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2019年11月9日土曜日

【日本史】戦国の冬山登山!~佐々成政のさらさら越え~キャラ小話!シリーズ~

日本史コラム


☆サイト『痛いニュース』2019年10月の記事より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1995327.html


☝・・・そういえば先日、動画配信をする人が軽装での富士登山を強行して、その結果不幸にも亡くなってしまったといった事故がありましたよねぇ。


こういった冬山登山・遭難系のニュースを聞くたびに、日本史好きのわたしが思い出すのが、「さらさら越え」の佐々成政(読み:さっさなりまさ)だ。


と、いうことで、今回は「さらさら越え」をお題に駄弁りを展開していこうジャマイカ。


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☆『信長の野望』シリーズより、佐々成政


☝・・・まずは佐々成政という歴史人物の説明からはじめよう。 佐々成政とは戦国時代の武将で、戦国の覇王・織田信長の家臣として知られている。


そんな成政はゲーム的には鉄砲の特技・適性に秀でており、総じて「なかなか使えるキャラクター」といった立ち位置を獲得している。 とはいえ、世間一般的にはマイナーな武将であると言えるだろう。


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☆『千万の覇者』より、佐々成政


☝・・・この佐々成政という人物は、どうも前半生の記録が少ないようだ。 とはいえ、明智光秀や羽柴秀吉のようにほとんど分からないといったレベルではない。


そもそも、成政の実家である佐々家は近江佐々木家(六角家・京極家の祖)の庶流とされていてる。 それがいつの頃からか尾張国・比良に土着し、はじめは斯波家に、次いでは織田家に仕えるようになっていた。


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☆『戦国姫譚Muramasa』シリーズより、姫化した佐々成政


☝・・・佐々成政には兄弟が多かったようだ。 ちなみに、成政は第5子であるといわれ、長兄の政次とはおよそ13歳年が離れている。 この佐々兄弟はともに織田家に仕えており、それぞれ武勇に秀でた者たちであった。


なかでも成政は信長に目をかけられ、永禄元年(1558)、23歳のときに鉄砲隊の指揮を任された。 それは軍事的なことだけに留まらず、尾張国における鉄砲本体の製造・調達、玉薬の確保といった、鉄砲隊の運用全般を任務としたものであったらしい。


織田軍の真価は鉄砲隊にありーーーこれは今日における織田軍の評価ですが、織田軍の最精鋭である鉄砲隊の運用を佐々成政は背負い、信長の期待を見事に応えていたのだ。 こういったことからも、佐々成政という武将は単なる猪武者ではないと言えるだろう。


このように頭角を現した佐々成政は、やがて佐々の家督を継ぐことを許され、信長の親衛隊・黒母衣衆の筆頭に抜擢されるなど、信長家臣団において地味ながらも着実な出世を遂げていく。


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☆『戦国大戦』シリーズより、佐々成政


今回のメインテーマは「さらさら越え」なので、少し端折って話を進めよう。


佐々成政の主君・織田信長が横死を遂げた天正10年(1582)、このとき成政は織田軍・北国勢の一員として越中国の富山城主を務めていた。 成政は敵である上杉軍との最前線に位置しており、自らの本拠地を固めるために、「本能寺の変」後の織田家中の争いで積極的に動くことができなかったのだ。


成政が身動きが取れない状況は、翌年の「賤ヶ岳の合戦」でも続くことになる。 それほどまでに北陸の地は、信長という重石が無くなったことで上杉軍、本願寺系の一揆といった反織田勢力の蜂起が相次いでいた。


こういった状況のなか、天正11年(1583)3月、柴田勝家は羽柴秀吉によって滅ぼされることとなる。 勝家の指揮下にあった佐々成政は、このとき秀吉軍に降伏した。 しかし、それは表向きのことで、成政の本心はというと・・・。


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翌天正12年(1584)3月、織田家の正統や主導権を巡って「小牧・長久手の合戦」が勃発する。 織田家の簒奪を目指す羽柴秀吉グループと、信長の次男・信雄と徳川家康がタッグを組んだグループとの戦いだ。


この戦いの前後において、佐々成政は秀吉のふるまいをかねてより我慢ができず、満を持して反旗を翻すことを決意した。 こうして成政は「信雄ー家康の反秀吉グループ」に加盟し、仕掛けたのが同年9月の「末森城の合戦」だ。


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☆『戦国ixa』より、奥村助右衛門


☝・・・この「末森の合戦」を扱ったコンテンツとして有名なのが、マンガ『花の慶次』だ。 巻数でいうと1~2の間であり、そこでは、前田慶次の視点にもとづいた末森の合戦が描かれている。


その劇中では、末森城主・奥村助右衛門と前田慶次の友情と奮戦、打算に走りがちな前田利家とそんな夫を奮起させる妻・まつの内助、敵対する佐々成政の武士の意地といったものが描かれており、そしてそれは脚色されたマンガそのものではあるものの、かえって単純化されていて分かりやすく、今日を生きる私たちに戦国時代のロマンを感じさせてくれる。


とはいえこの末森の合戦は、佐々勢が電撃的な侵攻の展開を見せたものの、なんだかんだと前田勢は持ちこたえ、ついには佐々勢を撤退させている。 なお、この時の佐々勢の撤退は堂々たるものであり、敵である前田勢からは称賛の声が相次いだという。


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☆『花の慶次』より、佐々成政


☝・・・わたしが思うに、前田と佐々は大将の器量においてはほぼ互角であったものの、佐々成政はアウェイでの戦いというハンディキャップに加えて、なによりも配下に恵まれていなかった。 成政の配下である神保氏張が、後詰阻止の任務を帯びて要所に陣取っていたものの、結局は前田勢の援軍を許してしまったという大失態があり、それがこの戦いの帰趨を決定づけたのだ。


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このように、佐々勢は「末森の合戦」で敗退した。 とはいえ、佐々本隊は致命的な打撃を受けておらず、自領に籠ってリカバリーを続けていれば、いずれ反撃・再侵攻の機会が訪れる・・・そのような希望的観測があった。


だがしかし。


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☆『戦国サーガ』より、姫化した織田信雄


☝・・・織田信長の次男・信雄はホームラン級のバカ殿だった。 もちろん彼には彼なりの思惑があったのだろうが、「小牧・長久手の合戦」「末森の合戦」など、多くの仲間が血を流して戦線を構築しているところを、同年11月、信雄は秀吉の口車に乗って単独講和を決めてしまったのだ。


こうして、この戦いの名目上のリーダーが戦いをやめた以上は、徳川・佐々ともに戦いを続ける理由がなくなってしまったのである。


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☆『信長の野望』シリーズより、佐々成政


成政 「ちょっと! ちょっとちょっと!!」(ざ・たっち風)


☝・・・こうした状況の激変を受けて、信雄ー家康グループとは隔絶された越中国の佐々成政はいてもたってもいられず、こうして敢行されたのが、かの有名な「さらさら越え」だ。


ときは天正12年(1584)の11月。 11月といってもこれは旧暦なので、現在の暦に置き換えれば厳冬期に当たる。 そんな登山道、登山装備ともに未発達な戦国時代に、佐々成政は命を賭して3000メートル級の山脈を二つ越え、家康と直談判するためにはるばる浜松まで赴いたのだ。


ただし、この成政の「さらさら越え」は、世に知られるきっかけとなった書物が『甫庵太閤記』という信ぴょう性が低いと見做される史料に書かれていること、辿ったルートの詳細な記録が残っていないということから、学術的には伝承通りの「さらさら越え」があったと断言することはできず、古くは江戸時代から疑問の声が上がっていた。 


なお、信頼できる史料でも、成政のこの件は 「上下信州を通る」 の一言で書かれているため、真冬のアルプス越えの真偽について白黒はつけがたい。


とはいえ、ルートは不明なものの、佐々成政がこの時期に徳川家康との会見のために浜松を訪れたことは確かであり、「さらさら越え」のルートはすでに修験者や忍者が利用する山道としてある程度の整備がされていたといった史料的な形跡があることなどから、「さらさら越え」はあったと個人的に信じたい。


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☆『グーグルマップ』より


☝・・・佐々成政が敢行したといわれる「さらさら越え」。 グーグルマップの航空写真を見れば、越中と信濃の国の間には北アルプスと称される険しい山脈が二つ並んでいるのが分かると思う。


それを、今からおよそ400年以上もの昔に、しかも厳冬期にこういった二つの峠を越えるということがどれほど大変なことなのかは、こんにちの文明の恩恵を享受しているわたしにはとても想像ができない。


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☆『戦国ixa』より、佐々成政


何事もかはりはてたる世の中を しらでや雪のしろくふるらん
~佐々成政~


この「さらさら越え」の復路で詠まれたとされるこの句は、時を超えて、成政の人となりや、そのとき彼が感じたであろう万感の思いが伝わってくる。


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年4月12日金曜日

【ixa/日本史】濃姫さんを引く!~キャラ絵小話・濃姫編~

ixa/日本史コラム




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関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/02/ixa_22.html
キャラ絵小話~祥鳳さん編


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☝・・・Σ(`・ω・´)


おっ、NEWカード。 濃姫さんが再び「極」としてリリースされたんですね。


スキル名は「鵺の接吻」。 濃姫さんを「ぬえ」と言ってしまうところに若干の違和感は感じますが、ゲームとしてなかなか面白いスキル名ですねえ。


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てゆうか!




☝・・・面白いスキル名といえば、最近リリースされた彦姫さんのスキル名「カタストロフ」も相当変わっていて(→ 「IXA」において、これまでカタカナ表示のスキルは無かったですよね?) それで驚きましたよねえ。


新プロデューサー氏の意向が反映されているのか、「IXA」におけるスキルの言葉チョイスも少しづつ変わってきているみたいで・・・。 いっそ、先の濃姫さんのスキル名も「鵺のキッス」でええかったんちゃう?w


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☝・・・なお、「鵺の接吻」のスキル効果(レベル10)は、現時点でwikiにその情報は載っておらず、よくわからない。 有名な別の攻略サイトを参照したところ、発動37%、防御UP39%、速度UP35%とのことらしいですが・・・スキル効果には「防御効果は武将ランクで変化」とあるので、防御UP率の上限は39%よりももう少し高く設定されていそうですが・・・どうなんでしょうね。


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☝・・・ところで、新濃姫さんのイラストを担当されたのは影井由宇さんという方だ。


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☝・・・影井由宇さんは新進気鋭の絵師さんなのかな、どのキャラ絵もステキですね。 とくに、人物の心のありよう・・・それもマンガ由来の表情ではなく、微妙なニュアンスでの描き分けをされていて、そこがまたイイですね。 今後の新カードにも期待です!
(^ω^)b


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そういえば、ここ最近、「IXA」ではマイナーな姫が次々とリリースされるなか、濃姫さんはメジャーな部類であるといえますよね。


濃姫さんといえば戦国の覇者・織田信長の正室として、歴史に関心のある人ならば知っていることでしょう。 ここからは濃姫さんについて、個人的に通説のおさらいをしてみようかな。


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【ここから日本史の話題】


☆『千万の覇者』より、帰蝶


☝・・・濃姫は「帰蝶」という名が本名のようで、❝美濃から嫁いできた姫❞ということで通称「濃姫」と呼ばれた。 彼女の生年は天文4年(1535)とされていて、天文17年(1548)、数え15の時に信長と結婚したと言われている。


ちなみに「数え年」とは、生まれた年齢を1歳とし、正月元旦にひとつ年を重ねるという、我が国古来の年の数え方だ。


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☆『戦国ixa』より、斎藤道三と小見の方


☝・・・そんな帰蝶の父は斎藤利政(のちに剃髪して道三と改名)、母は小見の方だ。


帰蝶が信長に嫁ぐことになったいきさつはこうだ。 当時、のちに道三の名で知られる斎藤利政は、えげつない手練手管で下剋上を達成した。 そんな斎藤家を周囲の大名は危険視し、逆徒討伐ということで包囲網が敷かれ、対斎藤の共闘が行われていた。


斎藤家は多方面から刃を向けられ、一大ピンチに陥る。 そんなところ、利政は包囲網の一角を崩すべく、織田家にへりくだる形で、大切な一人娘・帰蝶を添えて和睦を申し込んだというわけだ。


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☆『戦国ixa』より、織田信秀と平手政秀


☝・・・結果、織田家(弾正忠家)はこの和睦を受け入れることになるのだけれども、それにはいささか勇気が必要だったことだろう。 なんせ斎藤利政(道三)は悪党であり、国の秩序を乱す張本人で、ハッキリ言ってしまえば謀反人だからだ。


主家の斯波家、織田大和守家からのプレッシャーもあっただろう。 しかし、信長の父・信秀は重臣の平手らと相談をし、あえてこの和睦を受け入れることにした。 その決定は反斎藤で一致していた周囲を大きく驚かせたことだったろう。 斎藤家はこの和睦・婚姻によって敵を絞り込み、反撃を開始し、やがて美濃一国を平定することになる・・・。


信長の実家・・・織田弾正忠家とは、この時の婚姻をもって伝統的な秩序体制から飛び出して、下剋上を是とし、戦乱の世の統一戦に事実上の名乗りを上げたと言えるだろう。


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☝・・・さて、こちらは嫁に行くと決まった帰蝶である。


現代になって創作された小説などと違って、帰蝶が歴史史料で語られる期間はごくごく短い。 その最大の見せ場が婚礼直前の実家の場面で、帰蝶は父・利政(道三)から懐剣を手渡されてこう会話する。


利政「婿どのが評判通りのうつけだったなら、この短刀で…わかっているな」
帰蝶「逆に、その刃はお父様に向けられるかもしれませんよ」
利政「フフ、それでこそわが娘だ」


・・・この場面はなかなかニヤリとさせられますよねえ・・・w


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☆『戦国姫譚Muramasa』より、濃姫


☝・・・前述のとおり、通説において帰蝶の登場するシーンは数少ない。 帰蝶が信長に嫁いで濃姫と呼ばれるようになり、それから数年が経っていた。


天文23年(1554)、濃姫の父・斎藤利政は剃髪して道三と号し、隠居することになる。 実は、道三は隠居などしたくはなかったものの、やはり道三の権力は下剋上による正当性のないものだったためか、美濃の国では反斎藤の騒動が相次ぎ、国を治めきれない状態になってしまっていた。 それでやむなく当主の座を降り、事態の沈静化を図ったという背景であったらしい。


道三の嫡子・義龍は美濃守護・土岐氏の血を引く者だという噂が広がっており、美濃の保守層からは支持が集まっていた。


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☆『千万の覇者』より、斎藤義龍


☝・・・やがて美濃の斎藤家を舞台に、骨肉の相克劇が幕を開ける。 義龍は異母弟二人を謀殺したうえで、最後の仕上げとばかりに父の道三に襲い掛かる。 このとき、義龍の兵1万7500に対して、道三が集めた兵は僅か2500と、それほどまでに両者の人望には差が開いてしまっていた。


道三は戦上手とうたわれていたものの、兵力に圧倒的な差があってはまともな戦いなどできやしない。 こうして、美濃のマムシと恐れられた下剋上の体現者は、「長良川の合戦」であっけなく討ち取られた。


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☆『千万の覇者』より、帰蝶


☝・・・以上の流れを踏まえたキャラ絵がこちらだ。 帰蝶こと濃姫は、かつて父から渡された懐剣を見つめ、改めてその想い出を反芻する。


「斎藤は下剋上の成り上がりの家。 お父様のご意思はわたしと夫・信長とで引き継ぎます・・・」


こうして濃姫は心強い後ろ盾であった父を失い、実家とは敵対関係の状態となってしまうのですが・・・。


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☆『千万の覇者』より、濃姫


☝・・・せっかくお話が盛り上がってきたというのに、それからの濃姫が史料で語られることはパタリと無くなってしまう。 その理由はいくつか推定されていて、


1.斎藤氏は織田氏の敵となったので、斎藤氏出身の濃姫は実家に帰された
2.子供ができなかったので、それで離縁された
3.いずれかの時点で病死した


☝・・・このように推定されているものの、ありていに言えばよくわかっていない。


なお、先ほどの推定の中に実家に帰された/離縁されたというものがあるけれども、それについての信ぴょう性は低そうだ。 というのは当時、いっぱしの大名クラスの奥方ともなると非常に身分が高いものとされており、仮に敵方になったり、あるいは子供ができなかったとしても、おいそれと追い出すことは普通しなかったからだ。


なによりも「本能寺の変」の際、「安土城に 女主人 がいて、そこでいろいろな指示を出していた」という記録もあることから、その女主人とは濃姫のことを指しているのでは?とも推定されている。 その線から考えれば、濃姫は史料に残らなかっただけで、普通に大名の御台所/奥方として、織田家中における女性のトップとして君臨していた可能性も大いにありそうだ。


しかし、いずれにせよ決定的な史料があるわけではなく、「濃姫の動向は不明だ」というのが正確な言葉の使い方だ。


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濃姫の動向について、後世の歴史家が歯がゆい思いをするのは、ひとえに『信長公記(しんちょうこうき)』を記した太田牛一にその責任がありそうだ。


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☆『千万の覇者』より、太田牛一


☝・・・牛一ははじめ弓に秀でた武士として、信長の親衛隊の一員としてそのキャリアをスタートさせた。 やがて牛一は中年になってからは筆働き・・・「右筆」の職(主人に近侍し、命令伝達の文書作成を主な仕事とする職)を務めることとなる。


やがて訪れる「本能寺の変」。 周囲は気づく、失ってはじめて、信長という英雄の存在の大きさを。


牛一はその半生を信長の側近として過ごしてきたことで、誰よりも信長について詳しく知っているという自負があった。 そんな想いが、牛一に信長の生涯を記すという大仕事をさせる原動力となった。 かくして晩年の牛一は、かつての忘備録や独自の取材などをもとに、個人的な事業として『信長公記』を書き綴ることとなる・・・。


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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した太田牛一


☝・・・そんな熱い気持ちで『信長公記』・・・のちに16巻にもわたる大著を記した牛一ですが、信長の正室である濃姫の記述は、婚礼のときに「道三の息女」として一度登場するだけで、それ以外は驚くことに一切ない。


また牛一は、濃姫だけでなく、織田家嫡男・信忠を生んだ側室・生駒夫人(吉乃)のことも含めて、信長の女性関係については基本的に記していない。 信長の母・土田御前についてもそうだ。 これはいったいどういうことだろうか?


・・・思うに、これは主人に対する礼儀であったのだろうか。 どうも日本の中世時代とは、そういった憚り/遠慮の意識があったようで、「家の奥(内情)のことは、よほどの事件が無い限りは書かないし、記さない」ことがマナーでありルールであったようだ。


わが国の中世の女性について、極端な話、名前すらも判明していないという理由は、こういった当時の社会的通念が背景にあるのだろう。 ハレとケ、表と裏、男と女。 記すべきところと、伏せるべきところ。 ・・・そういったいろいろな不文律に中世の日本人は従っていたのでしょうね。


となると、やはりというか、『信長公記』は一定の編集をされているということになる。


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☆『戦魂~SENTAMA~』より、濃姫


「家の奥のことについては、基本的に記さない・・・これが中世日本のデフォ」


・・・だとするならば、濃姫は織田家の御台所としてふつうに活動していたのだろう、後世の私たちからは見えにくいものの。 そう伺える伝承がいくつか思い浮かびます。


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☆『千万の覇者』より、千代


☝・・・そのひとつが山内一豊の妻・見性院、通称千代のエピソード・・・「鏡栗毛」の一件だ。


このエピソードは有名なので、要点を4行にしてここでは記述しよう。


1.天正年間の中ごろ、織田領内に軍馬(それも名馬)を売りに来た商人が居た
2.山内一豊はその馬を欲しがったが、とても高くて買うことは諦めた
3.そこに妻・千代が登場し、ヘソクリで夫のためにその馬を買ってあげた
4.のち、信長がこの一連の話を耳にし、特に妻の千代を高く評価した


☝・・・こういったものだ。 なんと信長は、陪臣(山内一豊は羽柴秀吉の家臣)の内情も把握していたというのだ。 戦国一忙しい男といっていい、あの信長がこんな些末?なことも耳に入れているのですよ? いやはや恐ろしい。


その情報源はどこなのだろうか? ・・・「軍馬を買うのに、奥さんのなけなしのヘソクリを使ってやっとこさ購入した」・・・ こんなことを一豊が言いふらすワケがない。 男として、一家の主として恥だからだ。 だから、このエピソードはまず女房衆の噂として広まったのだろう。


その噂を、織田家中の女房衆のトップ・濃姫が耳にする。 そして、「その武士の女御・・・出来た女ですね、ぜひ褒章を与えなければ・・・」 こう考えて忙しい信長にこの話をし、褒美を与えるように図らったのではないだろうか。


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つぎに、信長の奥方が噛んでいるように思われるエピソードが以下だ。


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☝・・・こちらが、信長が寧々(羽柴秀吉の妻)に宛てて書いたとされる書状だ。 この書状にまつわるエピソードも有名なので、こちらも端折って4行でご説明しよう。


1.信長が秀吉を大抜擢。 秀吉は城持ちの身分となり「女狂い」となる
2.寧々は夫・秀吉の所業を大いに怒り、やがて信長に直訴する
3.信長、書状で双方をたしなめる
4.秀吉ー寧々夫婦、破局の危機を回避する。 めでたしめでたし


☝・・・こちらについては、信長の部下の女房に対する思いやりの一面が現れたエピソード・・・いわゆる「信長、実は優しかった説」を代表するものとして知られている。


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☆『戦魂~SENTAMA~』より、ねね


☝・・・先ほどのエピソードは実に美談で、なんの文句のつけようもない。 しかし、ここでは美談としてただただ受け入れるのではなく、少し立ち止まって考えてみよう。


それは、日本の中世とは、たいへんな身分意識のある時代であったということだ。 いくら信長は秀吉のことを目にかけていた部下だとはいえ、その女房と信長が直に書状のやり取りを行うなど、通常考えられないことだと言える。


夫・秀吉の浮気について、直々に信長と相談をする寧々・・・。 普通に考えると、これは信長と寧々とがただならぬ関係にあったということになる。


しかーし! このブログではオカルト説を垂れ流すことはしたくない。 健全な可能性としては、寧々が夫・秀吉の問題行動の相談をまずしたのは、信長の正室・濃姫ではなかっただろうか。


濃姫は秀吉という武将が織田家にとって役に立つ人材だということ、そしてその女房・寧々もひとかどの女性だということを査定して、そのうえで信長に口添えをし、結果、あのような書状を出すように信長を動かしたのではないだろうか?


もちろん、これは個人的な想像であって裏付けがあるワケではない。 ただ、信長は自身も軍務・政務で東奔西走する、戦国一せわしない武将だ。 信長がやけに部下の家庭の内情に詳しく、その裁定まで行っていたというのは、濃姫をトップとした女房衆による情報収集の体制が確立されていてこそ可能だったのかもしれませんね。


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歴史の事実、あるいは歴史の事象について、後世のいま(2019年)から見て解っていることばかりが全てではない。


濃姫もまた、その実像は霧にかかって見えない状況にあるものの、織田家・女房衆のトップとして、彼女もまた夫・信長をサポートしていただろうことは想像に難くない。 そう考えれば、濃姫もまた「天下布武」の立派な一員だ。


そんな濃姫に思いを馳せつつ、今回はこれにてお開きにしましょうか。
(*´ω`)


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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2019年3月21日木曜日

【時事/日本史】キャラ絵小話~戦国期の大地震について!

時事/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/03/blog-post_9.html
ウシジマくん完結と、ダークな歴史人物について!


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☝・・・そういえば、東日本大震災が起こって はや8年が経ちましたね。 今回は、これにちなんだ話を・・・。


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☝・・・わが国・日本の歴史を紐解くと、地震のことは古くは記紀に「なえ/なゐ(い)」として記されており、いにしえの時代より避けられ得ぬ自然災害として恐れられてきた。


大地震は歴史的にみて繰り返し襲ってくるものであり、なかでも「巨大地震」クラスの震災は、おおよそ1世紀に1回程度の間隔で発生してきたことが地震史学の研究によって分かってきている。


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☆『千万の覇者』より、織田信長


☝・・・なお、信長の生きた期間においては、特筆されるような大地震は無かったとされている。 同時代には筆まめな武将・公家・僧侶・文化人たちが日本各地で活動しており、彼らの残した史料に大地震の記録が見当たらない以上、無かったと考えるのが妥当だ、といったことがその理由だ。


しかし、信長が亡くなったしばらく後、日本史上屈指の地震が起こることとなる。


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【天正地震】
それが天正13年(1585)の11月に起こった大地震「天正地震」だ。 天正といえば信長の創り出した時代であるが、彼はすでに3年前、「本能寺の変」によって他界している。


推定されている震源地は日本中部。 飛騨か美濃の国あたりで、マグニチュードは7後半~8程度ではないかと言われている(諸説あり)。 これは内陸地震としては相当大きな規模であり、平成30年(2018)9月に起きた北海道地震のマグニチュードが6.7だったことを考えると、ひときわ大きな地震であったということが分かると思う。


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☆『戦国IXA』より、内ケ島氏理


☝・・・天正地震についてのエピソードで有名なのが、「帰雲(かえりくも)城と内ケ島氏の滅亡」だ。


稀に見る大地震は山々を激しく揺り動かし、至る所で土砂崩れが発生。 とりわけ帰雲山では大規模な山体崩壊となって、飛騨の国・白川郷を主な領地としていた内ケ島一族は城もろとも土砂に巻き込まれて滅亡してしまったのだ。


あるいは別説では、地震発生 → 山崩れの土砂が谷を埋める → 自然ダム湖ができる → のちに決壊して鉄砲水が発生 → その洪水に巻き込まれて滅亡 ・・・という説もあり、そのあたりは判然としていない。


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☝・・・『グーグルマップ』より、岐阜県帰雲山の崩落現場。 ご覧いただいたように、ネット上の航空写真においても、天正地震によってできた山の傷跡が今日でもハッキリと見て取れる。


なお、滅亡した帰雲城には鉱山開発によって得られた金銀が蓄えられていて、それらも災害と同時に失われたのでは?と推測されることから、いわゆる埋蔵金伝説となっている。


埋蔵金伝説にはロマンがあるものの、いかんせん、肝心の帰雲城の場所がまるでわかっていないということもあり、本格的な調査はされず、手つかずのままに放置されているようだ。


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☆『戦国IXA』より、山内一豊と千代


☝・・・天正地震について話をすすめよう。 帰雲城のほかに、この地震で知られているエピソードがある。 それが山内一豊・千代夫婦の被災だ。


そのころ、山内一豊は羽柴秀吉の部下として徐々に出世をしだした時期で、当時は近江の国・長浜の城主となっていた。 そこに大地震が起こり城は倒壊、一人娘の「よね」が巻き込まれて亡くなってしまったのだ。 記録によれば、揺れにより城の屋根が大幅にズレて建物が崩壊してしまったという、それくらいの規模の地震だったそうだ。


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☆『戦魂~SENTAMA~』より、千代


☝・・・山内夫妻にとってよねは結婚8年目にしてようやく授かった愛娘で、それゆえに亡った悲しみもひとしおだったことだろう。 以降、彼らの間に子供は授からず、千代は捨て子の「お拾い」を、よねの生まれ変わりとして大切に育てることになる・・・。


このように天正地震とは、飛騨の国で山の大規模崩壊があったかと思えば、近江の国・長浜でも城が倒壊するほどの揺れ(→震度7相当)が観測され、また、北陸地方・日本海沿岸や伊勢湾・太平洋沿岸でも津波があったという史料があるなど、通常の内陸地震では考えられない規模の地震だったようだ。


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☆『戦国姫MURAMASA』シリーズより、姫化したルイス・フロイス


☝・・・「天正地震」の激甚な被害があまりにも広範囲にわたっているあたりに、一部の学者はその史料の信ぴょう性を疑っているようだ。 とはいえ当時、日本各地で情報収集を行っていたイエズス会の宣教師たちがその被害を見聞きし、それを文筆の鬼才、ルイス・フロイスがまとめて正式な報告書にしている以上、そういった事実はあったものとして受け止めるしかないだろう。


いずれにせよ、天正地震とは、私たちが知っているパターンのものとは大きく異なる巨大地震であったことは確実だ。


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【慶長の大地震】
天正地震につづいてご紹介するのは「慶長伏見地震」・・・通称「慶長の大地震」だ。 秀吉の伏見城が倒壊したことで知られている大地震で、いわゆる戦国時代(正確には安土桃山時代)に起きた地震としては、こちらのほうがダントツに知名度が高いだろう。


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☆『千万の覇者』より、豊臣秀吉


☝・・・地震が起きたのは文禄5年(1596)閏7月7日の深夜。 震源地は摂津の国、現在の宝塚市のあたりで、マグニチュードは7.5前後と推定されている。


あれ・・・なんとこの地震、「慶長」の名を冠するわりには、実は「文禄」年間に起こっているじゃないですかー! @@; なんちゅう誤解を招きやすい名称だ・・・。 しかも、震源地は伏見直下ではなかったのですね。


なお、平成30年(2018)6月に起こった「大阪北部地震」はテレビの報道などで「慶長大地震の再来」とも言われていましたが、地震考古学からすればそれは別の地震であると考えるようだ。 むしろ、慶長の大地震の再来といえば、平成7年(1995)1月に起こった「阪神淡路大震災」の方が当たっているのだとか。


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☆『しろくろジョーカー』より、豊臣秀吉


☝・・・慶長の大地震は、新築したばかりで豪奢を極めた伏見城を無残にも倒壊させた。 秀吉や寧々といったVIPは一難を逃れたものの、城に詰めていた侍妾700人が圧死したと、ある文献にはそう書いてある。


その時の史料の一つを引用してみよう。


❝慶長元年閏7月7日、大坂に於いては午後8時より始まり、閏7月12日の夜半、一層甚だしく、事急にして人々家を出る暇なく、瓦の下に埋まれる者多し。 太閤殿下の宮殿は大廈高楼尽く壊れ、彼の千畳屋敷、並びに城櫓2か所倒れたり。 ・・・地震は半時間ばかりにして止み、死せる者600余人、・・・瓦礫の下に敷かる。 此の地震の起きるとき、大地鳴動し、恰も大海の翻り、巨濤の岸に触れて崩るるが如くなり。 云々。❞


・・・一部通説とは矛盾する内容を含んでいるものの、なかなかに実況的でリアルな文章描写であるね。


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なお、大地震で怖いのが沿岸では津波、内陸の都市部では火災だ。 この時代、各家庭で使われるエネルギーは炭や薪といった時代であり、火種が町・城内の至る所にあった。


しかし、伏見城とその城下では、幸い大火事には至らずに済んだようだ。 地震の発生したのが閏7月と、暖を取る必要のない季節だったおかげもあるだろう。 それなので秀吉は城内の庭に屏風・陣幕を張り、屋根からの落下物の心配のない場所に仮の宿をしつらえて、余震の続く不安な一夜を過ごしたという。 このエピソードは熊本地震でテント生活をした人々の話を彷彿とさせて、なかなか興味深いですね。 人の心理・行動は時代が変わろうとも同じなのだな、と・・・。


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☆『のぶニャがの野望』より、キャットう清正


☝・・・なお、この非常事態に活躍したのが加藤清正だ。 彼は朝鮮の役のいざこざで謹慎処分となっており、本来は外出禁止のところを、 「すわ、お家の大事!」 と迅速にガレキ撤去隊を組織して救出に向かったのだ。 その際、後から来た石田三成とその配下を伏見城に入れさせず、妨害することを怠っていない。w こういった意地の張り合い・足の引っ張り合いも、傍から見る分には面白いですね。


また、この震災で伏見城に一番乗りを果たしたのは細川忠興であったようですが、2番目に登城した清正の方が名を挙げている。 彼のこの時の活躍ぶりは「地震加藤」という通り名で称賛され、非常時にこそ活躍することで秀吉への忠誠心を示し、その信頼を勝ち得たのだ。


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☆ゲーム『ワイルドカード』より


☝・・・ところで、さきほどの「慶長大地震」というのは、いくつかの前兆とも思える奇妙な現象が観測されている。 なんでも、大地震の2週間前から燃えるような赤い彗星が現れ、大坂の町に灰が降った、などといったことがあったというのだ。


もっとも、降灰は浅間山の噴火によるものと考えられ、もう一方の燃える彗星と大地震との因果関係は、科学的な見地からは否定される。


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☆官公庁のサイトより、中央構造線の図


☝・・・それよりも重要なのは、この「慶長伏見地震」の3日前には伊予の国で大地震が発生していて、その2日後(慶長伏見地震の前日)には豊後の国で大地震が発生していて、その際には別府湾に大津波が押し寄せ、いくつかの島が消滅したと文献にはある。


つまり、伊予・豊後・伏見のこれら3つの地震は一つのセットであり、西日本の中央構造線がジワリと活動した結果の出来事だと言えるだろう。


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☆サイト『痛いニュース』2011年3月の記事より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1607172.html


☝・・・記憶に新しい東日本大震災でも、本震である宮城沖のマグニチュード9.0が起こった約30分後に茨城沖でマグニチュード7.6の地震が、そして数日以内に長野県、そして富士山直下で震度6の地震が起きるなど、東日本のあちこちに局部大地震が起きている。


気象庁の公式見解ではこれらの地震(→ 長野、富士山直下地震)は別個のものであり、東日本大震災との関連性は無いと言っているようだが、そんなバカな話は無いだろう。


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おっと失礼、当時の非常時の雰囲気がよみがえり、ついトゲトゲしい物言いになってしまったようだね。


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過去の延長に現在があり、そして未来へとつづいていく。 過去の大地震を知ることとはすなわち、未来に起こる地震への備えとなるハズだ。 まったく同じ災害は起こらないけれども。


わたしたちは、運悪くも「千年に一度の大地震」に見舞われた歴史の生き証人だ。 だからこそ折に触れ、みんなで少しでもそれについて語っていきたいものですね。


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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