2019年4月23日火曜日

【日本史/サブカル】そらと曽良!~芭蕉忍者説について~

サブカル/日本史コラム


関連する前回
https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/03/blog-post_9.html
ウシジマくん完結と、ダークな歴史人物について!


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


たまにはライトな話題でも、と思って今回のお話は。







☆サイト『痛いニュース』2019年4月20日の記事より
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1989526.html


☝・・・ふーん。 (`・ω・´)


女優さんの希望とか、要望といったものが通る業界なんですね。 とはいえ、個別にその対応は違ってくるんでしょうけど・・・


それはそうと、今回わたしは何もAVの話をしたいというのではない。w わたしが今話題にしたいのは、














☝・・・今回お題にするのは「そら違い」の、曽良こと「河合曽良」です! w


画像手前が言わずと知れた俳句の神様・松尾芭蕉で、その後ろで編み笠をかぶっている方の人ですね。 そう、曽良とは芭蕉の有名な弟子として知られている人物のことです。









☝・・・さて、そんな曽良の師匠である松尾芭蕉について、みなさんはこんな都市伝説を聞いたことがないだろうか?


それが「松尾芭蕉、実は忍者だった説」で、歴史好きの人ならきっと一度は見聞きしたことがあるハズだ。


その説を4行でいうと、


1.松尾芭蕉の生まれは伊賀の国。 だからきっと忍者だ
2.芭蕉たちの『奥の細道』の旅は、実は密偵調査の旅だった。 理由は以下。
3.芭蕉一行の旅程が尋常でない。 体力ありすぎ。 特殊訓練を受けた忍者だからだ
4.旅のルートに不可解な点あり。 隠密行動だからだろう。 すなわち、忍者である


☝・・・うーんw こうして4行にしてしまうと、この説がいかに強引なものであるのかということが分かってしまいますねえ・・・w このように、都市伝説とかオカルト説というものは、えてして強引なこじつけ・関連付けといった、主観的な傍証を重ねて成り立っていることが解ると思う。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


しかし、わたしがここから話を展開するのは、まぎれもなく「芭蕉、実は忍者だった説」を 肯定 するものだ。


そのキーとなるのが、芭蕉の有名な弟子・曽良なのである。 まずは、曽良と言う人物の生い立ちから、芭蕉と出会うところまでのことを述べてみよう。









☝・・・曽良の生年は慶安2年(1649)、信濃の国・上諏訪で生まれた。 父は高野七兵衛という人物であったらしい。 どうも曽良の家庭は「ワケあり」だったらしく、またその家庭では不幸が続き、彼は親戚の家を転々としたのち、12歳からは伊勢長島の大智院という寺に引き取られて、そこで成人した。


成人して河合惣五郎と名乗った曽良は、やがて伊勢長島藩に仕えることになる。 孤児として寺で育てられたのだから坊主にでもなりそうなものの、これは不思議なことだ。 曽良の実家、あるいはその養家が武士の身分だったのだろうか。


ところがどういうわけか、河合惣五郎、のちの曽良は30歳で藩を辞して、やがて江戸に上がり、いわゆる遊学生活をするようになる。 彼の師となったのは吉川惟足(きっかわこれたり)という人物で、そこで惣五郎は神道、国学、和歌、地理、歴史を学んだと言われている。


そして訪れる、芭蕉との邂逅。 天和3年(1683)、惣五郎35歳のとき、甲斐の国で彼は芭蕉と出会い、そこで入門をしたようだ。 新たに名乗った、惣五郎の俳号・・・「曽良」とは、「彼の育った伊勢長島の土地に流れる木川と長川、それらの川の一字づつを取った」ことが由来だと伝わっている。







どうだろう。 ここまでが曽良の半生についての通説ですが、そこからは曽良が忍者であったという根拠を見出すことはできない。 ただ、江戸時代の孤児がどうして藩士になれたのか、そしてせっかく藩士となったというのに、どうして家を守ることをせずに遊学、そして漂泊同然の道を選んだのかといった、どうも不可解な部分が目立って見える。


実は、この曽良の半生における不可解な行動は、晩年のとある行動に結び付くことになる・・・。







それが、芭蕉が亡くなったのちの、曽良の晩年の頃である。 宝永6年(1709)1月、曽良は幕府役職の「巡見使」の一人に任命されている。







☆サイト『コトバンク』より
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%A1%E8%A6%8B%E4%BD%BF-78589


☝・・・「巡見使」とは、「江戸幕府が諸国に派遣し、地方の政情・民情の視察にあたらせていた役人」とある。


これは決定的なことで、もうこれ以上の議論は要らないだろう。 江戸時代は「お役人様!」の時代である。 曽良とは、俳句が趣味の単なるおっさんなどでは決してなかった。 巡見使に任命されるということは、幕府が一定の信頼に足ると認めた人物であるということであり、つまり曽良とは、そういった視察に関する任務の実績があったということを示唆している。


その実績とは、他ならぬ『奥の細道』であったろう。 つまり彼らの旅とは、「俳諧師を表芸とした密偵活動」であったということだ。









☝・・・どの時点で曽良が幕府の命を受けるようになったのは定かではない。 けれども、彼が不自然に藩を辞して江戸遊学をしているあたり、その前後から幕府と接触するようになったのではないだろうか。


そうなると曽良が芭蕉と出会う前の時点ということになり、もともと密偵/忍者であったのは芭蕉ではなく、実は曽良の方だったということになる。 『奥の細道』での密偵業務については、曽良が主導したのだろうか。


・・・こういった考察はなかなかに面白いですが、これ以上は根拠に欠ける空論になってしまいそうなので、このあたりで引き揚げるとしようかな。


以上、「松尾芭蕉、実は忍者説」・・・実はそいつは少し誤りであって、「弟子の曽良こそが忍者だった説」・・・でした!







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【ちょこっとサブカルの話題】


そういえば、忍者といえば、今でも「忍者もの」としてサブカルの分野で高い人気がありますよね。


その代表的なものに「少年ジャンプ」の「うずまきナルト」シリーズが挙げられるだろう。




☝・・・でも、このマンガを読んでいても、 「忍者らしくない・・・ぜんぜん❝忍んで❞ねえじゃんかよ・・・」 などと思ってしまいますねえ、個人的に。 単なるバトルアクション漫画と見れば面白いんですけれどね。 ま、少年誌のマンガに大人がそういったツッコミを入れることがナンセンスかな・・・w







そんなところ、面白いと感じる忍者マンガがある。 それが「ヤンマガ」に連載されている花沢健吾さん作の「アンダーニンジャ」だ。




☝・・・さきほどの少年マンガとは違って、こちらに出てくる忍者はちゃんと❝忍んで❞います。 てゆうか、忍びまくっています。 そのあたりがツボなんですよねえ。 それと、マンガに時おり挿入される小粋な述懐文章。


関連で、作家の西尾維新さんは「忍」について、「刃の下に心あり・・・」と言ってましたが、まさに忍び/忍者とは、そういった精神を体現した人たちなのだなー、なんてこのマンガを読みながら思い出したりして、妙に感心してしまったり。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


おおっと、なってこった。 今回はライトに話題を展開するつもりが、今回もまたくどくどと話が長くなってしまいましたね。


最後は、芭蕉と曽良とにちなんで、狂歌を一句をしたためて〆としますか。




忍ぶれど 色に出でにけり 曽良とそら
トモ~


・・・お後がよろしいようで・・・逃亡!
(・ω・)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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