竹氏の攻勢はこれだけではとても終わりそうになかった。


と、思いきや、







☆『戦国大戦』シリーズより、北条氏政


☝・・・その佐竹氏の進撃にブレーキをかけたのが北条氏政である。 関東の雄・北条氏康の跡を継いだ氏政と、彼を総帥とした北条軍が、このころ佐竹氏に対して本格的な攻勢をかけてきたのだ。


北条氏と蘆名氏とは同盟関係にあり、これまで共同作戦が行われたこともあった。 このタイミングでの北条の北進は、もしかすると蘆名の要請によるものかもしれないが、それを裏付ける史料は見当たらない。


北条軍は氏政の弟・氏照を総大将として下野の国・小山氏や下総の国・簗田氏といった佐竹氏と親しい勢力に次々と攻め入り、そのいずれの戦場でも優勢であった。 そのために佐竹義重は対応に追われ、南奥へのさらなる侵攻はいったんお預け状態となったのだ。


南からの思わぬ援護を受けることで蘆名家はひとまず虎口を脱し、態勢を整える時間を得ることができた。 そのような状況であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、時の流れは少し行き違ってしまいますが、佐竹氏が白川領を占領した辺りか、あるいはその直前である天正2~3年(1574~1575)の頃のこと。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛興


盛興 「グビグビ・・・


ゲホッ! ゲフッゲフッ! ヴっ・・・、!?」







ーーーなんと、蘆名の現当主・盛興が20代後半で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。 その年齢があやふやなのは、いくつかの資料でバラツキがあるためだ。 この訃報に彼の妻・彦姫、父母である盛氏夫妻をはじめとした家族、そして蘆名家中ならびに領内の人々は悲しみに暮れた。


彦姫 「うぅ…。盛興さまの具合が悪いのは知っていました。でもこんな事になるなんて;;」

盛氏 「親より先に死ぬヤツがおるか・・・なんちゅう、なんちゅう馬鹿もんじゃ・・・」







彼の死について、蘆名家の家譜・家伝は詳しい記述・伝承を残さず、唯一、家臣の富田氏の史料だけが盛興の死因は「酒毒に因るもの」と伝えており、これを受けて通説では盛興はアルコール中毒によって死去したとされている。


盛興の死因・アルコール中毒について、これが急性なのか慢性によるものなのかは、今となっては知るよしもない。 ただ、盛興は今までの合戦に出陣していたようであるし、また彼がここ数年病弱であったという記録もないことから、急性の中毒であったかもしれない。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【戦国武将と酒】


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した福島正則


☝・・・蘆名盛興は酒をこよなく愛したわけであるが、盛興以外にも酒好きで知られる戦国武将は数多い。 そのなかでも無類の酒豪として有名なのが福島正則で、酒に関する逸話として母里太兵衛との「呑み取り・名槍日本号」の一件がよく知られている。


そのほかにも、上杉謙信が辞世の句で 「一期の栄え 一杯の酒 四十九年 一酔の間」 と詠むなど相当な酒好きであったことや、長宗我部元親も自らが定めた禁酒令を自ら破ってしまうなど、酒好きな武将とその逸話は枚挙にいとまがない。


それというのは、日本酒の醸造技術は時代を追うごとに徐々に発達していって、どうやら戦国時代には随分と旨い酒が市中に出回っていたようなのだ。







そのキーの一つが「清酒」の登場である。 そう、日本酒はもともと「どぶろく/濁り酒」であったと言われている。 通説では、濁り酒が清酒になることを発見したのは江戸時代のこととされているものの、それはあくまでも伝説であって、戦国時代にはすでに清酒/澄み酒が存在していたことは史料の上で確認されている。


二つ目のキーが、醸造周辺での技術革新・・・「大型の桶の登場」だ。 酒の仕込みについて、それまでは焼き物の甕(かめ)によって酒は仕込まれ、その量はせいぜい1~2石(一石=180ℓ)だったところを、大型の桶は一度に10石ほども仕込むことができて、酒を大量に醸造することができるようになったのだ。


この背景には、大工道具の「鉋:かんな」の伝来・普及が関わっている。 なんと、以前の日本には鉋が無く、板を作るのにも手斧(ちょうな)や槍鉋を使っての大変手間のかかるもので、しかも精密に作ることは難しかったという。 それが鉋が普及することによって精緻な板の製造が容易となり、その技術を発展させて大型の桶が作られるようになってきたというわけだ。


このように、複数の要因が重なって、今日に続く旨い日本酒(清酒)の礎は戦国時代に整っていったと言えるだろう。







☆『鬼武者ソウル』より、蘆名盛興


「酒は飲んでも呑まれるな」。 そういった格言が戦国時代にあったのかどうか私には分かりませんが、旨い酒のために蘆名盛興は命を縮めてしまった。 これは酒による失敗の最悪のパターンとも言えるが、愚かなゆえにかえって人間らしく、なんとも大らかな盛興という武将の素顔がうかがえるだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『のぶニャがの野望』より、ネコ化した蘆名盛氏


☝・・・蘆名盛興がこよなく愛した酒が清酒なのか、はたまた濁り酒であったのかは定かではない。 そもそも奥羽の地域において、当時どんな酒が出回っていたのかといったことも不明だ。 とはいえ、地産地消的な酒の生産と消費だったことであろう。


そんなところ、かつて蘆名盛氏は領内で2度ほど「禁酒令」を出していて、これは盛興の酒好きを戒めるための政策だったと考える史家もいるようだ。 しかし、わたし的にこれは直接関係が無いように思う。


というのは、日本の酒は米など穀物から作られていて、酒を造った分だけそういった穀物は減ることとなり、結果人々はその分飢えるからだ。 戦国時代は飢饉の時代とも言われており、決して食料が豊富ではなかったのだから、そういった時代では嗜好品を作ることは基本的には後回しにされる。 蘆名家の禁酒令は単純な食料政策として行われたのだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛興と彦姫


☝・・・このように、蘆名盛興は天正2年(1574)、あるいはその翌年に亡くなった。 そして、盛興の妻は伊達氏出身の姫・彦姫であるということはすでにお伝えしてある通りだ。


この夫婦の間に子供はいなかったのだろうか? 蘆名家について書かれたある資料では、彼らに子供は居なかったと言っている。


しかし、別の資料ではたった一人の姫がいたとも言われている。







☆『戦国ixa』より、れんみつ


☝・・・その、たった一人の姫というのが誰あろう、このシリーズのテーマであるれんみつ姫だ。


我ながら苦笑してしまいますが、今までが前フリ、知っておくべき蘆名家の前提知識ということで、皆さんを巻き込んで話を展開してきたというわけだ。


しかし、そんなれんみつ姫は、蘆名盛興が亡くなった時点ではごく幼い子供・幼児だったと思われるものの、いくつかの謎が彼女の周りを取り巻いている。







そういった謎についてはおいおい語っていくことにして、今回はこれにてお開きにしましょう。 次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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